県民会館
怒りは収まらない。
どうしてこんなことになった。
生徒会執行部の部室のドアをノックなしで開ける。
「あれはどういうことだ!」
生徒会長も他3役もいない。
1年生が2人だけ。メガネの女と耳ピアスの女。
「なんの御用ですか」
「ふざけんな!軽音部と演劇部との入場者対決のことだ!あの水増しカウントはなんだ」
「あの勝負は軽音部と演劇部とのやり取りで、生徒会は一切関与していません。それに元々は演劇部とソーシャルゲーム制作部とのやり取りで、軽音部に代打ちを頼んだだけなので、当事者はソーシャル部と演劇部ですので、不満があるならソーシャル部に行ってください」
その言葉が余計に私を怒らせる。
「もともと、勝負をけしかけてきたのも、公正な審判をやると言ってきたのも貴様らだろうが!」
「勝負の提案をしたのは、軽音部の部長であって、生徒会ではありません」
生徒会執行部と軽音の代表は同一人物だろうが。
「お前も軽音だろうが!」
「たとえそうであったとしても、今の私の役職は、生徒会執行部の一部員にすぎません」
都合のいい時に、ころころ役職を変えやがって!
「これ以上騒ぐと、先生を呼びますよ」
すでにもう1人が後ろ手入口から廊下に出て、走り出した。
「まて、この野郎!」
私は、目の前を走って通りすぎようとする女に殴りかかった。
だが、メガネの女は大回りで避けて、私の拳は届かない。
無視して走り抜けた。職員室に行くのだろう。
残った鼻ピアスに歩み寄る。
「暴力行為をすれば停学か退学ですよ」
「それをお前が決める権利があるのか?」
「ここは自治棟の中です。自治棟の中から、決定権は我々にあります」
「上等じぇねぇか!」
私は机一個を挟んで、耳ピアスのタイを掴む。
さすがに掴んでくることはなかったと油断していたらしく、首に強い力をかけられ、狼狽している。
「今すぐ、あの決定を取り消せ」
その時、執行部室に一斉に何人も入ってくる乱暴な音が聞こえた。
「2人とも離れなさい」
「何をやっている女池!」
里中先生の声も聞こえた。
人の波にもみくちゃにされながら、私は職員室に連れて行かれた。
* * *
職員室に飛び込んだメガネの「生徒会執行部で、女が暴れている」という報を聞きつけて走ってきた屈強な教員6人に囲まれ、私は尋問を受けていた。里中先生はメガネと耳ピアスの言い分を聞いている。
「どんなことがあっても暴力はいかん」
「じゃあ向こうのやっていることは許されるんですか」
「話をそらすな。本質的なことだけを言っている」
本質ってなんだよ。演劇部の存続は本質じゃないのかよ。
いつのまにか話題は、生徒会執行部の横暴ではなく、私のあたりもしなかったパンチと、耳ピアスのタイを掴んだことと、大声で叫んだことの3点だけに絞られて説教をされた。
そんなどうでもいいことで時間を無駄にしたくない。
悪いとも思っていないので、反省もしない。
2時間にも及ぶ大説教大会の間、私には反論すら許さず、メガネと耳ピアスの書いたシナリオ通りに話は進んだ。
情状酌量の余地はないが、今回は初犯であるため、大きな罪には問わない。
明日の朝までに反省文を原稿用紙2枚以上に書いて提出することを約束させられた。
とっくに生徒会執行部の2人の方は帰っている。
職員室を出て、教室へ向かう私に、里中先生が付き添った。
「ねぇ先生」
「……なんだ?」
「あの耳ピアス、自治棟の中で起きた事件は生徒会執行部が退学とか停学を決めるって言ってたのに、なんで私の反省文は職員室で先生たちが決めるの?」
「それウソだよ。
生徒に生徒を停学させるだの退学させるだのを決める権利はない。たとえ自治棟の中でも当然だ。
ただ、あの2人が嘘を言ってるんじゃなくて、あの2人も上から嘘を教えられたのかもしれないな」
なんなんだいったい、ありもしない権力を振りかざして人を脅しやがって。
「そんなことより、女池、しっかり反省しろ」
私は何もしゃべらない。
「お前は、自分は悪くないから反省しない、と思っているんだろうが、確かに、軽音部と演劇部の来場者数勝負の件は、軽音部と生徒会執行部の方が悪い。
だけど、それに怒って、我を忘れて執行部室へ殴りこみに行ったら、何も悪くない演劇部の方が悪いことになっちまうじゃないか。もう少し落ち着け」
「でも、落ち着いて行動してたら、部室が没収されちゃう。明日までに退去だって」
「もう退去は決まった。お前以外のみんなで、もう大道具の撤収を始めてる」
私はそこで泣き崩れた。
* * *
部室に戻っても、私は泣きじゃくって、使い物にならなかったと、後から愛宕に聞かされた。
大道具はゴミ捨て場に運びだし、小道具もゴミ袋に叩き込んでいた。
過去の台本や賞状、律儀にとってあったアンケートのファイル、これはなるべく捨てたくないが、もう保管する場所もない。
ここ数年の台本は部長が持って帰ることになったけど、トロフィーや賞状はどうしようか。
今日だけでは、とても終わりそうにない。まだ運びだせていない奥のパネルが山ほどあるのに、放課時間をつげるチャイムがなった。
「終わらないな……」
愛宕がそういった時、生徒会の副会長がノックもなしに部室のドアをあけた。
「あら、まだ終わってないの?どういうこと?」
スッと立ちあがろうとした私を、かぼちゃんが抱きしめる。殴りかかろうと思っていたことを見透かされたようだ。堪えろと言っているのだ。
「一体いつまでやってるの?もう放課時間よ。あんたたちが負けたら、ここはすぐに引き払うって約束だったでしょう」
かぼちゃんがいなかったら、バールみたいなものでこの女を殴っていたかもしれない。っていうかバールで殴っていたかもしれない。
手元にはちょうどよく、ガチ袋とナグリがある。
「あと、何分何秒で終わるのか、私に教えて」
ヒステリックに声を荒らげる。その口を二液混合の瞬間接着剤でふさぎたい。
部長が一歩踏み出す。
「お言葉ですが、あなたたちは『明日までに』『火曜までに』撤収するように言いましたが、『今日中』とは一言も言いませんでしたよ」
その言葉にまた副会長はファビョるが、もう何を言っているのかわからない。
部長がピシャリと閉めた。
「明日のこの時間までには撤収を完了します。以上です。もう放課時間ですよね。それとも副会長には、ここにいる全員に作業を命じて、放課時間を大幅に遅らせても良いという権限でもあるのですか。でしたら、それに従い、まだ部員を残らせて作業をさせますけど」
グウの音もでない。副会長にそんな権利も権限もないのだ。
「なら、明日のこの時間までに完全撤収よ。水曜日の朝には、ゴミ収集車が来るから、それに粗大ゴミをもっていってもらうんだから」
そして彼女は黒い長髪を翻し、逃げるように私たちの部室から去った。
明日の今頃には、この部屋は私たちの部室ではなくなってしまう。
* * *
2日目も私は、沈痛な気持ちで、部室の片付けをした。
表情は通夜のそれだ。
部長も、先生も、誰も彼もが何ひとつしゃべることもなく、黙々と作業を続け、段ボールとゴミ袋に荷物を入れた。過去の賞状やトロフィーは先生が預かることになった。台本も段ボールにつめてアパートに一時的に保管してくれるらしい。
大道具や小道具、立てかけのパネル、人形は全て廃棄されることになった。
ガランとした部室。こんなに広かったのか。
一応、先生たちが教員会議で報告をしてくれることになったが、ここは生徒自治棟の中だ。覆るかどうかは微妙。それも次の会議が1カ月後。それまで待つことになる。たとえ覆ったとしても、捨てた大道具や小道具は帰ってこない。
床をぞうきんで水拭きして、空になったとところで、副会長がやってきた。
「じゃあ、鍵を頂戴」
私は殺意をこめて、この副会長をにらみつけた。
こいつを殴って退学になろうかと思った。
だが、そんなことをすれば親を泣かせることになる。
私はグッと堪えた。
錦町部長が何もいわず、副会長が差し出す左手に、その鍵を置いた。
「ごくろうさま、じゃあ今日は解散して頂戴」
何もかもの発言が鼻についた。
副会長が眉ひとつ表情を変えぬまま部室を後にしたあと、それぞれが無言で、部室を後にした。
もうここに集まることもない。
明日からここはソーシャルゲーム制作部の部室になり、今までのソーシャルゲーム同好会の部屋は軽音部の楽器保管庫になる。
