来場者勝負
「あぁキスしてぇ」
ここで客席から微妙な反応がある。
ドッと笑いが起きるわけじゃないが、いい反応だ。
即席の公開練習会場には、立ち見も含めて25人。1時間30分の劇、最初の30分を公開する。下山の作戦なんだろうが、いい作戦なのか悪い作戦なのかはわからない。
来場者集めには重宝するだろうが、これを見た後の観客は、本番の最初30分は全く同じ劇を見る事になる。大丈夫なのか。
「あいつが優柔不断でさぁ」
それにしても、レナ役の女池真奈美はものすごく化けた。
錦町が言うには、美奈子の次に、レナって3人目の人格が降りてきたらしいが、それを機会にガラッと変わっている。しゃべり方も目つきも呼吸も歩き方も普段のそぶりも全てが女池真奈美ではなくなっているし、女池美奈子でもない。
憑依型の役者は何人も見てきたが、ここまで憑依しちまう役者は初めてだ。
南爪も例年であれば十分に優秀な部類に入る子なんだが、今年は女池みたいな特出した奴がいるせいで、どうしてもアイツに比べて成長が遅いと感じられてしまう。
しかし、体格的にも男役がはまる長身の錦町、小さい柴田、太い南爪ってのはアクセントにはなる。女池は錦町とキャラがかぶってるんだが、美奈子になった時は意図的にO脚にしたり、気付かないレベルで猫背にしたりで身長をかなり操って差を出している。
唯一の男手の愛宕は、下山のおかげでスタッフとして基本的な素直に学ぶようになっている。練習もまじめにやっているが、男が1人だけというのは、本人は意識してなくても大変だろうな。だが家庭では姉がいて、女性のペースに合わせる癖がついてるし、その姉が同じ部活にいる。男女トラブルとは無縁そうなまじめな奴だ。。これから部員が増えても、役者としてではなく、スタッフの中心人物になっていくだろうな。
昼休み終了10分前に公開稽古は終了。
廊下の机を中に戻すのを観客の生徒が手伝っている。
いい傾向だ。
今日が最後の公開稽古。
明後日は来場者対決。
さぁ、どうなるか楽しみだ。
* * *
うえぇぇぇぇええええっーーーー!
また吐いて戻した。
最近、ストレスのせいで胃をやられている。
ニキビも増えた。
もう明日は来場者対決本番。
いや、日付的にはもう今日だ。
時間は真夜中0時すぎ。早めに寝たのにこんな時間に起きてしまった。
寝ようと思っても、ここからすぐには寝れそうにない。
迷ったあげく、パジャマから着替えて、外に出ることにした。
ちょうど残業が終わって帰ってきたお父さんがツナギのままご飯を食べている。
お母さんもまだ起きている。金曜の夜は夜更かしなのだ。
「朱路、こんな時間にどこ行くの?」
「神社」
自販機とかコンビニって言うと怒るんだけど、目の前の神社と言えば怒られない。
「気をつけなさいよ」
サンダルをつっかけて、玄関を開ける。
すぐ目の前に神社がある。小さいけれど手の行きとどいた小綺麗な神社。
初詣には別の神社に行くし、夏のお祭にはここ何年か行っていない、そもそも何を祭っているかもわからない小さな神社。だけど駐車場とか相撲の土俵とか公園とかがあるし、保育園もたっている。私もこの保育園に通ったんだ。
私の家には庭がないけど、この神社の公園が庭代わりだ。
神社の敷地の外で立ち止まって、深呼吸1回。大きく吸って丹田の下で呼吸を止めて、それを吸った時の2倍の時間をかけてゆっくり吐きだす。
一揖してから鳥居をくぐる。
真ん中の道は正中、神様が通る道だから、人は通ってはいけない。
手水舎につく。真夜中でもちょろちょろと水が流れている。
右手でひしゃくを手に取り、水をすくい、左手を清める。
次に左手でひしゃくを持ち替え、右手を清める。
もう一度右手に持ち替え、左の掌で水をため、口をすすぐ。
また左手を水で清める。
使ったひしゃくを立てて、柄の部分を清めて、元の場所に戻す。
お清め終了。
本殿参拝。
石作りの階段を上がり、賽銭箱の前に立つ。
再び深呼吸、一揖する。
力強く鈴を鳴らす。真夜中だけど構うものか。
お賽銭を賽銭箱に入れる。今日は奮発して500円。
