外伝十一 流星、幸/福の狭間にて
※メイン:ジュンイチ、カミィ ジャンル:幸福論
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幸福とは何か。
それを論ずるとき、ひとつに、”満足”があげられるだろう。
では満足とは何か。欲求が全て満たされ、望みが無くなれば満足と呼べるのか。
生きている人間には欲求が起こり続けるもの。望みがうまれ続けるならば、一時的な満足感以外を得ることは難しい。
哲学者は言った。
「幸福とは、生を終えるときにはじめて達成されるものである」
では、人が生を営むにおいて、その工程は過程に過ぎないのか? 真実、生を終えるときまで幸福を定義出来ないのだろうか? 生を終えるつもりが無く、永遠を手にする方法を知ってしまったジュンイチにとって、幸福を達成することは不可能であるか……?
寝苦しい気温が続くある日の午前。
空調を整えた部屋でベッドに横たわり、ジュンイチがぼんやり思考していると、腕のなかで丸くなっていたカミィが目をさました。
「おはようジュンイチくん! 今日はおほしさまが降る日だよ」
「おはようカミィちゃん。星が降る? 流星のこと? それなら別に今日じゃなくても、流星塵なら毎日無数に降り注いでいるよ」
「ほわぁ。でも、お星さまがプレゼントくれるのは今日だけでしょ? だからね、夜になったら、お外におほしさまを探しに行こう。わくわく!」
眼球表面の水分が窓から射す太陽光を反射して、夜空よりも輝く桃色の瞳。瞳孔が拡大し、興奮の様子がうかがえる。
そういえば今日は、”星祭り”の日。この国における祝日のひとつで、流星に向けて欲しいものを唱えれば、翌朝枕元に届くとされている。基本的には児童向けの行事であり、おもに親が流星を騙りプレゼントを用意する、子を喜ばせるためのイベントである。
何の意思も持たぬただの小天体が大気に突入して発光したからといって、ひとの要求する物質を生成し特定個人の枕元に届けられるわけが無いのは明白だ。欲しいものを唱えたとて、それだけでは品は届かない。
つまり、妻の望みを叶えるのは流星ではなく、夫の努めである。
「流れ星はただの天文現象だけど、カミィちゃんが行きたいなら、いいよ。夜になったら庭へ出よう」
「わぁい。プリン持っていきたいな」
「いいよ。マリクくんに用意させよう」
「嬉しいなぁ。ありがとうジュンイチくん」
流星を探したい、という欲求の解消が確約され、笑顔を見せる妻。しかしまだ、”満足”とは言い難い状況であろう。流星を発見し、欲しいものを入手すれば満足か?
「どういたしまして」
こたえるジュンイチは脳内で、妻の欲求に対応する方法を幾通りもシミュレート。
適度に日が落ちた頃。夫婦は交わした約束通り、裏口から庭へと降り立った。屋敷の照明を消した今、ふたりを薄ら照らすのは、明滅する星明かりと手元のランプの微細な灯。
「わぁー。おほしさまいっぱい。ジュンイチくん、あのほしはなんてお名前?」
シートを敷いた土のうえ。プリンを胸に抱き、カミィは握ったスプーンで空を指す。
「あの星の名はエウダイモニア」
「お隣のは?」
「あれはアタラクシア。ふたつの星は、近くにあるように見えて、実はとても遠くにあるんだよ」
「おほしさまってどんな味かなぁ? 甘いかな?」
「甘い星が無いとは言い切らないけど、おおむね甘くは無いよ。それよりカミィちゃん、僕の予測だと、もうすぐあのあたりに流れ星が見えるはずだ。あっちを見てごらん」
星を掬おうと手首をまわすカミィの横、ジュンイチは予測した軌道を、指示棒代わりに取り出したメスの切っ先でなぞる。メスがスプーンとぶつかって、銀色がカチンと音をたてると同時。なぞった通りの軌道で光の尾をひく流星がひとつ。
「ほわぁ! すごーい! ジュンイチくん、お空を切っちゃったみたい」
「カミィちゃん欲しいものは?」
「あっ、えっと、プリンがほしいです!」
「プリンくらい、いつでも食べさせてあげるよ。今も食べてるでしょ。他には?」
「んーと……ない!」
「えっ……!」
プリンを胸に抱き、プリンを乞う妻は、他には何も要らぬと言う。目覚めて第一声に流星を探そうと提案し、日没まで「楽しみだ」と言い続けていたにもかかわらず。いざ流星を前にして、望みはたったのプリンだけ?