こんな勝負は認められない。
許せない。
そんな殺意を転がしたまま、私は部屋に里中先生と二人きりになった。
「女池、もう下校しろ。今日はもう、これ以上やることはない」
「先生……」
「何だ?」
「タバコ、吸わせてよ。吸ってるんでしょ?」
「バカ、いいわけねぇだろ」
背中を強く押されて、私は部室の外に追いやられた。
講堂へ向かう途中で、斎藤先生とすれ違ったが、斎藤先生も何も言わなかった。
* * *
片付いた部屋。広く見える部室。こんなに狭かったのか。
みんな、何も言わずに部室から消えていく。
「先生……」
「何だ?」
「タバコ、吸わせてよ。吸ってるんでしょ?」
「バカ、いいわけねぇだろ」
女池の背中を押して、部室から追い出す。
あいつはトボトボと目を伏せて歩き出す。
それにしても、よく俺がタバコ吸ってるってわかったな。
学校は完全禁煙だから、教員でもたばこは吸えない。
安アパートの壁に匂いを移したら、原状回復費用がたくさんとられる、だからアパートでも吸っていない。吸うのは車の中だけだ。それも学校の駐車場内もダメだ。生徒に見られるから。つまり吸える場所は限られる。
生徒の見られない範囲でだけ吸うようにしていたが、やはり匂いかなんかで気付くものなのか。しかし、ここ数カ月は禁煙してのにどうやって気付いたんだろう。
女池がタバコを吸いたい気持ちはわかる。
いくら生徒自治棟だからって、この部室退去命令はおかしい。
来場者数勝負をけしかけておいて、軽音部は5バンドの延べ人数、5重カウントで来場者数を水増し。普通だったらこんな勝負が認められるわけがない。
誰がどう見ても、負けは軽音部だし、勝ちは演劇部だ。
それをひっくり返してきやがった。
一応、学年主任と教頭には報告はしたが、次の教員会議で議題にあげることは決まっただけで、即行動に移せない。何もかも生徒の自由にできる生徒自治棟なんかが存在していることが原因だ。
胸糞悪い。
俺は本気で学生〈バンド〉を嫌いになった。つか、学生じゃない生徒がやってても学生〈バンド〉なんだろか?まぁ呼び方はどうでもいい。あいつらは嫌いだ。
好きなのはプロ〈バンド〉だけだ。
窓辺にもたれかかっていると、後ろのドアが開いた。女池が戻ってきたのか?
「何吸っているんですか?」
斎藤の声だ。
何も吸ってないと思い口元を見ると、俺はいつのまにかタバコを取り出し、火をつけていたらしい。
そもそも俺は禁煙していたはずなのに、いつ買ったんだろう?
昨日の帰り道だったか?
「ヤニを吸ってるにきまってるだろう」
言葉遊びでかわす。
「こんな時ぐらい、いいだろう」
白い息を窓の外に吐き出す。誰かに見られても構わない。灰を窓の外に落とすのが見られたら、モンスターが攻撃してきて、停職ぐらいにはなるかもな。
「気持ちはわかりますけど……」
斎藤が隣に並ぶ。
「私にもください」
「吸ってるのか?」
「前の彼氏と別れた時に一箱だけ吸いました」
なんだそれは、江戸時代の出来事かよ。と軽口は叩けなかった。
1本差し出す。ちょうど自分のもなくなりそうだ。
吸殻を窓の外に投げる。
携帯灰皿は持ち歩いていない。
自分も新たに1本くわえ、胸ポケットからライターを取り出す。劇団が無くなった時に、主催がくれたジッポ。
「いいライターですね」
その言葉に無反応で火をつける。これについて語りだしちまうと俺は長い。
「もっと寄れよ」
タバコとタバコが触れそうなぐらいまで近づく。
斎藤は逃げない。
2本のたばこに一度に火をつける。
「シガーキスみたいで、嫌らしいですよ」
「シガーキス?これはスタンドバイミーって言うんだよ」
映画スタンドバイミーの中で主人公の少年たち4人は、タバコが触れそうになるぐらいまで接近して火をつけた。
恋とか愛とかいう感情はなくても、こういうことはできる。
苛立った時だ。
スタンドバイミーの中で主人公たちは大人に苛立って旅に出た。
俺たちは今、子供の権力に苛立っている。
子供に必要以上の自由などを与えたばかりに、〈理不尽〉がまかり通る学校になってしまった。愚かな行動をする子供に対して大人の対応ができない。
こういう事になる前に、少なくとも数年前に、生徒会長が文化系部長会代表と、軽音部の部長の3役を兼任するという悪しき伝統を終わらせるべきだった。軽音部が活発な事は悪い事ではない。軽音部の部長が文化系部長会代表を何年かのスパンで兼任することも仕方ない。
だが現状では、軽音部内のパワーバランスだけで絶対権力者が決まってしまう。
生徒自治が認められる範囲では絶対的な権力をもつ、生徒会長が選任されることとなり、さらに、副会長、書記、会計も〈バンド〉メンバーが兼ねることが通例になっちまった。適任ではない者たちに高校の生徒自治が握られる事になった。
そしてこんな子供だましの多重カウントまで使って自らの負けを認めず、本来の勝者の権利を邪魔するとは。
こんな茶番をすぐさま咎められないとは情けない。ここは公立高校のはずだぞ。
「ねぇ先生」
「なんだ」
「これで演劇部は終わりですかね」
「まさか」
灰を落とす。
「教員会議で議題にあげて、生徒自治棟の管理を生徒会執行部から取り上げる。正当な勝負の決着で部室のやり取りができるなら異論は少ないだろうが、今回みたいなことがあったのなら、軽音部はずっと勝ち続けることになる。軽音部以外の生徒がかわいそうだ。せめて高校生の内は、まっとうな評価がされるような環境にしたい」
今の恵温で行われている生徒自治、これはもう破綻している。
大多数の人間が納得いく裁定を生徒会執行部がとれていない。
あんなあからさまな行動をとれば、教職員たち大人だけでなく、同じ立場の子供からも支持が離れていく。それがわかっていない。
肺一杯に熱い空気を吸い込む。
駄目だ、脳も熱くなっている。話題を変えよう。言葉も素が出ている。ここは学校だ。教職員用の言葉使いに戻さないと……。
斎藤先生も大きくタバコを吸いこもうとしたが、慣れていないらしくおもいきり咳こんでいる。
子供かよ。
「斎藤先生は、今回の脚本や演技、どう思いました」
「私、高校演劇は門外漢なんで、よくわからないです。見るのも初めてだったんで」
「だからこそ、感想を聞きたいんですよ」
斎藤はまた大きくたばこを吸ってはいた。こんどはむせていない。
「そうですね」
言葉を選んでいるようだ。周りに生徒がいないことを確認して、また窓を向きなおす。
「普通だったら赤面するようなセリフを堂々と言って、見ているこっちが恥ずかしくなった、というのが正直な感想です」
「私もです。ただ、それが良かったんだと思います」
あぁ、もう1本吸いたいがやめておこう。
こんなところを誰かに見られたら大変だ。
「高校演劇のテーマは多種多様だが、『家族愛』とか『友情』とか『生きる理由』『生と死』『高校生の悩み』とかどっちかというと高尚なテーマ設定をしたほうが審査員の評価はいい。ところが今回は、審査員がいる高校演劇の発表会じゃない。同年代の生徒しかいない。それに合わせた脚本構成や演技ってのは見事だ」
いかん、饒舌になっている。
「ハレとケとか、審査員からみるとリアルな高校生と現実の高校生との解離だとか、そういうのを無視して、見ている同年代の子供たちが恥ずかしくなって赤面するような、だけど最後まで見ていたくなる、そういうストレートな情熱にあふれていたんだと思う」
「もしあれを審査員のいる発表会でやったらどうなりますか?」
「俺は審査員の経験はないので、はっきりとは言えないが、それほど好評は得られないだろう。審査員からしたら、テーマがストレートすぎて、ただ性欲のついた高校生が、それを愛だの恋だのボソボソつぶやいたり叫んだりしてるだけにしか聞こえないはず」
極端な話、高校演劇ではハッピーエンドは流行らない。
俺が最後に見た総文公演、上位12校で行われる決勝戦。ほとんど全ての高校がバッドエンド、もしくはバッドエンドの中に若干の希望を残して終わる作品だった。
そこぬけのハッピーエンドは皆無だ。
ましてやキスしたいだの、それ以上がどうだのって叫んで、ラストはキスシーンで終わるとか、審査員がいたら、下品と思われても仕方ない。
だが今回は、観客は生徒だけ。
それを計算して脚本や演技方針を決めたのか?
