十三話 一月二十四日
一月二十四日
このようなことは地引にとって初めての経験だった。死体を生前の姿のまま保存するという仕事を始めて二十年近くになるが、殺人が絡んだケースは未だかつて扱ったことはない。と言っても、地引があずかり知らないところで、そういった殺伐とした出来事が起こっていなかったとは断言できない。毒殺などで殺された人間の死体を渡され、それを知らずに処理を施したことがもしかしてあったかもしれない。
だが、今回は、明らかに殺意を持った人間が、女性の背後から鈍器で後頭部を殴打している。これほど明確な殺害の意思は今までどの死体を見ても感じられなかった。
地引はこれからどうするか、自身の処遇を決めかねていた。そして、あの若者が連れてきた彼女の処遇もだ。
ここ数日は安眠できていない。これほどの葛藤は今まで地引の中にあっただろうか。
かつて、地引は医者をしていた。人の命を救うことが彼の使命であり、存在意義でもあった。そして今は人が死んだ後の、美意識の具現化、『人間』の恒久化を生業としている。それらはいずれも、生きていた時間を称えている。生を肯定しているのだ。
しかし殺人は生命を無視する行為だ。彼女を殺そうとした人間はいったいどういう気持ちでいたのだろう。相手の命を否定したかったのか、それとも自分の命を守るために必要だったのか。
どちらにしても、彼女は美しすぎたのだ。そこに美があったとき、悲劇が生まれる。それは今も昔も変わらない。
電話が鳴った。
地引は睡眠不足の頭をどやしつけるようにして、身を起こした。受話器に手を伸ばし、電話をとった。
「もしもし。地引さんですか?」
今は深夜の二時半。このような時間に、しかも山奥でひっそりと佇むこの地引邸に電話をかけてくる人間は限られてくる。顧客だ。
「ああ、君か」
彼女を連れてきたあの若者だった。
「あの子を保存する作業は進んでいますか?」
若者は気が気ではないのだろう。美しいあの女性が、若者にとって一つの支えとなっているのだ。美は人を縛り、安息を与えるが、決して開放はしない。この若者は美に囚われている。とらばさみで片足を挟まれ、その解決策といえばこの地引に頼るしかない。
「保存する作業ね。進んでいるといえば進んでいる」
「どういうことですか?」
若者の声に焦燥が感じられる。地引は可愛そうだと感じた。この若者は哀れだ。
「一つ訊こう」地引は受話器を持つ手に力を込めた。「あの人が死んだのはいつだ?」
「…一月二十日の夕方…夜です」
「そうか…」
やはり、そうなのだ。この若者はやはり…。
「一月二十日、この日は忘れません。あの子の命日ですから。実際、聖なる日な気がするんですよ。一月二十日。美しいあの子が死んで、そして美しい死体として存在し続ける最初の日。そうですよね?地引さん」
「……」
若者の言葉に地引は答えなかった。
「これから毎年、一月二十日にはあの子とお酒を飲むんです。といってもあの人は飲めないから、酔っ払うのは自分だけです。でもきっと楽しい。新しいあの人が生まれた日なんだから。そうだ。一月二十日は新しい誕生日なんだ」
地引は、若者の声を聞いて決心した。これから自分が行うこと。この若者に対する裏切り。それが人間として最良の決断だと信じている。この若者にとっても、彼女にとっても、それが一番いいのだ。きっとそうなのだ。
「一月二十七日、今度の日曜日、ここへ来れるかい?」
地引は喉につっかかりながらもそう言った。
「はい。何ですか。何があるんですか」
若者の声は疑問に満ちていた。
「それは来れば分かる。これは私にとっても、君にとっても、彼女にとっても、大事なことだ」
「わかりませんが、行きますよ。二十七日ですね」
「ああ、待っている。それじゃあ」
地引は電話を切った。そして大きく息を吸って、吐いた。
頭に浮かんできたことは、やはりこの若者は、哀れだということだった。




