第六話 ☆あとを継ぐ者※
食器を戸棚に片付けて、セバスチャンは住み込み用としてあてがわれている自室へ戻った。ソファに腰掛けると、自然と言葉が漏れる。
「人生か……」
我ながらずいぶん大それたことを。
少々の気恥ずかしさを覚えながらも、先程の主人の様子を思うと感傷に浸らずにはいられない。
ソファに沈むと蘇る。かつて、この吾妻家が賑やかだった頃の、そして寂しくなっていく過程の、苦くも懐かしい記憶が。
セバスチャンはもともと、ジュンイチの母・マリアベルの屋敷の使用人だった。
彼女が結婚する際に、付き人として一緒に吾妻家へやって来たのだ。
親同士が決めた結婚ではあったが、おとなしい息女だったマリアベルと真面目な紳士だった夫・シンジは、大きくすれ違うこともなく、傍目にはうまく生活していたように見えた。
そのうちにジュンイチがうまれ、ますます順調に日々は過ぎていく、かと思いきや。
子をうんだあとマリアベルは体調を崩しがちになり、横になって一日を過ごすことが多くなった。
セバスチャンが見ていた限り、ジュンイチは幼い頃から、喜怒哀楽という感情の起伏が非常に乏しかった。
いろいろなものに興味を示すが、だいたいにおいてすぐにその構造や理念を理解して興味を無くす。
さらには手先まで器用、運動神経も抜群。何をやっても完璧にこなしてしまい、張り合いが無いせいかいつもつまらなそう。
無邪気に子どもらしく遊ぶ姿は想像することすら困難。さまざまな専門書を読み漁り、ひとり部屋で何やらよく分からない実験をする。それが彼にとっての遊びだと示すように。
乳母や使用人達も、はじめこそ「天才だ」「神童だ」ともてはやして、あれこれ手を尽くし彼とかかわろうとしていたが、いかにも面倒くさそうなジュンイチに躱され、大人以上の知能でやりこめられることばかり。いつしかひとり、またひとりと諦めて、必要以上の世話は焼かないことが正義とされるようになっていった。
そんな息子を気にかけて、病床のマリアベルは、よくセバスチャンに漏らしていた。
「息子に何もしてやれなくて悔しい」と。
「私が母親じゃなければ、あの子はもっと……」
「そんなこと! 体調が優れないから悪いほうへ考えてしまうのです。良くなればきっと、空白を埋められますよ」
セバスチャンの励ましも虚しく、長い年月をかけて、彼女の病状はゆるやかに悪化していった。
彼女が自分では起き上がることもできなくなって数ヶ月。もう明日の朝日は拝めないだろうと医師が診断した夜。
寒空の下の枯れ木のようにやせ細ったマリアベルを人びとが悲しみ見舞うなか、
「お母様とお話できるのもこれが最後になるかもしれませんよ」
と、自室から連れてこられたジュンイチは、母の顔をチラと覗き込んで、声色ひとつかえずにこう言った。
「生きものはいつか死ぬよ。足掻いても仕方のないことだ。さようなら。お母様」
一言で別れの挨拶を済ませ、最期を看取る気配すら見せず背を向ける。その表情は、あいかわらずの無表情。
【人はいつか死ぬ】。
それはこの世の理。自然の摂理。だからといって、まだ十歳にも満たない少年が母親の死をそのように理解して受け止めている事実。
まわりの目に少年の姿が冷酷に映ったからと、一体誰が責められよう。セバスチャンとて例外ではない。一瞬にして部屋の温度が下がったように感じられた。
少年が退室し皆があっけにとられるなかで、マリアベルだけはあくまで気丈に、凛と振る舞った。
彼女の心情を察することはできない。泣き喚かず平静を保つ息子を頼もしく思ったのか、別れを惜しむ素振りの無いことを寂しく思ったのか。
ベッドの脇で立ち尽くすセバスチャンの手に弱々しく触れて、
「あの子は少し難しい子だから……よく見ていてあげてね。お願いよ」
と、言葉を残し、マリアベルはまぶたを閉じた。