次は二礼。揖よりも深く礼をする。その角度は90度。
ここまでは神社の正しい作法。
しかし、ここからは正しくない作法。
合掌礼。これは神道の合掌でも礼でもない。
少林寺拳法。
私の心の在りどころ。
そして神様に祝詞ではなく、外郎を売りつける。なんて罰あたりなんだろう。
拙者親方と申すは、お立合いのうちにご存知のお方もござりましょうが、お江戸を発ってニ十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて青物町をのぼりへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪いたして円斎と名乗りまする。
――あぁ、心配で眠れない。私たちは本当に勝てるんだろうか。
元朝より大晦日まで、お手に入れまするこの薬は、昔、珍の国の唐人、外郎という人、わが朝へ来たり、帝へ参内の折からこの薬を深く籠め置き、用ゆる時は一粒ずつ、冠の隙間より取り出す。依ってその名を帝より、透頂香と賜る。即ち文字には頂き透く香いと書いて、とうちんこうと申す。
――やると言ったのは私だが、なんでやるなんて言ったんだろう。
只今はこの薬、殊の外世上に弘まり、方々に似看板を出し、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のといろいろに申せども、平仮名をもってういろうと記せしは親方円斎ばかり。もしやお立合いの中に熱海か搭の沢へ湯冶にお出なさるか、又は伊勢御参宮の折りからは、必ず門違いなされまするな。
――一瞬でも軽音部に勝てるとでも思ったのか。なんて見積もりが甘かったんだ。やればやるほど不安になる。でも1年生には不安を見せないようにしてきた。
お登りならば右のかた、お下りなれば左側、八方が八つ棟、表が三つ棟、玉堂造り、破風には、菊に桐の薹の御紋を御赦免あって系図正しき薬でござる。いや最前より、家名の自慢ばかり申しても、ご存知ない方には、正身の胡椒の丸呑み、白河夜船。さらば一粒食べかけて、その気味合いをお目にかけましょう。
――部長として弱さは見せたくなかった。でも私だって1年前までは部長でもなんでもなかったんだ。
先ずこの薬をかように一粒舌の上にのせまして腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬは、胃・心・肺・肝がすこやかになって薫風喉より来たり。口中微涼を生ずるが如し。魚鳥・茸・麺類の食い合わせ、そのほか万病速効ある事、神の如し。さてこの薬、第一の奇妙には、舌のまわることが、銭独楽がはだしで逃げる。ひょっと舌がまわり出すと、矢も盾もたまらぬじゃ。
――私から見れば卒業していった先輩たちは完璧に見えた。でも先輩たちも裏ではこんな風につらかったんだろうか。なんで私は、それに気づかなかったんだろう。
そりゃそりゃそらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ。アワヤのんどサタラナぜつに、かげサしおん、ハマの二つはくちびるのけいちょう、かいごうさわやかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよおろ。一つへぎへぎに、へぎほしはじかみ、ぼんまめぼんごめぼんごぼう、摘みたでつみ豆つみざんしょう。
――出来もしないことを出来ると嘘ついて、これで負けたら、部室は没収、執行部ならドミノ倒し式に廃部勧告や強制廃部もありえる。
書写山のしゃそうじょう。粉米のなまがみ粉米のなまがみこん粉米のこなまがみ、しゅす・ひじゅす、しゅす・しゅっちん。親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親かへい子かへい子かへい親かへい。古栗の木の古切口、あま合羽かばん合羽か、貴様のきゃはんも皮脚絆、我等がきゃはんも皮脚絆。
――なんてバカなことをしたんだろう。職員会議を通して時間を稼げばこんな横暴は防げたはず。全て私のバカな一言が招いたこと。