「もしかして流星を観測することが目的だった? それならもっとたくさん降らしてあげるよ。普段見えない流星を可視化する機器だって作製できるし、流星群を起こすことだって」
「ほわぁ。すごいねぇ」
「カミィちゃんが欲するなら。わざわざ星になんて願わなくても。いつだって、何だって、僕が与えてあげるよ」
「どうもありがとう。じゃあねぇ、プリンもういっこ食べたい。あとねぇ、ちょっと眠い」
「……そう。それじゃあ、寝室へ行こう。好きなだけプリン食べてから眠るといいよ」
「はーい」
屋敷へ戻る最中、握った妻の手を折ってしまわないようちから加減に気を配りながら、ジュンイチは妻に問いかける。
「カミィちゃんは、今、満足している? 幸福であると言える? しあわせを感じている?」
「うん!」
即答する妻の手から伝わる温度が高くなる。桃色の瞳が細められ、収束した光でいっそう明るく見えて。廊下の照明を反射しているだけと理解はすれども、まるで自ら発光していると錯覚するほどに眩しく。
人の欲求は絶えることがない。欲求が起こり続ける限り、幸福は得られない。
逆説的に言えば。
欲求が無ければ、人は幸福であると言えるのか?
「ジュンイチくんはおほしさまにお願いしないの?」
「僕? 僕は……」
ジュンイチは自らの欲求を振り返る。
飢えを感じたことは無く、行動を制限されることも無く。欲したものはおおよそ手にはいり、無ければ創り出す能力も有し。日々の退屈も現在は妻の存在で解消され、じゅうぶんな余暇もあると言えよう。
「欲しいものは無いな」
「プリンも?」
「うん。プリンも必要ないよ」
幸福は、まわりの幸福があってはじめて実現するという説がある。
では、妻が欲求を満たし幸福だと言い切る今、自分は満足であるか? 幸福であるか? 妻のように、即答できないのはなぜか?
「ほわぁ。ジュンイチくんは不思議だねぇ」
「僕から見ればカミィちゃんのほうが不思議だよ」
*
寝室に到着し、カミィがベッドで寝息をたてはじめたあと。
常と変わらずジュンイチはひとり起きだし、書斎でデスクに向かう。つまらない書類に目を通していると、ふと、何かの気配を背後に感じた。
それは足音も呼吸音も無く、虫のような小さな気配。
「あのねぇ、ジュンイチくん。ちょっとお話があるんだけど」
突如、耳元で声がした。聞き慣れた妻の声。しかし、視線を巡らせても妻は居らず。かわりに、声の発生源と思しき位置には、青い蝶が鱗粉を撒き漂っている。
「ジュンイチくん、ここだよ。わたし、ちょうちょさんになったからぁ」
「えっ」
顔の横で告げられた内容は予想だにしていなかった驚愕の事案。
たしかに状況としては青い蝶から妻の声がしている。だからといって、”ひとが蝶になった”などありえるはずがない。
それとも、自分が知らぬまにひとを蝶にする技術が開発されたのであろうか? いったい誰が何のために? 体積の差をどう説明する? 蝶にひとと同じ声帯はついていないが声はどうやって発しているのか? 妻はその技術をいかにして入手したか?
「それでね、お話があるんだけど。ちょうちょさんはすぐいなくなっちゃうでしょ。だからね、わたしも」
話しながら徐々に透けていく蝶。この蝶が妻であれ別のものであれ、不可解な現象を解明せぬまま逃してなるものか。素早く手を伸ばすも、指先は蝶を透過し空を切り。幾度試しても何の手応えもなく、ただただその場でもがくジュンイチを尻目に蝶は光に溶けてゆく。
*
「待って! 消えないで!」
縋るように叫び、はたと気づく。からだを起こせば、そこは寝室。
妻はひとの姿のまま、ベッドからずり落ちそうな寝相で隣に存在している。
「夢……これが夢か」
夢。睡眠中に見る幻覚。
脳が情報の整理を行うための生理現象であるだとか、無意識を表層に浮上させるための心理現象であるだとか、睡眠時の外的刺激を知覚するための現象であるだとか。
夢というものがどういったものか、概念として理解はしていたものの。
ジュンイチの生涯において、実際に”夢を見る”体験をしたのは初のことだった。
夢には、覚醒時に深く考えていたことが現れやすいと聞く。では、今しがたの夢が意味するところは? 簡単だ。幸福について。
就寝前のカミィとの問答を思い返す。
その回答が、ストーリー性を持ち夢として現れた。自己による夢分析で、ジュンイチはそう結論付ける。
欲しいもの、望むものは思い浮かばず、満足な状態であるはずだった。
それでも「幸福である」と即答できなかったのは――失いたくないものがあるから、だ。
生命活動には必要が無いのに。種を増やすための生殖を行うわけでもないのに。
欲しいと願い、入手したことにより、消失の恐れに支配される。