観客層を計算して脚本や演技方針をコントロールできるのか?
だとしたら、どれだけ経験値と演技の幅があるんだ?
去年の今頃に、不本意ながら顧問を引き受け、その後もいろいろ波があり、仕事も忙しいこともあって、過去の台本なんかは読んだりはしなかったが、しっかり読みこんでおけばよかった。
場数が俺たち、30代の役者経験者と同じかそれ以上あるというのか、ここの子たちは。
恵温高校演劇部には、遠い過去まで遡っても、県内の主たる演劇発表会や研究大会予選で優秀賞として表彰された形跡はなく、たまに脚本賞がなんどかある程度。
昨日、今日の片づけの時にも確認したが、俺が部屋に持って帰ることになった賞状やトロフィーの中にも優秀賞はなかった。あったのは優良賞のと、脚本賞や舞台美術照明賞などなど。
一時期は大会に出場していなかった時期もあるし、とても伝統校とは言えない。
だがこの血脈は恵温高校開校以来、そう、共学化する前の女子高の開校直後から1度も絶えずに来ている。そして年に6回ものハイペースで講堂や教室での発表会をしている傍らで、県発表会には一度も参加していない時期もある。
ここ数年も部員不足だったとは言え、着実に活動していた。
もしや恵温高校演劇部とは、審査員に(・)対する(・・・)評価を度外視して、同年代の(・)観客へ(・)の(・)評価というか、エンターテイメント性を(・)最優先とした伝統をもつ演劇部なのではないか?
そう疑い始めている。何より先ほど破棄するつもりでつめた段ボールに入った観客アンケートをまとめたファイル。1回の公演で、100名以上の枚数があり、それを3回上演、さらにそれを一年に6回。ハイペースすぎる。
部員が多い演劇部や大学の演劇サークルがローテーションで、少ない期間で複数公演をこなすという話はよく聞くが、過去の資料をみても、劇団員はせいぜい20名。
これはもしかすると、とてもおもしろい部活なのかもしれない。
くそっ、こんなおもしろい部活が自分の手元に転がり込んで来ていたのに、1年間何もしていなかった。
だったらこんな面白い部活を、糞ガキどもが支配する生徒会執行部の好き嫌いでつぶされてたまるか。
気がつけば、俺のタバコの灰は完全に落ち切っていた。
吸殻を窓から投げ捨てる。
「いけないですよ、灰皿もってないんですか?」
「ねぇーよ。そんな優等生じゃねぇんだ」
「持ち帰りましょうよ」
「軽音部が吸ってたことにすればいいだろ」
「まぁそうですね」
斎藤も吸殻を窓から捨てた。
意外だったな。この斎藤先生も、イラつくことがあるのか。
ルールを守ってばかりのお嬢様かと思ったが、タバコを吸ったり、吸殻をなげたり、なかなか可愛いところもあるじゃないか。しゃっくりで変な声を出している。ひさびさのタバコで内臓が驚いたな。
「人の顔を見てニヤニヤ笑わないでください」
え?
「笑ってたか?」
「ええ、いやらしかったです」
俺の悪い癖だ。
「ほら、斎藤センセ、帰るぞ」
「鍵は?」
「さっき生徒会が持っていったから、アケッパでいいだろ。どうせ盗るものは何もない」
ガランとした部室。
段ボールを2箱だけ持って、これから俺の車の後部座席に積み込む。
「ついでだ、斎藤センセ。俺の車に積み込むから、手伝ってくれ」
わかりましたよ、と言って小さな先生はついてきた。
さぁ、明日からどうするかな。
「また1人でニヤついてますよ」
斎藤の言うことは無視して、駐車場に向かう。
さぁ、明日からどうするかな。
* * *
茫然自失、帰りにどうやって帰ったかも定かでもない状況で、帰宅した。
おそらくいつもの習慣通りにバスを乗り継いで帰ったのだろうが……。
先に自転車で帰った愛宕は、とっくに戻って風呂にはいってジャージに着替えている。
お父さんとお母さんには愛宕から話があったのだろう。
食卓もみんな言葉少なだった。
愛宕はさっさと飯を胃袋に詰めこんで自室に撤退し、私も風呂は後で浴びるとだけ言って、部屋に戻って、ベッドの上で眠りにもつかず、覚醒もせずにまどろんでいた。
先生のケチ。
タバコぐらい吸わせてくれてもいいのに。
こんな気分の時、どうしたらいいんだ。
発狂した振りでもして、八つ当たりして、暴れればいいのか。
よくわからない。
私だけじゃなく、ミナコもレナもわからないはずだ。
(こういう時、どうしたらいい、ミナコ?)
(わからない)
返答はむなしい。
(こういう時、どうしたらいい、レナ?)
