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南九州のある鉄道の路線にはまだ喫煙車両が残っていて、中にはわざわざそれを目的に、遠くからこの地を訪れる愛煙家もいる。時速三十キロメートルで、森林を抜け、透明な川を渡り、山をのぼる。大自然に囲まれて吸う煙草は至上のひと時だ。愛煙家たちは、自身の吐く息が自然の一部であることを、そうした循環の中で生かされていることを、無意識の内に感じ取っている。
タケシとユキは南九州の山荘に泊まる予定で、この列車で四時間かけて向かう予定だった。車両はふたつで、前方が禁煙車、後方が喫煙車。
「ほら見て、後ろの車両」ユキが言った。「窓が黄ばんでる」
「窓、開けないのかな」タケシが答えた。
「知らない」
二人はもちろん前方の車両に乗り、二両目と繋ぐドアからもっとも離れた前の席に座った。
「あのドア―――どうにかならないかしら」ユキが言う。「開いたら、有害な空気が入って来る」
「この席なら、大丈夫でしょ」タケシが答えた。「ずいぶん遠いし」
「ねえ! わたし、鼻がかなり敏感なの知ってるでしょ!」
ユキの口調の強さに、タケシは苦笑いした。
列車が出発し、二人は空港で買った酒やスナック菓子を広げて食べる。空港のレストランはバカ高い上に、味も悪く、二人はむさぼるように食べ、飲んだ。タケシが後方の車両に目をやると、窓の向こうで白い煙がとぐろを巻いていた。
「トイレ、行って来る」タケシは言った。「時間、かかるかも」
「お腹大丈夫? 今日一日ずっとだね」
「宿に着く頃にはなんとかなるさ」
中へ入ると、タケシは便座のふたの上に腰掛けた。真っ白なドアには、大きく「禁煙 No Smoking」という見慣れたプレートが貼ってあり、天井を見上げると黒色の丸いブザーらしきものが取付けてあった。タケシは溜息をついて、ジャケットの内ポケットの中の煙草とライターに手を当てた。
そもそもタケシがユキと出会った頃に、「煙草は吸わない」と嘘を吐いたことから、この二重の暮らしがはじまった。ユキはヒステリックなまでに煙草ぎらいで、映画で喫煙シーンが出てくる度に眉間に皺を寄せ、レストランは完全禁煙の店しか選ばなかった。彼女曰く、分煙の店なんて生ぬるいわ!
それゆえに、臭いはもちろんのこと、煙草を吸ったことのない人の会話に合わせるように、普段タケシはかなり気を使っていた。今回の三泊四日の九州旅行でも、吸わないつもりで、そのぐらいなら我慢できると思っていた。だが、たまたま空港で煙草のサンプルを貰ってしまい、飛行機の出発時刻まで一時間以上あることが解ると、ついに言ってしまったのだった。
「ユキちゃん、ごめん。お腹壊したみたい」