しっ皮袴のしっぽころびを、三針はり長にちょと縫うて、縫うてちょとぶんだせ。河原撫子・野石竹、のら如来、のら如来、三のら如来に、六のら如来。一寸先のお小仏に、おけつまずきゃるな。細溝にどじょにょろり。京の生鱈奈良生学鰹、ちょと四五貫目、お茶立ちょ茶立ちょ、ちゃっと立ちょ茶立ちょ、青竹茶せんでお茶ちゃっと立ちゃ。
――私に部長を任せて引退していった先輩たちは、私が演劇部をつぶすだなんて思ってもいなかっただろうな。
来るは来るは何が来る、高野の山のお杮小僧、狸百匹・箸百膳・天目百杯・棒八百本。武具馬具ぶぐばぐ、三ぶぐばぐ、合わせて武具馬具、六武具馬具。菊栗きくくり、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。麦、塵、むぎごみ、三むぎごみ、合わせてむぎごみ、六むぎごみ。あの長押の長薙刀はたが長押の長薙刀ぞ。
――本当の私は強い人間でも優秀な役者でもなんでもない。立派な演劇理論も、確立したキャラ設定もない。大阪弁や京都弁にあきたら、次は江戸時代風、適当にその時にしゃべりたい方言をしゃべっていただけの痛い子だ。
向こうの胡麻がらは荏のごまがらか真ごまがらか、あれこそほんの真胡麻殻。がらぴいがらぴい風車。おきゃがれこぼし、おきゃがれ小法師、ゆんべもこぼして又こぼした。たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりからちりからつったっぽ。たっぽたっぽ一干だこ、落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持ち・虎熊・虎きす。
――もちろん明確なビジョンも何も持たない、真奈美ちゃんに何も偉そうなことも言えない、ただ漠然と3年生になっただけのただの馬鹿女なんだ。
中にも東寺の羅生門には、茨木童子がうで栗五合、つかんでお蒸しゃる、彼の頼光の膝元去らず。鮒・金柑・椎茸・さだめて後段ごだんな、そば切り、そうめん、うどんか愚鈍な、小新発知。
――演劇部がなくなったら、どうしたらいいだろう。来場者勝負がなければ、この時期に引退だったはずだ。だから演劇部が残ろうと無くなろうと、引退は引退だ。明日からの私には関係ない。
小棚の小下の小桶にこ味噌が、こ有るぞ、小杓子こ持ってこ掬ってこ寄こせ、おっと合点だ、心得たんぼの川崎・神奈川・程が谷・戸塚は走って行けばやいとを摺りむく三里ばかりか、藤沢、平塚、大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして早天早々、相州小田原とうちん香。
――でも演劇部をつぶすという事は、今までの演劇部の歴史をつぶすことじゃないのか?過去何十年と先輩たちが続けてきたバトンをここで放り投げるようなものじゃないのか。今までの記憶と記録を消すことじゃないのか。全ての演劇部OBやOGの気持ちを踏みにじる物なんじゃないのか。
隠れござらぬ貴賎群衆の花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見てお心を御和らぎやという、産子、這う子に至るまで、此の外郎の御評判、御存知ないとは申されまいまいつぶり、角出せ棒出せ、ぼうぼうまゆに、臼・杵・すりばち・ばちばちぐわらぐわらぐわらと。
――失敗したらどうしよう。いや、失敗はしなくても、公演がうまくいったとしても、来場者数で負けたらどうしよう。そもそも勝負では、成功するしないの是非とは問わない。公演の来場者は、劇の出来不出来は全く関係ない。だったらもうできることはないじゃないか。
羽目を弛して今日、お出の何茂様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息勢引っぱり 東方世界の薬の元締め、薬師如来も照覧あれと ホホ敬ってういろうはいらっしゃりませぬか。
――大丈夫なのか、明日、私たちは勝てるのか?