(キスしたい)
トンチンカンな回答が返ってきた。
レナは色恋馬鹿だから、こんな時も彼氏といれたら少しは不安もやすらぐのだろう。
残念ながら私にも、ミナコにも彼氏もいないし、キスする相手はいないのだ。
「真奈美、そろそろお風呂はいりなさい」
下からお母さんの声がする。もうそんな時間か。
時計を見ると9時、もうみんなお風呂に入って、私が最後。
ショーツと、タンクトップだけ持って一階に下りる。
脱衣所で着ていた物を乱雑に洗濯機前のかごにぶちこんで、タオル片手に風呂場に入る。
ぬるくなったお湯に体をつけて、「追い炊き」のスイッチを押す。
鼻まで湯船につけて、ブクブクと息をはく、何も考えられない。
ラベンダーの入浴剤を入れる。
泡をたてて、お湯を染める。
ラベンダーといえば「時をかける少女」
だけどそれ以外、何も考えられない。
シャワーをとり、温度を最低まで下げる。
全身が映る鏡の前で大股開きで立って、頭から冷水のシャワーを浴びせる。
何も考えられない。
下山監督がプロは〈理不尽〉に勝利しなければならないと言っていた。だけどアマチュアの私たちは〈理不尽〉に対してどう立ち向かえばいいのか。アマチュアは〈理不尽〉に負けるしかないのか。だめだ、そういう意味じゃない。でもどういう意味なのかわからない。アマチュアはどうしたらいいのか。今度きいてみよう。今は何も考えられない。
42度の湯船に飛び込む。
何も考えられない。
またシャワーをあびる。
何も考えられない。
鏡の自分にキスしてみる。
何も考えられない。
湯船に飛び込む。
考えられない。
いつものシャンプーで髪を洗う。
何も考えられない。
シャワーをあびる。
冷水のままだったから冷たい。だけど驚かない。何も考えられない。
今度は愛宕のシャンプーを借りる。
使うのは初めて。
頭皮に直に当ててシャンプーを押し出す。
液体が発射されダイレクトに髪に塗りつく。皮膚に爽快感が走る。
しかし脳はシャープにならない。
1回だけじゃなく、2回、3回と繰り返す。
とうとう爽快感もこなくなる。
半分以上残っていたシャンプーを湯水のように流す。
普段は座ってシャンプーするけど、今日は立つ。
曇りのない鏡の前で、頭は泡まみれの私が立つ。
何も考えられない。
また液体を発射する。
何も考えられない。
今度は胸にシャンプーを発射する。
何も考えられない。
今日はボディソープ使わない、愛宕のシャンプーでいい。
胸を上から揉みしごく。
髪と違って泡立ちが悪い。
もう一回発射する。
何とか泡立つ。
そこから全身に泡を広げる。
右上腕、右下腕、右手、左上腕、左下腕、左手、指の隙間まで丁寧に、首すじ、鎖骨、胸、腹、背中、腕を曲げて丁寧に洗う、今度はまた胸。
胸を鏡に映してみる。小さい。
先端をちょっとつねる。痛い。
乱暴に泡立てて揉みしごく。痛い。
また体を洗う。
へそ、下腹部。
くそ、いつもは座ってるから足を洗うのが楽だけど、立っていると難しい。
バスタブのふちに右足をガッと乗せる。これで洗いやすくなった。
次には左足。同じように大きく脚を広げて乗せる。なんて大胆なポーズだろう。
ふと、アンダーヘアーが気になってくる。
唐突な欲求に駆られて、愛宕のシャンプーをそこに発射する。
爽快感がやってくる。
すぐ泡立つ。
それでもやめない。
泡立つ。
やめない。
もう汚れなんて落ちている。
でもやめない。
また冷たい液体を発射する。
また泡立てる。
体が熱くなってくる。
でもやめない。
バスタブから脚を下して、鏡の前でさっきのように大きく構える。
私の体は髪の先から脚のつまさきまで泡まみれになっている。
股に右手を伸ばし、また洗う。
皮膚全体を何度も何度も、お尻の穴からアンダーヘアーの上端まで何度も何度も。
息が荒くなる。
ストロークを早くする。
何も考えられない。
さらに早くする。
呼吸が乱れる。
さらに早くする。
――――その時、体に電流が走る――――
頭が真っ白になる。
何も考えられない。
温かい液体が発射される。
シャワーで体を洗う。
何をやってるんだろう、私は。
ラベンダーの湯につかる。
息を整える。
何も考えられない。
涙がつたっている。
どうやら私は泣いている。
湯船から上がる。さっとひと吹きして、脱衣所にでる。
しまった、今日はまだ洗濯機を回してなかったから、湯船にラベンダーの入浴剤をいれちゃいけなかった。失敗失敗。
バスタオルで丁寧に体をふき、ドライヤーで髪を乾かす。
今日はいつもと違う匂い。
鏡を見る。
いつもの私がいる。
鏡にキスする。
そうだ、キスする相手ならいた。
ドライヤーをしまう。
体がひとりでに歩きだした。
* * *
流行りのアニソンを垂れ流しながら、オレはまどろんでいた。
課題には手をつけていない。明日はリーディングの加藤のおっさんだからしっかりと予習しなきゃならんのだが、そんな余裕はない。いや、時間的余裕はあるが、精神的余裕はない。あるわけない。
演劇部をどうするか。
とりあえず部室は没収された。
部室没収=廃部ではないが、実質廃部みたいなもんだ。
大道具も小道具も保管場所がない。
練習場所も制限される。
廃部なら廃部で、他の部へ行くか?
1年時は必ず部活動に所属していることが恵温高校の原則だ。
今更この時期からまた別の部活にいくのは嫌だ。
行った先でも1年生のコミュニケーションネットワークはすでに完成されている。
3カ月遅れでオレが行っても、もう輪には入れない。
たとえ輪に入れても、3カ月遅れで入部したコンプレックスは卒業まで払拭できない。
あぁ、まだ9カ月もある。長い道のりだな。
だったら、今の演劇部を部室没収で活動できないまま継続してもらい、廃部にならないギリギリのラインで生き残ってもらって、それで2年になった時に辞めればいい。部活は辞めても、監督の下でいろいろ勉強したいとは思ってる。思ってるけど、この無気力感はなんだろう。
もしかしてオレは今、監督のところへ通うこともやめようと思っているのか?
ゴミ捨て場にキングを捨てた時、オレの心は折れたのかもしれない。
姉ちゃんはキングの事なんかどうとも思っていない。
だがキングはオレの、みんなの宝物だ。
それを捨てなければならない。
あの苦労と努力はなんだったんだ?
大きく溜め息をつく。ちょうどミミちゃんの曲が終わった。
ガチャリと音がする。
ドアが開いた音だ。
「姉ちゃん、ドア開けるときはノックしろよ」
返事がない。
顔をあげる。
やっぱり姉ちゃんだ。パンツとタンクトップ、首にかけたタオルだけの格好で立っている。
勝手に部屋に入ってきて、ドアを閉めた。
「何やってんだよ?」
少し苛立って聞く。返事はない。
オレが寝ているベッドの横までやってくる。
そのままオレを覆いかぶさるように、上にのった。というか、覆いかぶさっている。
オレの脚をはさむように、姉ちゃんの脚が密着する。
下半身に軽く体重がかかり、それが上半身にも移り、胸と胸が触れる。
いつもと匂いが違う。オレのシャンプーを使ったのか?
「何だよ」
「キスしたことある?」
あるわけねぇだろ、と答えようとしたところ、唇が重ねられた。
柔らかい感触が口に重なる。
口の隙間から熱い吐息が流れ込む。
熱い体温が重なる。
洗いたての髪がオレの視界をふさぐ。
初めてのキス。
でも、それは姉ちゃんの唇。
どんな眼をしてるんだ。
唇がかさなりあったまま「何するんだよ」と言いかけて、下から体を押し返す。
おもいっきり、胸をさわった。
意外と軽い。
片手だけで押し返せた。
上体を起こす。
キスしたいとは思ってたけど、姉ちゃんとキスしたいと思った事は一度もない。
右手の甲でゴシゴシと唇をふく。汚い。だけど柔らかかった。
姉ちゃんはそのまま、ベッドから降りて、またドアを開けて出ていった。
「じゃあね」
ドアが閉まった。
何だったんだ、今のは?
嫌だったはずなのに、心臓の鼓動は早まっている。
今のは姉ちゃんだよな?
いや、もしかして美奈子が入ってたのか?
それともレナか?
オレとキスしたのは誰なんだ?
* * *
ふっと我に返る。
ここは私の部屋。
勢いで愛宕とキスしちゃったけど、何も考えられない。
やっぱキスは勢いでするもんじゃないらしい。
反省しよう。
それにあの姿勢だと、意外と手の筋肉をつかう。
もうちょっと腕立て伏せをしておいたほうがいいかもしれない。
しっかり筋トレしよう。
いやまて、キスするために腕立て伏せをするわけじゃない、演技の為だ。
何を考えているんだ私は。ねようねよう。
その時、ケータイの着信音。
ディスプレイは下山監督の名前、時間は10時を過ぎている。
出てみる。
「お疲れ、今、電話大丈夫か」
「はい、大丈夫です」
「今回の件、聞いたぞ。残念だったな」
「……はい」
ちょうどいいから、さっきの話を聞いてみようか。プロは〈理不尽〉に勝利しなければならない、ならアマチュアは〈理不尽〉に対してどうしたらいいのか?負けるしかないのか。
「で、今どこにいる」
「家の……自分の部屋です」
「今からこれるか?恵温に」
「は?」
わけがわからないよ。
「実はな、里中に今日の話を聞いて、ちょっと俺はブチ切れてるんだ」
なんだ、生徒会室に殴りこみでもかけようというのか。こんな時間では、さすがに誰もいないはずなのに。
「お前らの部室の大道具、今、廃棄小屋にあるんだろ?明日の朝になったら、ゴミ収集車にもっていかれるじゃねぇか。夜のうちに学校に忍び込んで、取り返すんだよ」
「でも、保管場所は?っていうか、量多いですよ」
「中型トラックを俺がもっていくし、里中もフォークもって行く。保管場所はうちのアトリエの端をもう用意した。時間がねえんだ。もう、部長たちには連絡いってるんだが、お前ら2人も来れるか?途中で拾ってってやる」
「行けます、行きます」
もう私はジーンズを履いて、新しい靴下を探していた。ブラはどうしよう。
いいや、誰も見ていないだろう。
「よし、じゃあ15分後にマーケットシティこれるか」
「大丈夫です」
「よっしゃ、ケータイ忘れてるなよ、また連絡する。すぐに愛宕と来い」
「はい!」
電話が切れるなり、私は部屋を飛び出した。
* * *
まだ頭がしびれている。
姉ちゃんとキスした。
いや、あれは美奈子か?それともレナか?
