十九話 十二月二十五日
十二月二十五日
講義が始まるまでまだ十分ほどある。楠木は、浅利が自宅へ来た日のことを思い出し、何か不明瞭な不安と葛藤と後悔を募らせていた。
楠木はあの日、デパートのアウトドア用品店で無骨なサバイバルナイフを買った。浅利がその店の向かい側にあった靴屋に気をとられているうちに、ふらふらとそのナイフを手に取り、気が付けば購入していた。
その行為には理由はなかった。明確な意思を持ってその凶暴な武器を手に入れたわけではない。なぜそのようなものを買ったのか、自分でもわからない。しかし、楠木の中の潜在的な意識が、そうするように促したような気はする。
そして家に来た浅利が風呂に入ったのを見て、ナイフを手に取った。それをしばらく見つめてから、そのまま服を脱ぎ、浴室へと入った。浅利からは見えないように、手で隠した。
楠木は、自分はあの時何をどうしたかったのか、あれからずっと考えている。髪を洗う浅利に後ろから近付き、ナイフを背中に突き刺す瞬間を想像した。真っ赤な、あるいは赤黒い血がほとばしり、シャワーから出る水と混じり、排水溝へ流れていく。自分はそうしたかったのだろうかと自問する。自分は浅利を殺したかったのだろうか。
浅利を自分のものにしたいという気持ちは以前から変わりはない。ただ、浅利が九藤の家に行くのを見たことをきっかけにして、言い知れぬ不安が楠木を蝕み始めた。あのどんな彫刻よりも優れた美しさが、九藤という男のものになってしまうかもしれない。
絶対に嫌だ。浅利を手にするのは自分だ。
楠木は焦っていたのだろうか。他の人間のものになるのなら、自分で殺してしまった方がいいと思ったのだろうか。それとも、殺すしか、浅利を欲しいままにする方法はないと考えたのだろうか。
楠木はあの日の自分の感情を上手く思い出せない。このようなことは初めてだ。自分をコントロールできなくなったことなど、今までなかった。
後悔に近い気持ちが胸の辺りからじわじわと這い上がってくるような感覚がある。自分が暴走し、浴室で浅利に拒まれたことは、忘れたかった。
気が付くと、講義の開始まであと五分という時間になっていた。心が落ち着かなくても、とりあえず学校には来ている。どうしてだろう。浅利と過ごした時間が、この校舎の壁や床に染み込んでいると感じているからだろうか。
そういえば、今この大学は新校舎への移行期間へと入っている。朝から教職員がせっせと荷物を運び出しているのを見た。この期間は、来月の中頃まで続く。
一年も過ごさなかった校舎だが、浅利と出会い、サークルに入ったことを考えると、長い間ここにいた気がしてくる。
楠木は時計を見た。まだ三分ほど時間はある。早く講義が始まればいい。そうすれば、少しは気はそれるのだから。
そう思っていると、右隣に誰かが座った。席はたくさん空いているのに、なぜこのような後ろの席のしかも自分のすぐ側に座るのだろうとその生徒の顔を見てみた。
「おはよう。優ちゃん。メリークリスマス」
眼前に、ひしゃげたような醜い物体が飛び込んできた。それと同時に胃液が逆流するような不快感に襲われる。
芝蔵塔子だ。
楠木は視線をそらし、前を向きながら「お、おはよう」と返事をした。
「人、少ないね」
芝蔵は醜い声音でそう言った。楠木は嫌悪感を表に出さないように注意しながら訊いた。
「どうして、ここに?学部が違うでしょう?」
ちらりと芝蔵の顔を見てみる。おぞましいその顔面がにやりと笑った。
「優ちゃんに会いに来たんだよ」
楠木は背筋にぞっと寒気が走るのを感じた。
自分に会いに来たとはいったいどういうことだ。この女は――いや同じ女と思うだけでも汚らわしい――楠木を友達だとでも思っているのだろうか。冗談ではない。こいつと一緒にいるところを浅利に見られたら、恥ずかしすぎて生きていけない。