ぱちぱちぱちぱち
誰だ?不意に背中から拍手が起きた。この音は1人。
「お見事ですな」
パジャマ姿のおじさんがいた。
「錦町さんのお宅のお嬢さんですかな。大きくなったねぇ」
誰だっけ?この人。この格好からすると近くから来たんだろうから近所の人なんだろうけど、闇夜だし顔も判別つかない。
「どちらさまですか」
「これは失礼しました。こんななりをしていますが、当神社の神主と、保育園の園長をしております、松崎でございます」
あぁ、園長先生か。ご近所さんじゃないか。もう10年も会っていないから忘れていた。
「すいません、鈴の音で起こしちゃいましたかね」
「あぁ気にしないで気にしないで、何ヶ月前からか、たまに真夜中やってきて、外郎売りをしていく女性がいたから、うちの神社では幽霊かなんかじゃないかって噂になっててね。
幽霊の正体を探りに来たんだよ。
なんだ。幽霊の正体は朱路ちゃんか」
確かに私は、公演前はいつも不安で寝付きが悪くなる。今までの公演でも眠れない夜はここにやってきて外郎売りをやっていた。
「ごめんなさい、夜分遅くに。もうしませんので」
「いやいや、気にすることはありませんよ。気にしませんので、存分にやってください。
外郎売りをしてたってことは、朱路ちゃんは芝居か何かをやってるのかい?」
そういえば、園長先生は外郎売りを知っているようだ。
「ちょっと、5分10分話せるかい?僕も思い出話をしたくなってね」
「はい、大丈夫です」
普通だったら10年ぶりとは言えども、人気のない夜の神社で大人の男性と2人きりで話なんかはしない。だけど、起こしてしまってバツが悪いとか、そういうのではなく、園長先生と話をしていると、心が休まる気がした。私も愚痴を言いたいというか、弱音を吐きたいのだ。
どこから取り出したのか小さな鍵を手に取り、穴があくほど闇夜を凝視した園長先生は、賽銭箱の南京錠を外し、重そうに何かをひいている。木と木がこすれる音が聞こえ、賽銭箱が開かれた。
「5円玉ばっかりなんだよね。懐中電灯をもってくればよかった」
手探りでお金を探しているみたいだ。じゃらじゃらと音が聞こえる。
「最近はお賽銭も減ってねぇ。ありゃ、500円発見だ」
もしかして、さっき入れた500円だろうか。
それとも別の人がいれた500円だろうか。
「あっちにジュースの自販機があるから、歩こうか。神様が奢ってくれるからさ」
結局、自販機まで歩く事になった。みんなが神頼みの為に入れたお金でジュースを買うのか。
さっき私がいれた500円なら、それは神様が私に奢ってくれるのではなく、私が園長先生に奢っているようなものではないのか?
しかし、私がいれた500円でなければ、それは別の誰かが私に奢ってくれたことになる。
そもそも賽銭箱に入れた段階で、私はその500円の所有を放棄したのだから、その500円を誰が投じたにかかわらず、奢ってくれるのは神様でも間違いないのかもしれない。
こんなどうでもいいことを考えても仕方ないか。
だが、こんなどうでもいいことを考えるのもひさしぶりか。
先生は賽銭箱をもとに戻したが、暗いので南京錠を閉めることができず、賽銭箱に南京錠と鍵を入れて「また明日しめればいいでしょう。賽銭泥棒なんて来ませんし、泥棒されてもこちらは気付きません」といって、そのまま歩きだした。
鳥居から外に出るときは一揖とならったが、当の神主が一揖しない。
神社ってのは私が思っているほど厳格ではないらしい。
一歩出れば、街灯がポツポツな住宅街とその間に田んぼや畑がちらほら、いつも通いなれた道だが、真夜中となると今でもあまり出歩く経験は少ない。結構新鮮だ。
真夜中に自分の父親よりも歳が離れた男性と2人と歩く。
夜の道は静まりかえり、住宅街を抜けた国道も今は車もまばらだろう。
もうすぐ7月。昼間はクソ熱いけど、夜は涼しく、半そででも寒くはない、1年の中で1番気軽な季節で、1番気軽な時間帯。大学生になったら、この時間帯に夜遊びをしたい。1番気分が弾む時間。でも今は、芝居でいっぱいいっぱいだけど。
デコボコの道すがら、蛙の大合唱が続く。蝉の声もそろそろ聞こえる時期だ。風もなく、空気は澄んでいる。
見上げると上弦から満月へと向かう十三夜の月。アルタイルとベガ、デネブ、夏の大三角形。
そしてオリオン。昔のアニメにならって、オリオンの三ツ星をなぞってみる。