その瞳が再び光を宿すことは無かった。
マリアベルの死後、別の屋敷に移ろうかとも考えたセバスチャンだったが、結局は吾妻家に残ることを決意。
「何もしてやれない」
と、悔しがっていた彼女に、励ましの言葉をかけるだけしかできなかったことへの贖罪。
「息子が人に関心を持たないのは自分のせいかもしれない」
と、自らを責め立てていた彼女への哀れみ。
「今はああだけれど、いつかきっと、誰かを求めるはずだから」
と、こぼしていた彼女の望み。
ついに最後まで必要とされなかった彼女が、それでも息子の幸せを願った、死に際の約束。
全て自己満足にしかならないが。そこにそっと蓋をする。
もとより、失うものなど何もない。ならば執事であり続けようではないか。
若さゆえの、意地のようなものだったのかもしれない。
そうと決めれば。
セバスチャンは、実の父ですら扱いあぐねていたジュンイチに、つかず離れずの距離で世話を焼いた。
決して踏み込みすぎず、しかし不自由はさせぬよう。
これが正しいのかどうかも分からない。ただ、放り出してはいけない。そんな気がして。
それからさらに時は過ぎ。
ジュンイチが青年となった頃、今度は彼の父、シンジが病に倒れた。
当時まだ治療法も原因も不明の病。その病にかかってしまえば、王族ですら、近づいてくる死の足音をただ震えて待つのみだと言われているもの。
医師に見せても、与えられるのは気休めの薬と不明瞭な希望の言葉だけ。屋敷は徐々に暗い色に覆われていった。
しかしその一方で、日に日に弱っていく父親にジュンイチは珍しく興味を示し、足繁く彼の寝室に通いはじめた。
「ついに坊ちゃまにも人間らしい感情がお芽生えになられた」
使用人一同で諸手をあげたのもつかの間。
ある日の夜半、唐突にジュンイチが使用人部屋へ訪れて言った。
「お父様の病気の原因と治療法を解明した。すぐに外科的手術が必要だよ。執刀は僕がやる。軍の設備を借りよう」
国の研究機関ですら解明できていない病の原因と治療法を見つけた? 医師でもない少年が執刀?
それはまるで異国の言葉。皆は目を丸くして動きを止めた。
「ずいぶん時間がかかっちゃった。もう一刻を争う段階にはいってる。下手をすれば手術に耐えうる体力がお父様に残ってないかも。手遅れになる前にやれるだけやってみよう」
「ま、待ってください。坊ちゃまのおっしゃる意味がよく理解できません」
「きみ達が何を危惧しているのかは理解してる。大丈夫だよ。人間を切った経験はまだ無いけど、動物で練習したし、手順も全部シミュレートした」
できるよ、と自信たっぷりな表情は、これから人を、ましてや父親にメスを入れると言う少年の顔では決して無く。例えるならば、新しいおもちゃを開封する子供のような高揚感を含んで見えた。
だが、有無を言わせぬ眼光には妙な説得力があり逆らい難い。もしかしたら本当に成功させるのではと期待すら抱くほどに。
「……は」
はい。と。
誰もが勢いに飲まれ承知しそうになった刹那。
バタバタと慌ただしい足音が、使用人室に飛び込んだ。
「シンジ様のご様態が急変しました! もう、今にも息を引き取られそうです!」
ジュンイチ含む一同が駆けつけると、シンジはすでに虫の息だった。数分前まではひどく痙攣して泡を吹いていたという。眉間に深いしわを刻む顔色は蝋人形。
集まった者達が輪となり主人を憂うなか、ジュンイチだけは少し外れたところで退屈そうに窓の外を眺めていた。
緊急で呼ばれた医師が診察を終えて、一言。
「順番にお別れを」
それを合図に、堰を切って皆が思い思いの言葉を口にし涙する。老若男女の悲しい合唱に包まれて、吾妻家当主は静かに息を引き取った。
あまりにもあっけない最期だった。