体は姉ちゃんだけど、心は誰なんだ?
頭がボーっとする、ドタドタと乱暴な音がする。
ドアが開く。またか。
「姉ちゃん、入るときはノッ「うるさい、今から恵温行くよ!」
オレの忠告はうるさいの一言でかき消された。
何か知らんが、恵温に行くらしい。さっき戻ってきたばかりなのに。
「40秒で支度しな」
どうやら、これは真奈美姉ちゃんらしい。
先に下に降りて、まだ起きてるお父さんの部屋に行ったみたいだ。
頭の固い親父がこんな時間に外出許可を出すのか。
まあいい。20秒で着替えて、ケータイをポケットに入れる。靴下をはくのは、もう30秒はかかる。片足だけ履いたところで、下から怒鳴る声が聞こえた。
「さっさとしな」
うるさい姉だ。さっきのキスはなんだったんだ。
財布もポケットにいれ、机の上のチャリの鍵を掴む。
そういえば、姉ちゃんはバス通学派だろ。チャリで恵温まで行けるのか?
靴を履いて玄関を出たら、姉ちゃんがオレのチャリを持ってかまえていた。
「2人乗り、いいね。マーケットシティまで8分で行け!さっきのキスはその駄賃だ」
ひでぇ。
オレのファーストキスを返せ。
* * *
深夜に自転車を2人乗り。しかも重くなるから無灯火だ。
ケーサツに見つかれば補導されるかもしれないな。
マーケットシティまで愛宕が1人乗りなら10分でつくだろうけど、2人乗りだとそういうわけにもいかないらしい。
サドル後ろの荷台に乗るが、坂道では降りろと言ってきた。
というか、脚をバタバタさせると、後輪と当たって危険とのこと。
何てワガママな奴だ。こんなのだから彼女ができない。姉として将来が不安だ。
坂を駆け上がり、下り坂になったところで、荷台に飛び乗る。
今度は荷台に立って、愛宕の肩に手を置く。いつもより景色が高い。
「急いで、15分後って約束だから、もう10分経っちゃう」
「無茶いうな」
* * *
「転ぶなよ」
下り坂の道を2人乗りの自転車は加速しながら下って行く。
キスしてきたのを押し返した時はあんなに軽かったのに、自転車の後ろに乗るとこんなに重い。やはり同一人物とは思えない。別の人格が入っているときは体重までかわるんじゃないのか?じゃあ、やっぱりさっきキスしていたのは、美奈子かレナなのか?
だめだ、それを聞くのはやめよう。今はさっさと目的地に向かおう。
坂道はペダルをこがなくても、自転車は加速される。
うまくブレーキできないと姉ちゃんは前のめりで舗装道路に顔面スライディング、オペラ座の怪人になって一生嫁にいけなくなる。そうなると怖いので恐る恐るブレーキをかけ始めて減速しようとしたが、タイミングがいいことに下り坂が終わるところで信号が青に変わった。いつも赤なのに。
減速することなくそのまま、車線に入り、残りは直進道路をただ漕ぐだけ。
「ほらほらがんばんな」
立ってるだけの奴はお気楽だなぁ、まったく。
後ろからタッチパネルをいじる音がする。
「あ、監督。今から2分でつきます。今どこですか?」
どうやら下山監督と話しているらしい。
「了解です」
電話を切った。
「本屋でチャリを止めて。ブッコフの駐車場に監督と部長がいるから、トラックの荷台に乗れだってさ」
ともかく、2人乗りはそこで終わるらしい。
チャリを駐輪場に止めて、広いマーケットシティ駐車場の反対側にわたる。
もう10時なのに、マーケットシティはまだ煌々と明るい。
姉の後をついていく。
閉店したブッコフの駐車場に、下山監督を見つけた。助手席に錦町先輩がいる。
「お疲れ様です」と声をかける。
「すぐ乗れ、出すぞ」
荷台にはすでブルーシートがあるだけで何も入っていない。
「一応、道交法では荷台に荷物があるときに、落ちないように抑えるためなら人を乗せてもいいんだが、今は何も積んでないから、道交法違反になっちまうんだ。
とりあえずブルーシートかぶっとけ。祭りの日だったら規制も緩くなるんだが、今日だったらアウトだな。まぁ火曜だし、飲酒の検問もやってねぇだろ」
しゃべりながら荷台の留め金を緩めて荷降ろしができるようにする。
すでにブルーシートはテント状に、運転席後ろから緩いスロープで荷台後方まで貼り付けられている。一度はブルーシートを踏まないといけない。足場はなく段差は高いがなんとか登れる。先に上って、まだ上がれてない姉ちゃんに手を差し出す。
右手に掴まると同時にグッとひきつける。
やっぱり、ベッドの上では軽かったのに、今は重い。
余計なことをいうと殴られる。
とりあえず、脚元のブルーシートをめくって、下に潜り込む。
荷台はヒンヤリ冷たい。
四つん這いになって、運転席のすぐ後ろまでやってくる。
「風であおられないように、しっかりと結ぶぞ」
監督の声がシート越しに聞こえる。
運転席の後ろには荷台から覗きこめるガラス窓がある。中を見ると、助手席の先輩がすぐ左に見えた。思ったより顔が近い。何やらしゃべりかけてくるが、まったく聞こえない。どうやら窓は開閉できないようだ。
「よしできた」
監督は準備が整ったようだ。
「これなら目隠しにもなるだろ、中を見てもいいが、パトランプが見えたら隠れろ。バイパス乗るから、スピードもでるぞ」
そのあと、バタンとドアがしまり、エンジンがかかる。監督が運転席で何やらでかい声を出したが、はっきりとは聞きない。
そのままトラックは動きだす。
トラックの荷台に、2人で隠れてバイパスに乗る。
ドキドキワクワク跳躍感とあふれる背徳感。
今、オレは悪いことをやっている。
「なんかワクワクするね。トラックの荷台に隠れて、まるでトトロみたい」
あの映画の冒頭か。
「夜の学校に忍び込むってのも初めて。校舎には入らないけど」
姉ちゃんの弾む声が聞こえる。
「シートがなければ完璧だったね。星空が見えたのに」
「そりゃ仕方ない」
姉ちゃんの髪からは、オレのシャンプーの匂いがした。
* * *
トラックの速度が落ちて、一旦停止が多くなってきた。バイパスから降りたのだろうか?