三ツ星の名前はミンタカ、アルニラム、アルニタク。脚本のネタになるかと思って調べたんだけど、使う機会はなかった。でも名前だけは覚えている。
「私は、今は神主だとか園長だとかをやってますけどね、大学では演劇をやってたんですよ。アングラをね」
突然、園長先生が話しだした。
「アングラ演劇をやっていた売れない役者志望がめぐりめぐって、園長だなんだのって子供たちに囲まれて、清めたまえ払いたまえって呪文を唱えているんですから、人生は何がおこるかわからないものです。でも、学生の時の事は今でも忘れられません」
そうか、私から見れば10年前からおじさんだった園長先生にも当然、昔、若いころはあったんだ。当然といえば当然だが。
「朱路ちゃんはアングラをご存知?」
「分類はわかりますけど、見たことはないですし、どういうのをアングラっていうのかも、よくわからないです」
「まだ若いからそうでしょうねぇ。大学へ行くといっきに増えますよ。
アングラとは60年代から70年代に流行した演劇形態でね。
反体制や反商業主義が原点です。昔の学生運動のなごりかな。
あとは理論武装であるという一面もある。
音楽でいえば、ロックやパンク、メタルみたいなものです。
ただ、アングラをやっていたからといって、悪や犯罪を増長する気なんてさらさらないのですが、一般人から見れば、アングラなんてやってる役者は犯罪者みたいなもんだ」
私が保育園の時にお世話になってた園長先生が、若いころはアングラ役者だったのか。
「学生の時の経験は一生の宝ですよ。
友と熱く意見を戦わせた夜も、友と夢を語らった夜と、恋人と肌を重ね合った夜も、全ての夜が忘れえぬ宝物です」
園長は饒舌だった。常日頃から詩人なのかな。それともどこかの台詞の引用だろうか。
「でも、良く覚えているのは、夜の海でロケット花火を打ち合っただの、スイカじゃなくて、メロンでスイカ割りしたけど、木刀で割れなかったとか、そういう馬鹿みたいな思い出ですけどね。あとはバイト代を溜めて、当てもなく原付バイクで旅に出たりとかね。2ヶ月放浪してましたよ。後はやっぱり芝居にあけくれてたかな」
今はしっかりしてるけど、昔はやんちゃしてたんだ。
「朱路ちゃんぐらいの歳じゃあ、まだわからないかもしれないけど、いつかまた、この高校生の夏という特別な時間を懐かしく思う日が来ます」
「わかります。今、高校で3年なんで。今年の夏は特別だと思っています」
「そうでしたか、もう高校3年生にもなりましたか。本当に大きくなりました。
特別というのは、受験があるから特別という意味ですか」
「それもあります。っていうか、今は受験勉強の予定しかないけど、高校3年の夏は特別なんだと思っています」
「それは間違いないですよ。今も昔も、高3になれば受験やなんやで忙しいけど、もっと別の楽しみもある。大学生になっても、いや、社会人になってからも夏は来ますが、高校生の夏は3回しかきません。高校3年生の夏は1度だけです。高校3年の夏といえば、普通の人では甲子園を思い浮かべるのでしょうが、私はかるたと演劇を思い浮かべるんですよ」
「私の友達みたいです。私の友達も、かるたと鳥人間と演劇がないと夏じゃないって」
「そのお友達とは、私もお友達になれそうだ。
毎年というわけには行きませんが、私もたまに高校演劇や大学演劇を見に行きますよ。
県民や芸文、音文でやるプロの演劇も行きます。
ただ私にとっては、演劇は夏みるものなんです。やっている人たちは春夏秋冬問わず演劇漬けでしょうから、夏だけということはないですし、私もやっているときは夏がどうこうとかは考えなかった。役者を離れてから、あぁ演劇は夏だな、と思うようになったのです。
だからこの時期になるとワクワクしてね。県内でみようか、それとも東京までいって大劇場でみようか、あまり好きじゃないけど、映画館で演劇をみようか、とかね」
自販機前についた。
田んぼ道に置かれた自販機の明かりを求めて、蛙がびっちりと張り付き、蛾が舞っている。
潔癖症だったら、使うのを躊躇うだろうし、私も一瞬驚いた。
園長も「蛙がすごいことになってますねぇ」とだけ言って、取り出し口の中にいた蛙をつまんで、田んぼのほうへ返した。
「これでジュースで蛙をつぶすことはありませんよ。
どれがいいですか?