この精神症状は、もはや病の域。恋の病は、つまるところ強迫性障害だ。
だがしかし。
病であるにもかかわらず、かつて覚えていた退屈や虚無感は減少し、想像以上の興奮と充足感に満ちている。
ジュンイチの精神に満足感をもたらすものはカミィ。それを奪うのもカミィ。全ての要因が妻の存在。
「不思議だ。不条理と言ってもいい。わからないことだらけだ。出会う前も、今も、カミィちゃんのこと以外ならなんでも理解可能なのに」
カミィと出会ってから今日までずっと。恋を知ってしまったが最後。幸福に近づけば、心の平穏は離れてゆく。ふたつは決して、重なりはしない。
意図せず頬を伝っていた涙を、ジュンイチは手の甲で拭う。
”恋というテーマを選べば、一生飽くこと無く研究が続けられる”と興奮したときには、恋がこれほどまでもどかしいものだとは予想だにしていなかった。
欲するものなど無いけれど。満足は、ほど遠く。あの星の光のように。
いつか全てを理解できたら。その時、幸福だと即答できるようになるのだろうか。
答えには、まだ、たどり着けそうに無い。
外伝十一 END
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オマケ デコとピオニー「ほしをさがしに」
空が紺色の絨毯に包まれ、まぶされた光がこぼれそうな夜。
吾妻領にある穏やかな草原から、少しはずれた森のなか。
いっぽんの白い木の前で、デコとピオニーは茂る葉の隙間から空をみあげて、ほっとひといき。
道中で購入した冷たい果実酒。ふたつのうちひとつを白い木に供え、もうひとつをふたりでまわし飲み。氷で少し薄くなったベリーが香る息を吐き、ピオニーが呟いた。
「お兄ちゃん、お母さんのお墓の前で、いつもちょっとだけ、苦しい顔をするよね」
それは些細な。せかいじゅうでただひとり、きっとピオニーにしかわからない微々たる差。デコ本人ですら、自覚していないような。
「……そんな顔、してたか」
「うん。してたよ」
ふたり並んで座って、夜を眺める。視線の先、ただの光はたくさんあるのに、流れ星は見つからない。同じ場所でたちどまって、ずっと光り続ける星々。
少しの沈黙のあと、デコがぽつりと言葉をこぼした。
「昔から、ときどき考えることがある。母さんと俺は、もしかしたら血が繋がってなかったんじゃないかと。なんでも拾って自分のものにするひとだった。じゃあ俺も、拾われたものでもおかしくはない」
いつも口数少ない男は、この日もかわらず。短く核心だけを突いて、デコはまた黙して膝を抱いた。
ジワジワと鳴く虫の声の合間。ふいに衣擦れの音が混じり、デコの膝のうえへそっとピオニーの手が伸びる。果実酒のカップを握っていた細い指はひんやりと、優しく熱帯夜を払うように。
「知ってる? 星の光って、永遠じゃないんだって。星にも寿命があって、いつか消えちゃうんだって。でもそれは、すごくすごくながい時間をかけて起こる変化で。だから私達は、星が永遠に同じ場所にあるみたいに思うでしょう。あるかないか事実がどちらだったとしても、私達が生きているあいだに、それを知る方法は無いの」
だけど、と息継ぎが挟まり、話は続く。
「永遠なんて本当は無くて、いつか終わりが来るって知ってても……あったらいいなぁって望むのは自由。だから、”もしかして”と”そうじゃない”があっても、どっちを信じても良いの。そうすればそれは真実になるのよ」
無口な息遣いは、どちらを望むのか。どちらであっても、たしかなことがひとつ。
ピオニーは輝く星のなかに、寄り添うみっつの星を見つけて微笑んだ。
「私は、永遠はあるんだって信じてる。私のなかでは、死んだって終わりじゃない。だって私達、お母さんのお墓の前では、今だって兄妹してるじゃない。お母さんにも、永遠を信じさせてあげたいの」
本当は、かたちにこだわることすら無意味で。ただいっしょにいたことが。思い出を増やしてこれたことが。それこそが大事なものだと、デコだって理解はしている。
だからこそ今日まで何も言わず、ピオニーに見抜かれなければこれから先も言うつもりは無かった。”永遠”に。
「そうだな」
発されるたびに違う感情が見える四音。聞き慣れているのに新鮮な相槌がピオニーのもとへ届き、手と手がぎゅっと固く結ばれる。
カップの中身はとうに無くなり、残った氷も溶けきるころ。キラリ光る星がふたりの真上を駆け抜けた。
「あっ。流れ星、見つけた」
夜空のかくれんぼはこれでおしまい。同じ温度に染まった手を握りなおして、ふたりは帰路につく。帰った先では兄妹ではないけれど、気持ちは重ねていられるとお互いに信じて疑わないままで。