荷台から運転席をのぞきこんで、フロントガラス越しに夜の景色を見る。
もうすでに、恵温高校の前まで来ていた。
門に斎藤先生と里中先生がいる。懐中電灯で合図していた。後ろにはかぼちゃんもいる。
柴田先輩は家が遠いのでまだ来てないらしい。
トラックはそのまま敷地に入るとエンジンを止めて、廃棄小屋の前にとまった。
助手席から降りた部長がロープをほどいて、ブルーシートをめくり上げる。気温は変わらないが、外は闇夜。誰もいない無人の校舎。
「宿直の先生はちゃんと買収しておいた。気付かなかったことにしてやるから、さっとやれってさ。今やれば、明日の朝に粗大ゴミで回収されたと思うだろうから、執行部の連中を騙すタイミングとしてはちょうどいい」
「よし、じゃあさっさとフォークを下しな」
なんと里中先生がもってきた中型トラックにはフォークリフトが乗っていた。フォークとはフォークリフトの略だったのか。しかもトラックには荷降ろし用の電動リフトもついている。
「使いな」
監督がプラスチックケースをどんと置く。中に全員分のヘルメットと軍手がある。舞台の仕込みみたいだ。
「目標は12時だ。日付変更までに片づけるぞ」
私たちが2日がかりで、合計7時間で部室から廃棄小屋にもってきた荷物。それを1時間で、全部トラックに載せきる。できるかどうか、いつもだったら不安に思うだろうが、今は簡単にできそうな気がする。
「200メートル先は近隣住民のみなさまがお休み中だ。でかい声での返答はいらないが、意思疎通の返事だけはしっかりしろよ。怪我するなよ」
みんなが小さくハイと答えて、真夜中の撤収劇が始まった。
* * *
柴田先輩も合流したころには8割がた終わっていた。日付が変わる前には、全部の道具を2台のトラックに積み込めた。
こういうときは、プロの舞監ってのは本当に頼りになる。
素人の積み下ろしとは空気が違う。
「お疲れさん、まぁ飲めよ」
差し出されたコンビニ袋の中には、コーヒーや炭酸、アクエリ、それから錦町部長がお気に入りの赤い牛のエナジードリンク。
私はコーラをとり、愛宕はアクエリをもらった。
なんだかんだで男手は重宝する。愛宕は一番働いたのだろう、汗でシャツが濡れている。
「乾杯」
監督はブラックのコーヒーを差し出す。里中先生は赤い牛のを、斎藤先生はコーラ、かぼちゃんはなぜかトマトジュースだった。
あんまうれしい気分でもないが、まぁ大道具の廃棄は免れたので、乾杯しておこう。
「おおっと、乾杯はいいが、その前に、今後の話をしておけばよかったな」
監督は黒い液体を喉に流し込んでいる。
なんだろう、高揚しているのか。
「お前ら、これからどうしたい?」
まずは部長を見つめた、その後は副部長、次はかぼちゃん、そして私をみつめた。力強い瞳だ。眼力がある。最後に愛宕を見つめた。
「だいたいの粗筋は里中に聞いたんだが、俺は腹が立っている」
目は笑っている。が、監督は怒っている。あぁ、怒っているのだ、私たちと同じように怒っているのだ。
「で、これからどうしたいか、部員のお前らの意見を聞きたい」
私はまっさきに答えた。
「部室を取り戻したいです」
しばしの沈黙。
「……まぁ、そうだな」
え?違ったの?
部長を見る。
部室を取り戻したいのは私だけ?
ゆっくりと部長が口を開く。
「部室を取り戻したい思いはある。でも、それでも私は……」
何か言いかけてる。
「無理強いはしねぇから、言っちまいな。受験の時期だってのはわかるが、今は素直な気持ちを聞きたい」
「私は………………もう一度やりたいです」
しゃべりかけた錦町先輩の沈黙に耐えきれなかったらしく柴田先輩が先に言ってしまった。
「ナツヒ……」
「部室を取り戻したいのは私も同じです。でも、私はもう一度やりたいです」
監督は嬉しそうな顔をしている。うれしそうというか、企みが当たった時のような悪代官の顔だ。嫌らしい顔なのだが、不思議と好感がわく。10代の男では出せない、40代の貫録をもった笑み。
「私もです。もう一度、やりたい。今回が引退って決めてたけど、引退したくないです」
そこで部長は泣きだした。
そうだ。
私は部室のことに囚われ過ぎていた。来場者対決のことばかり考えていた。
この2人は今回のあの公演で終わりだったのだ。引退だったんだ。
これから受験が始まる。錦町先輩は私立の有名大学コース、志望校は早慶上智の文系。
柴田先輩も理系コース、国立私立どちらもと言っていた。一番の志望はT工大。
恵温からだと簡単に受かるレベルではない。日東駒専がメインで、上位グループでもMARCH関関同立レベルがちらほらいる程度で、恵温でトップクラスの成績をとっていないと早慶上智やT工大は受からない。
いくら2人が優秀でも、相当に勉強しなければ受からない。
もう演劇なんかをしてる場合じゃない。
そういう時期に来ている。
演劇をしながら、勉強して、合格できるような容易な大学じゃない。
だから2人は一度引退を覚悟した。この前の夏公演は、軽音部との来場者数勝負がなければ、普通に2人の引退公演だった。最後の公演だったんだ。
私はそれを忘れていた。
何もかも部室のことに頭が行っていて、2人の気持ちなんて微塵も感じていなかった。
女池真奈美、この莫迦女め!自分じゃなかったら呪い殺してやりたいほど愚かな女!
勝手に苛立つ私に気づいてか気付かずか、監督がゆっくりとしゃべり始めた。
「さてと、部室の件は俺にはどうしようもできない。だが、学校外のことなら、少し手伝える」
「学校外って……」
「演劇をする場は、学校や発表会、研究会だけじゃないだろ」
――――心臓の音が一瞬とまった。その後に大きくドクンと鳴る。
「だけどな、ただやるだけじゃつまらん。あの生徒会というか、執行部っていうか、軽音部の方な、確かあいつらも引退ライブがあるんだろ?ゴールデンかロッツを貸し切ってさ」
ゴールデンとかロッツってのはわからないが、おそらく軽音部がライブをできるような会場なのだろう。
「向こうの日付を調べたら、8月28日、夏休みが終わり際の平日だ。アーティストたちの夏のライブ巡業もそろそろ終わりの季節だ」
監督が何を言いたいのかわからない。
「あいつらの客を全部とっちまおうぜ。それでむこうのをスッカラカンにしてやるのさ」
バリケードでも立てるのか、今のパネルで?