医師による死亡確認が終わったところで、それまで路傍の石に徹していたジュンイチはやっと立ち上がり、別れを惜しむ輪に割り込んだ。
以前まったく取り乱すことの無かった彼は、このときもまた無表情に父親の遺体を見下ろして。
そして、緩慢な動作でシャツのポケットから一本のメスを取り出し――遺体の胸を、切り開いた。
誰にも止める隙が与えられなかった。
シンジの痩せた胸から一瞬にして覗く赤身の肉。
まるでこの為につくられたかのようなメスの一刀。切り口は恐ろしく直線的。肉の奥に隠れる象牙のような肋骨までもが、緩慢ながらも的確なジュンイチのメス捌きによって、外気に晒される。
呼吸も、時間すらも止まった世界で、続けてもう一刀が振るわれようとして。
我に返った若い使用人がその腕を掴んで止めた。
後はもう阿鼻叫喚の地獄絵図。
激しく泣き叫ぶ者、吐く者、意識を失う者、殴りかかろうとする者、怯えて逃げ出す者。
そのなかでなんとか平静を保とうとしている数人と一緒に、セバスチャンはジュンイチを床に組み伏せた。
「坊ちゃま。あなたは一体何を!」
数人がかりで押し倒されてなお眉ひとつ動かすことは無く、紡ぎ出されたのは「解剖」の一語。あくまで淡々と、抵抗する意志は見えず。
「そのようなお言葉は私達には理解ができません! あなたは倫理観が欠如していらっしゃる!」
若い使用人が興奮して叫ぶ。
ずっと無表情を貫いていたジュンイチは、ここへきてはじめて表情を崩し、少しだけ眉尻を下げた。付き合いが長いものでなければ見抜けなかっただろう小さな小さな変化。悲しみなのか、困惑なのか、嘲りなのか、どれとも違う感情か。セバスチャンには読み取ることができなかった。
「じゃあ、僕はもう自室へ戻るよ。離して」
これ以上は無駄とばかりに立ち上がり、ジュンイチはもう興味がないと背を向けた。
ドアをくぐる前に彼は一度振り向いて、医師に向かい、
「デスクのうえのレポート読んで」
と指示を飛ばして。
残された者のなかに、後を追おうとする者はいなかった。
その後ジュンイチは、葬儀もやはりつまらなそうに、淡々と喪主をこなした。
慌ただしく日々が過ぎ、いつの間にか季節も移ろい、暖かい日差しと共にやっと屋敷に平穏が戻りはじめた頃。
いい加減ジュンイチの行動に嫌気が差していた使用人達は、
「もうこちらのお屋敷には居られません」
と次々に暇を取り去っていき、数十人の使用人で賑やかだった屋敷には、セバスチャンと数名のみが残ることとなった。
人の声のかわりに鳥のさえずりが聴こえるようになった広大な吾妻邸。
ある日、その作業室で銀器を磨くセバスチャンの手を、電話のベルが阻んだ。
「もしもし。私、前当主である吾妻シンジ様を担当しておりました医師です」
「お久しぶりでございます。その後、いかがお過ごしでしょうか?」
「おかげさまでかわりなく。ところで、いくつかおたずねしたいことが」
医師はずいぶんと早口で、落ち着きない様子。
「あの日、そちらのお坊ちゃん……いえ、失礼。もう当主様になられたんですね。新しい当主様が残されたレポートについて……あれは本当に彼がひとりで?」
「はい。私には、どなたかが協力してくださったというような記憶はございません」
「なんと。あれは大変なものですよ。あの方法なら、本当にあの病は治ります」
この知らせを受けても、セバスチャンは、さして驚きはしなかった。
最初にジュンイチの口から「治療法を見つけた。執刀する」と言われたときこそ、にわかには信じられなかったが、冷静になって彼の行動を思い起こせば、じゅうぶんにありえる話だという結論に辿りついていたから。
「では、もう同じ病気のかたが治療されているのですか?」
「いえ、それが……そこがもうひとつの質問なのですが、当主様は本当に医療現場や研究に携わられたことは無いのですか?」