「そう…」
楠木はそれ以上追求しなかった。あまり会話をしたくなかったし、何故かその答えを聞きたくなかったのだ。
講義開始時間きっかりに、講師は現れた。すぐに出席を確認するカードが回される。
講師は講義を始めた。この講師は話が冗長でわかりにくい。今日も例外ではなく、彼は漫然とした口調で話し出した。
それでも、いつもならばそれによって嫌なことは一時的に忘れることができたはずだ。しかし今のこの状況は、そのような小さな希望も全て消し去ってしまう。
講義が終わるまで、ずっとこの醜い生物の隣にいなければならないのだ。それはとてつもなく憂鬱で、気の遠くなるような思いがした。講義が進んでも進んでも、時間が止まっているかのように感じた。体の右側が鉛のように重くなった気がする。
それに、なんとなく、変な臭いがする。
臭い。この人間は臭い。男の臭いだ。中年の男が発する臭いがする。耐えられない。早く時間が過ぎて欲しい。どうしてこのような仕打ちを受けなければならないのだ。
出席カードが、ようやく楠木の席まで回ってきた。楠木は名前を記入する。すると芝蔵がそれを取り、名前は書かずに「後ろの人に回してくるね」と言って席を立った。
そのわずかな時間だけでも、この責め苦から開放されたことで爽やかな気分になれた。だがそれもすぐにまた暗澹たる汚泥のようなものに変わる。芝蔵が再び席についたことによって吹いた風が、彼女の体臭を乗せて楠木に届いた。楠木は息を止めた。
時間が経つにつれて、教室内の生徒達の私語が多くなる。講師はいつものことだと思っているのか、注意をしない。
「この講義、つまらないね」
芝蔵がしゃがれた声で言った。お前は学部が違うのだから当然だろうと楠木は思った。
「それに、あの先生、気持ち悪くない?」
楠木は無視した。この女が鏡の前に立つと、それらは醜さに耐えかねて全て割れてしまうのだろう。だから彼女は自分の姿を見たことが無いに違いない。
「ねえ優ちゃん」
楠木は、まだ何かあるのか、と舌打ちをしたい気持ちを抑えた。だが、その後芝蔵が放った一言は、楠木の心臓の鼓動を急激に速くした。
「私、優ちゃんの秘密、知ってるよ」
楠木はつい驚いて芝蔵の顔を直視した。芝蔵は笑っていた。そのあまりの不気味さに、楠木は反射的にまた視線を外した。
「ひ、秘密って何?」そのままで楠木は訊いた。
「子供の頃優ちゃんを見ていて思ったんだ。ああ、私と同じだな、って」
楠木は走ってもいないのに、息が切れたようになった。「同じって?」
芝蔵はぐふぐふ、と笑っただけで、何も答えなかった。
いったい何なのだ。どのような秘密を知っているというのだ。同じとは何のことだ。こ いつと同じところなんて自分には何一つない!
まさか――
楠木の頬を一筋の汗がつたった。頭がぼーっとして、熱くなる。自分には決して人には知られてはいけないことがある。
まさか、それを、この女が、知っている?
それから講義が終わるまで、楠木は生きた心地がしなかった。次から次へと汗をかき、何度も芝蔵に言葉の真意を問おうと焦れた。しかし、それを聞くのが恐くて、結局何も言えないままに時間が過ぎていった。
講義が終わり、講師が出て行くと、堰を切ったように教室は騒がしくなったはずだ。いつもならそうだ。だが楠木の耳にはそれは届かなかった。足に力が入らなくて、立ち上がることができなかった。まだシャープペンシルを持つ手が震えていた。
「優ちゃん」芝蔵が楠木の耳元で言った。「また、来るよ」
それからすぐに、芝蔵の臭気が遠ざかっていった。楠木は胸をなでおろすことができずに、精神に真っ黒なウイルスが繁殖していくような感覚に必死に耐えていた。