違う、そんなことを言っているんじゃない。もしかしてこれは――――
「向こうのライブの同じ時間帯にこっちの公演をぶつけてやればいい。軽音部の取り巻きは向こうに流れるかもしれんが、無党派層をこっちが取り込む。それも大量に」
「どうやって」
柴田先輩が口を開いたが、それには里中先生が答えた。
「今回の一件、すでに学校内でそこそこ話題になっている。軽音部が汚い手を使って、演劇部から部室を奪ったってな。恵温高校だって普通の生徒はたくさんいる。誰も彼もが軽音部バンザイ、生徒会執行部バンザイって奴らじゃない。今の生徒会執行部や、これからの恵温高校を憂いている生徒は多い。生徒だけじゃない。保護者やOBOG、県の教育関係者、地元住民の間にもその感情は広がっている。軽音部で学校起こしだとか、特色作りってのの無理がここ1年で相当でてきた。その結果が、これだ。
今、お前たちでできることは少ないが、お前たちが種火となって、大火事を起こすことはできる」
「回りくどい話はいい。とどのつまりを言いな」
監督が里中先生をたしなめる。監督は里中先生より一回り上だ。力関係は監督の方が上なのだ。
「つまり、軽音部が不当に圧力をかけて潰しにかかった演劇部の実力を見せつける。保護者、OBOG、教育関係者、地域住民にもだ。そして軽音部なんかと違い、清く正しく活動しているお前の姿をアピールし、学校内の政治力学と世論を動かす」
「それでも周りくどいな。御託はいいんだ」
また監督がチャチャをいれる。
「公演日をぶつけて、リベンジするって言えば早いじゃねぇか。奴らの鼻ッ柱をへし折ってやる。策は後で練ればいい」
理屈よりも感情で動く人なんだ、この人は。理屈がとってつく教師じゃない。社会人、アマチュアの経験もあるプロの舞台屋、言葉よりも感情なんだ。それにこの人なら、策はちゃんと練ってくれる。後回しにして放置はしない。だから頼りになる。
かぼちゃんは冷静に返答する。
「それはわかりました。脚本も今回のを使えば、新たな用意はいりません。もし2人が引退しても、3人で何人とかする脚本を探してくることもできます」
「でも箱はどうしますか?ゴールデンのキャパは150人、ロッツはスタンディングなら500人以上は入ります。500を超える会場っていうと、体育館か講堂しか思いつきません。講堂だって、スタンディングで入るかどうか」
かぼちゃんに続いて柴田副部長が訪ねた。
「だから言ったろ、学校外だって」
まさか――――。
監督は余計ニヤニヤしてる。
里中先生もニヤついている。
心なしか斎藤先生も同じ表情をしている。あ、今、しゃっくりをした。
「それでよ、箱を調べたんだが、ちょうどよく8月28日に開いてる場所があった。ついでに前日も空いてた」
昨日の今日でもう調べたのか。大人ってすごい。
「もしかして――音文?」
音楽文化会館、川沿いにある大きなネズミ色の建物。県内の高校演劇の聖地。アマチュアだけじゃなく、プロの演奏会やコンサート・イベントも行われる。
「音文のキャパは500人だ。それからさっきロッツはスタンディングで500人以上って言ったが、正確には700人入る。音文が満席でも足りない。それに音文は30日、ホルンの演奏会がはいっている」
音文ではない。そうすると次は……。
「じゃあ、芸文?」
「それは俺も考えた。芸文だったら考えられるのはコンサートホール、劇場、能楽堂の3つ。コンサートホールのキャパは約1900人、正確には1884人。だがあそこは交響曲をメインに想定してあるから、演劇には向いてねぇ。もちろん、前例はあるっちゃあるんだが、今回はパスだ。能楽堂は400人弱だが、能楽堂でも演劇の実績はあるんだが、今回の公演には合わないな。そうすると劇場だが、あそこは800席、空いてるなら最適だったんだが、残念ながら劇場はFOB主催のコンサートが入っている。もちろん市民体育館もなしだ。プロレスやボクシングじゃねぇんだ」
そうするとどうなるんだ。監督もはやく、とどのつまりを言ってほしい。
「音文、芸文、市民体育館もだめなら、もうあそこしかないだろう」
「まさか――――」
川沿いに建つ、県内興行の中心地、音文、芸文、市民体育館、そして――――
「県民会館、大ホール」
――――体の中を
――――ゾクリと
――――何かが駆け抜けた
強烈な電流が背骨の中を走る。髪の先から、脚のつま先まで伝わる強烈な波。
冷めたい夜の空気で冷えた体を熱い血流が駆け巡る。
県民会館、大ホール。
プロの演劇だけじゃない、トップアイドルや海外のビッグアーティストのコンサート、ライブも行われる、県内最大規模の舞台。
「キャパは1階席が固定席だけで1100超え、2階席を合わせればと移動席を外したとしても1500席。移動席をフル活用して、2階席も使えば、1700席」
何だろう。体が熱くなる。
立ちたがっている。私は、県民会館、大アリーナのステージに立ちたがっている。
忘れもしない。小学3年生の時に子役で出演したミュージカル『ねここねこ物語』
県民会館の大アリーナ。1階席と2階席満員の観客。そうか、あれは1500人いたのか。
あの時はキャストだけで30人いた。今回はたった4人。
4人であのステージに立つのか。
――――やりたい
その次の瞬間にやってくる。
――――できるのか?
いや、できっこない。
1700人を前に立てる演技が今の4人にできるはずがない。
それにスタッフもいない。監督や先生2人、愛宕を入れても4人。4人だけじゃ、できっこない。
頭を反芻するネガティブな感情。
やめたがっている。ほんの一瞬前に、立ちたがっていたのに。
怖い。
大きな会場。
失敗は許されない。
これだけのプレッシャーを跳ね返せるわけがない。
しかし――――
「やります」
部長が言った。
「大丈夫、私が主役をやれば、全部うまくいくよ」
ずっと昔に、同じセリフを言った覚えがある。
あの時の私はとても高慢だった。
しかし、今の錦町先輩が言うと、とても頼もしく思える。
「私もやりたいです」
副部長も言う。
「アカリと真奈美ちゃんは県民に立ったことあるかもしれないけど、私は県民に立ったことがないんです。立ちたいです。県民に」
そうか、副部長も立ちたいのか。あのステージに。
思い出した。
――私はまだ、大箱での演技経験ないから、2人に嫉妬しちゃう――
副部長は経験がないんだ。県民会館の。
経験がほしいんだ。証しがほしいんだ。
高校で、3年間がんばってきたって言う、証明が。
立ちたいんだ、あのステージに。
すでに立ったことがある私にはわからなかった。あそこは夢の舞台、憧れの場所なんだ。
「私も」
かぼちゃんが言う。かぼちゃんも立ちたいの?あそこに?
これで3対1。私が反対したとしても、多数決で決定だ。
いや、私は反対しないけど。
でも怖い。
「オレも、県民会館、やってみたいです」
私より先に、愛宕が言いだした。何を言っているんだ。私より先に。
「真奈美ちゃんは?」
「……」
即答できない。
やりたいと言いたい。
でも言えない。
沈黙の時間が続く。
みんなが意外そうに私を見る。
私だったらすぐにやりたいと言うと思っていたのだろう。
やりたい。でも……。
「……怖いです。県民会館。立ちたいけど、あそこは……」
あそこはキラキラ輝いている。
だけど逆に、奈落は本当に地獄の底まで続いている。
成功も失敗も両極端な。ゼロかパーフェクトしかない、大舞台。
集まる1700の視線。
いや、もしかしたら、県民を借りても、誰も入らないかもしれない。
広い会場に、ポツポツとまだらな人影。
誰もいない会場、演技する私たち、響く声、むなしい演技。
誰も見ていない演技ほど辛いものはない。
――――怖い。
「怖いよな。俺もそうだった」
「え?」
「俺も初舞台監督が県民だった。大ホールじゃない。小ホールだ。結果はダメダメで、興行主に台本で叩かれた。今となっちゃいい思い出だ。舞台監督やる前の、統括隊長も初めての時は、県民だった。隊長だけじゃない。ケータリングも、アーティスト送迎も、一番下っ端の客席案内も……。何もかもが、県民会館が最初だった。
誰にでも初めての時はある。そんで初めての時は怖い。
一番下っ端の時は、ただ公演中にステージに背中向けて立ってるだけだったが、それでも怖かった。アーティスト送迎の時は、ベテランさんで、俺以外にもスタッフがいたが怖かった。今度は1人で送迎の時もあった。あれも怖かった。初めての舞監の時は一週間前から緊張で眠れなかった。俺も怖かった。今でも怖い。やってる最中はとても怖い。でも、何度もやってる内にな、麻薬みたいなもんで、しばらくやってないと欲求不満で欲求不満で、また舞台に戻りたくなってくる。
俺みたいなスタッフだけじゃない。役者だってあそこは怖い。大の大人が袖で震えてるさ。ジュニアタレントが怖くなって開演前に泣きだすこともあった……。大の大人だって怖いさ。怖いのはわかる」
え?
ジュニアタレントが泣きだす?
県民の大ホールで?
「すいません、監督。7年前、劇団〈シクラメン〉の『ねここねこ物語』って、その時、県民会館にいましたか?」
「なつかしいな。あの時はまだ舞台監督じゃなかった。会社から監督と一緒に派遣されて、その中で一番若かった。上手か下手袖で操作してたと思うよ」
なんで今まで確認しなかっただろう。子役時代の私が、監督の元で舞台に出ていたのだ。
錦町部長も知らなかったのか?それともすでに知っていたのか?