「確証はありませんが、おそらく」
「なるほど」
数秒の沈黙。受話器の向こうから、氷とグラスの触れ合うような音が鳴る。
「実は、レポートに書かれている方法はあまりにも難度が高く。理論的には可能に見えますが、現在この国であの方法を実行できる技術も、機材も無いのです。なのにあまりに確信的にレポートが書かれていたため、もしやと思いましたが。仮に当主様があれを成功させたことがあるのなら、それはもはや人の所業ではない。神の領域でしょう。あの病だけでなく、人間が不老不死になれる可能性すら秘めているのですから」
「神の……」
セバスチャンは、深く息を吐くしかできなかった。
「その確認の為の電話だったのです。いや、やはりよくできてはいるが、このレポートは机上の空論。人間には不可能ですな。しかし一部分だけでも今後おおいに役立ちます。当主様は素晴らしい頭脳をお持ちですよ。研究機関の設備無しでここまでの結果を残されただけでもじゅうぶんに普通の人間の所業ではない。素晴らしいことです。それではお忙しいところ失礼いたしました」
終了を合図する軽いベルの音が、今日はやけに耳に残る。
ジュンイチがまとめたレポートの内容を、医師は「不可能だ」と言ったが、ジュンイチは「できる」と言った。彼が「できる」と言ったのなら、それはおそらく本当にできることなのだろう。
疑う気持ちは微塵も生まれなかった。かわりに芽生えたのは、胃の底をボコボコと煮立たせるような、沈んで溜まっていくような、鉛色。
神とまで言わしめたうら若き当主は、このまま社会に理解されずに埋もれていってしまうのか?
マリアベルのたったひとりの息子は人並みの幸せを知らぬまま、退屈そうに生きていくしか無いのだろうか?
平凡な自分は、彼の為に一体何ができる?
気持ちがくすぶったまま過ごして数日。
屋敷の廊下ですれ違いざま、執事は当主に呼び止められた。
「僕、来年士官学校へ行くよ」
人付き合いが嫌いだとパブリックスクールへの通学も拒否していた彼が、何の前触れもなくこんなことを言い出して、セバスチャンは耳を疑った。
「急にどうされたのですか?」
「軍人になれば、国内で一番設備が充実している研究施設が使えるし、捕虜や負傷者の生体サンプルもたくさん手に入る。研究にもっと没頭できる。手っ取り早く軍で研究するには、学校へいくのが一番近道だ。だから、セバスチャン」
青年は顔をあげ、まっすぐにセバスチャンを見つめ、
「僕のかわりに、この家を頼むよ」
十数年の付き合いで、はじめての頼み事だった。
一も二もなく引き受けたのは言うまでもない。
そして翌年、宣言通りにジュンイチは士官学校へ入学。首席で、体力も申し分なく、身分もある超エリートとして。
そんな、研究一辺倒で冷たい印象だったジュンイチが、あんなに表情豊かな一面を見せるようになるとは。
まして、【恋の相談】めいたものまで……。
「あなたの息子はどうやら人並みの人生を歩む気になられたようです」
空へ報告しようと頭を上げると、突然の腰痛に襲われる。
「痛たたた」
どうにも最近この手の不調が多い。認めたくはないが、あちこちガタが来はじめている。
「私の後任となる人間が必要になりますな」
いくらジュンイチに変化がおとずれていようとも、過去の行いは人々の記憶のなか。かつての使用人達のように反発する者、恨みを抱く者。それが無くなることはありえない。
彼にも味方があったほうが良い。これから先何十年と、パートナーとなって彼を支える人間が必要になってくるはず。
自らの年齢を省みて、哀愁が胸に漲る。あとどれくらい吾妻家の役に立てるだろう?
若く健康で、信頼できる人物がどこかに居ないものか。
都合の良いことを考えながら、セバスチャンはおとなしくベッドへ潜り込んだ。