番外ニ きせきのはなし
メイン:マリアベル(ジュンイチの母) ジャンル:随筆
その日、私は、壁の花でございました。
いえ、花にもなりきれず、壁そのものだったように思います。
眼前ではとりどりの衣装を纏った花達が溢れんばかりの蜜を香らせて、蝶や蜂を誘い込み踊っているのです。
めくるめく春の光景を眺めながら、私はジッと呼吸を止めることに専念していました。息をすることが、怖かったのです。空気に溶け込んだ私の存在が、息をすることで輪郭を持ってしまうように思えたからです。
そうやって誰の目にも映らぬように細く糸を張り詰めていたのに、あなたに手繰られてしまったことが、今にして思えば、人生の分かれ道であったのでしょう。あの日、あの小さなパーティで、私がもっと上手く透明になりきれていれば。そうすれば、あなたは今頃、もっと華やいだ生活をしていたに違いないのです。大変に申し訳なく思います。
それでも私は、はじめてあなたからもらった言葉を、今でも忘れることができません。
「はじめまして。レディ・マリアベル・ブルーム」
何の変哲もないそれは、私にとって、煌々とした奇跡への道筋であったのです。
*
「また乳母がお暇を取りました」
互いの両親の勧めにより私とあなたが結婚し、あの子が産まれてからのことでございます。執事からこう告げられるたび、私の内側から何かがこぼれていくような感覚がしました。こぼれた何かは私の足元に溜まり、ドロドロと絡みついて、私を地の底へ引き落とそうとします。
それでも私が沈みきらないのは、私のなかにまだ何かが残っているからです。もうとっくにからっぽになっていてもおかしくないのに、私のなかにはいつまでもいろいろな情景が渦を巻いています。そのひとつは、例えるならば、紅葉する山間に滲む夕日であったり、また別のひとつは、ほの暗い井戸に沈む尖った石であったりします。
私にたくさんのものが残っている。それは、あの子がからっぽであるからです。本来あの子のなかにあるべきものを注がずに、私のなかに残したまま産み落としてしまったからです。私は、あの子から、大切なものを奪っているに等しいのでした。
あの子の眼に光を射してあげられるのならば、私は中身を失って沈んでしまっても良いとさえ思うのに、からだは思うように動かず、言葉も届きません。
私は毎夜、夢を見ました。赤い糸を手繰り寄せる夢です。暗闇のなか、かろうじて見える手元には赤から紅を引いて朱になったような糸があり、私はそれを巻き取らなければならない、と使命感に駆られます。
糸はどれだけ巻き取っても途切れることなく、いつまでたっても、どこに通じているのかも不明瞭なままです。その行為に意味があるのかどうかも分からず、ただひたすらに巻き続け、いつしか大きな玉になって、それでも糸の先は見えず闇の彼方へ消えてゆきます。
目が覚めて、両手に何も無いのを確認したとき、私は安堵し、そして絶望します。
震える十の指が、何も持てないということを残酷に物語るのです。妻として、家の女主人として、母として。あなたにも、世間にも、あの子にも。誰にも求められていないことを、嫌というほど実感させられるのです。
昼夜柔らかな真綿に首を締められ続けていると、いっそのことぎゅっと圧縮されて見えない粒になってしまえれば。私が消えてしまえば、まわりはどんなに楽になるだろう。という妄執に取り憑かれます。
そうして私は呼吸を止めてしまうのです。透明になって、存在を空気に溶かしてしまえば、解き放たれるに違いない。怖くはありません。想像してください。私が無くなったら、どうなるか。
あなたは新しく、侯爵家に相応しい振る舞いや社交術を身に着けた、若くて健康な女性を貰い受けることができるでしょう。そうして益々繁栄することがこの家のためであり、あなた自身のためであり、あの子のためでもあり、本来であれば私が介助しなければならなかったことです。
私がこのように不甲斐なく、また、あの子から大切なものを奪い続けているのは、許されることではありません。だから私は、消えることなんかよりもずっと、息をすることが怖いのです。息をして、輪郭を持ち、存在を自覚し、何も成せない私というものを認識するのが怖いのです。
私は、あなたに愛されていないと知ることが怖い。あの子に必要の無い自分を知ることが怖い。私は、私というものの存在にまるで価値が無いと思い知るのが怖い!
今になって思えば、この時の私は、土から芽を出すことに怯えてそのまま腐ってしまう種のようなものでした。少し背伸びをすればすぐそこにまばゆい地上があることを信じられなかったのです。
毎夜、あなたが眠る少し前、私のベッドの横に座り、毎日寸分たがわず同じだけの時間、話をしてくれること。
その日起こったことを、ひとつももらさずに全て教えてくれること。
嘘か本当かは問題ではありません。たとえ嘘であったとしても、大切なのは、私のためにその嘘を考えてくれたという事実です。
それと、話のあいだ中、ずっと手を握っていてくれること。
部屋を出る前には、必ず頬と額にキスを落としてくれること。
愛されずしてどうしてこんなことが起きましょうか。
暖かな羽毛に包まれて、有り余る時間との対話にてあなたと出会った日のことを思い出し、私はやっと気づくことができました。夫婦の契約を結んでから、これらがかかされたことは一度も無いことに。
私はもうとっくに春の野に咲く花となっていたのですね。憧れていた色彩豊かな場所は、あまりに近すぎて。全てが、当たり前になっていたのです。
「はじめまして。レディ・マリアベル・ブルーム」
あたりを見回せば、そこかしこに落ちていると思ったこの挨拶も、そこからはじまった生活も、何の変哲も無い普段の会話も。
普通だと思っていたことが。当たり前になるほどに繰り返したことのひとつひとつが。
とても美しいものであったことに気がつくまで、ずいぶんとかかってしまいました。
私を愛してくださってどうもありがとう。何もできなかった私だけれど、存在するだけで良かったんだと気づかせてくださって、ありがとう。
こうして私は、奇跡を見たのです。私がここにいることには、たしかに意味があったのだと知ったとき、それが奇跡なのだとはっきりと理解できたのです。
ペンを持つのは、きっと今日で最後になるでしょう。
なんとなく分かるのです。あと数日で、私は散る。私が朽ちて溶ければ、私があの子から奪ったものはあの子に還る。
あなたが私にくれた、何の変哲もない言葉や、当たり前となる平穏な日常。
それを同じようにあの子に与えてくれる誰かが見つかったとき。私の見た奇跡は、あの子の未来へ受け継がれてゆくのだと思います。
誰かひとりでも、赤い糸を握っていれば、きっと繋がるはずだから。
どうか、どうか残った全ての人に、女神様のお導きがありますように。
――吾妻邸、前主人の遺品から見つかった、奥方の手記。文字に震えが見られ、解読に少々の難。別の筆跡にて補完された痕あり。
番外ニEND
奇跡、または軌跡。