「その時じゃないですか?子役が泣いていたのって」
「……ん?どうだろうなぁ、もしかしたらそうかもしれないな」
「あの時、ヘルメットにビックリマンシールが貼ってある舞台監督が、泣いてる私をやさしく慰めてくれたんです。『大丈夫。君ならできるよ。君ならできる』って」
「あぁ、そりゃあ間違いない。俺の大先輩だな。俺が会社いた時の人だよ。もう引退しちゃったけどな。俺はあの人に何もかも教わったんだ。そうだ、『ねここねこ』の時、俺はその人の下で操作やってたよ。そうか、あの時の女の子は真奈美ちゃんか……」
あぁ、そうだったのか。あの時の監督は、下山監督の先輩なのか。
そして、あの時の舞台に、当時は監督じゃなかったにせよ、下山監督もいたのか。
――――ふっきれた。
「私、もう一度やりたいです。今度は泣かないで、ちゃんと演技をしたいんです」
下山監督はキョトンとしている。一瞬、表情を失った後、またニヤニヤしだした。
誰かが背中をなでてくれているが、誰なのかはわからない。
あぁ、泣いている。私は今、泣いている。
県民会館にもう一度立てる。まだこの演劇部でもう一度舞台に立てる。大道具を捨てなくても良くなった。もう一度レナをやれる。あの時のやさしい監督が誰なのかわかった。いろんな感情がまじって泣いている。
「里中も、斎藤先生もいいな」
里中先生がうなづく。
「決まりだ。明日、朝イチで、県民会館大ホール、8月27日、28日を抑えるぞ」
私の涙は止まらない。まだ泣いている。
昨日から泣いてばかりだ。
あの日、ウキウキウェスティバルの出し物を決めたあの日から、昨日までずっと何年も泣いてなかったのに、本番で6年ぶりに泣いた。昨日も泣いた。そしてまた今日も泣いている。この前の注射はノーカウントだ。あれは私がじゃなくて、犬が鳴いていただけだ。じゃなきゃ美奈子が泣いてたんだ。
この夏はいろいろなことがありすぎた。
でも、まだ夏は始まったばかりだ。
夏の終わりに、とんでもないビッグなイベントがまっている。
県民会館で公演。
またレナをやれる。レナになれる。レナに会える。トオルにも会える。
そして、私の17回目の夏は、私史上、最高の夏になりそうだ。
* * *
そして、オレの16回目の夏は、オレ史上、最悪の暑さを記録していた。
結局、生徒会執行部は7月の教員会議にて議題にあげられた不公平な入場者数勝負の件だけでなく、予算の不明瞭な使い方までもがバレてしまって、生徒自治棟の自治権をはく奪されてしまった。過去の先達たちが並々ならぬ努力で勝ち得た権利を、あっさりと奪われてしまったのは自業自得だったろう。同情する余地はない。生徒会執行部と軽音部は生徒の自主性の尊重がうんぬんかんぬんと申して、同調者を集めて自治棟に籠城する構えを見せたが、日ごろの行いが悪かったせいで生徒会執行部に同調するのは軽音部の関係者のみであり、慣れない肉体労働によってうずたかく積まれたバリケード用の机は、これまた空しく、体育会系部活動のバリケード突破部隊の中央突破にて簡単に崩落となり、誰一人怪我人を出すことがないまま指導者である執行部三役は御用となった。臨時の教員会議にて、三役の処罰と今後のことが論じられたが、結論としては、生徒会執行部役員はすえおきで、文化系部長会代表の座を、吹奏楽部の部長に奪われることで満場一致なった。これにて何年にも渡る、生徒会長が軽音部と文化系部長会代表の3役を兼ねるという悪しき伝統が消滅したことになる。
そして、演劇部の部室没収も撤回されたが、ここからがややこしい。
部室はまた与えられることは約束されたが、ソーシャルゲーム制作部とて不真面目な団体ではなく、れっきとした団体であり、彼らから部室を取り返すわけにはいかない。
生徒会執行部が長年放置してきた部室問題を教員側で解決することにはなったが、もはや学生自治棟のキャパだけでは、全部活に部室を与えられないことは明瞭であり、苦肉の策として、夏休み中に大々的な改修と、全PCを総入れ替えするコンピューター教室の半分をコンピ件、半分をソーシャルゲーム制作部がそれぞれ放課後に部室として利用することに合意した。すると、工事が終わるまでの夏休み中は、まだ自治棟の端っこの部屋はソーシャルゲーム制作部の部室ということとなり、夏休みが終わるまでは演劇部は部室なき民となったのである。代わりに練習場所として、屋上の使用が許可された。これは異例の措置らしい。
そしてこの夏は快晴が続き、雨はちょこちょこ降る程度。
熱い太陽光線が屋上のアスファルトに照射され、校舎全体の気温を上げていく。
日影のない屋上なら暑さは倍増だ。せいぜいの救いは風があることか。
そして今、我等恵温高校演劇部は、1週間後の県民会館上演に向けて猛練習の真っ最中である。今日からはようやく夏期講習の終わった錦町先輩と柴田先輩が合流することになる。今日からは通し稽古。一日だって無駄にできない。
幸いにもチケットの配布は好調で、監督が採算度外視の大赤字覚悟で手配してくれたから、無料公演になった。監督は黙っているが、おそらく里中先生と斎藤先生も金を出したのだろう。それでも大赤字には変わりない。
首都圏ならともかく、地方では高校生の演劇は入場無料が大原則だ。全国大会常連の高校はもはやプロと変わらぬ腕前を持っているが、みんな無料で公演している。首都圏では箱代が桁違いだから入場料とられる場合もあるがそれでも1000円はしない。
もちろん恵温高校は無料で公演する。一銭もバックはしない。
舞台屋〈トマトカレーパン〉は主催や演出も含めて、今回の件に全面協力してくれることになった。なんだかんだでみんなオレたちのことを心配してくれている。
体育祭の時のメンバーがまた手伝ってくれることになった。
「こんなことになるなら、もっと宣伝も手伝っておけばよかったな。ごめんな」
その言葉だけでも十分なのに、みんな夏休み中にも何度も顔を出してくれた。
軽音部の方は、別に勝負のことなんか気にしないと、涼しい顔を見せているようだが、この前盛大に恥をかかされた手前、2連敗はしたくない。奮発してゴールデンではなくロッツを会場にしたのだが、有料のチケットノルマに相当てこずっているらしい。この前は、チケットを買わない1年生を体育館裏に呼び出したらしいが、それもサッカー部の通報で現行犯逮捕になった。
今回の勝負は、別に部室がどうだとかを賭けているわけでもないし、お互いの来場者数を報告する義務もない。ここから先は、ただ何て言うのかわからない意地みたいな、大事な物、人として大事な物、アイデンティティーとか、自分の誇りとか、そういうもっと大事な物を競う勝負なのだ。うん、今、オレはいいことを言った。とてもいいことを言った。後で使ってみよう。
あれから姉ちゃんの様子は、特に変わった様子もなく、真奈美であったり、美奈子になったり、練習中はレナになったりしている。
姉ちゃんにキスされたあの夜のことは未だに頭から離れないが、あの時、姉ちゃんの体に入っていた、オレにキスした張本人は誰なのか、それも未だにわからない。
ただもしかしたら、あのキスがきっかけで、2度目の夏公演は、1度目の夏公演より、もっと何か、キスについてこう、なにか、ほら……何ていうか……、よくわからないが、前の公演のキスと今回の公演のキスとでは違うのかもしれない。
まあ、レナがキスする相手はオレじゃなくて、錦町先輩だ。いや、トオルだ。
もうオレが姉ちゃんとキスすることは永遠にないだろう。
――――本当に?
姉ちゃんが来た、かぼちゃんも来た、里中先生も、斎藤先生も来た。
部長と副部長も来た。
さぁ、練習を始めようか。
拙者、親方と申すは、お立会いの中にご存じの方もございましょうが。
――――あぁ、頭がしびれる。
――――きっとこれも夏の暑さのせいだ。
――――さて、急ごう。
――――公演まで残り1週間。
――――高校生活初めての夏が終わる。
――――せめて夏が終わるときは、笑って終わりにしたい。
羽目を外して今日御出での何茂様に、上げねばならぬ、売らねばならむと、息せい引っ張り、東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ほほ敬って外郎はいらっしゃりませぬか?
了