カフェインをとると、眠れなくなっちゃいますけど」
「そうですね、明日……っていうか今日は公演本番で、これから寝ないといけないので、カフェインはちょっと」
「あぁ、そうだったんですか。ごめんなさい、ひきとめてしまって」
「いえいえ、私が好きで付き合っているだけですから。園長先生とひさしぶりにお話しできてうれしいですし」
「ありがとうございます。そうだ、これは飲んだことはありますか?」
園長先生が指をさしたのは、300円するエナジードリンク。1本300円のジュースなんて飲んだことがあるわけがない。それにこのドリンクは、スーパーや百貨店でも定価売りが原則で安くならない事で有名なドリンクなのだ。
「いや、ないです」
「じゃあ、これをさしあげますので、明日の朝、飲んでみてください。
炭酸ですけど、大丈夫ですよね?
朱路ちゃんは保育園の時は炭酸がダメだったから」
そんな昔話をされると恥ずかしくなる。
「本番前には利きますよ。
私の若いころにこれがあったら、公演の度に飲んでいたと思います」
お言葉にあまえて頂く。
園長はアクエリアスを買った。
「戻りましょうか。明日の本番、頑張ってください」
「はい」
神社へ戻る道の途中に我が家はある。短い時間だけど話したいことはたくさんある。
聞きたいこともたくさんある。
「園長先生、本番前に、逃げたくなった時ってありますか?」
「逃げたいのかい?朱路ちゃん」
「いや、逃げたいってわけじゃないですけど、最近、プレッシャーで……
いろいろ荒れちゃって」
「悩んでいるのですね。私にも逃げたい時はありましたよ。どの公演の時でも、もう1ヶ月あったら、もう1週間あったらなあという思いは常にありましたよ」
「やっぱりそうですか。私も、もう2週間、いいえ、もう10日欲しいです」
「でも本番は今日なんですよね?」
「……はい」
「大丈夫ですよ。朱路ちゃんがちょっと台詞を噛んだり、飛ばしても劇は失敗なんかしませんよ」
「そうでしょうか。私、主役なんです。主役が台詞を噛んだりしたら、場がしらけちゃう」
「そうですか……。朱路ちゃん、今日の劇は独り芝居ですか?」
「いいえ、4人います」
あぁ、もうすぐ家についてしまう。
「だったら、演劇で1番重要な事を教えてあげましょう」
「はい」
「自分の仲間を信じましょう。自分を信じましょう」
私は立ち止まってしまった。
――仲間を信じる。
そういえば、私は仲間を信じていたんだろうか。
ナツヒや真奈美ちゃんやかぼちゃんを信じていたんだろうか?
いや、信じていなかったかもしれない。自分がなんとかしなきゃと気負っていただけかもしれない。
「仲間を信じる。それだけで、ちょっと失敗しても大丈夫なんだと思えてきます。そして、ちょっと失敗しても大丈夫だと思ってリラックスしながら演技をしていれば、不思議と失敗はしないもんです。いいかげんなおじさんのいいかげんなアドバイスで恐縮ですが」
「いや、ありがとうございます。1番、心に響きました」
「それは良かった」
私の家が見えてきた。
あれ、家の前にお父さんが出てる。
遅くなったので心配したのだろうか。
「お父さん」
驚いて振り向く。まぁ想像していた逆側から声がすれば驚くか。
「ただいま」
「おかえり、どこに行ってたの」
お父さんは怪しげに園長先生を見ている。同じ町内ですぐご近所でもそんなに会う機会がないし、自分の娘がパジャマ姿のおじさんと歩いていたら驚くか。
「ご無沙汰しております。松崎保育園の松崎です。朱路ちゃんが神社でお参りをしていたので、夜の散歩に付き合ってもらったんですよ」
「稽古してたら、起こしちゃったみたい」
「左様でしたか。朱路、こんな真夜中に演技の練習なんかしたら、周りに迷惑だろ」
「いえいえお父さん、どうぞお気づかいなく。たまたま起きていたものですから、つい気になっただけです。遠慮せず練習場所としてご利用ください」
「恐縮です、先生。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「いえいえ、ご迷惑をおかけしたのはむしろ私の方です。朱路ちゃんも今日が本番だと言うのに、散歩に付き合わせて悪かったね」
「いえ、とてもいい気分転換になりました。またいろいろ教えてください」
「是非とも。いつでもいらしてください」
お父さんと園長先生は互いにおじぎをすると、先生はそのまま立ち去ろうと踵を返した。
が、顔だけ振り返り、朱路ちゃんと呼んできた。
「それ、初めて飲むとは気をつけてください。びっくりして翼が生えますよ」
いたずら好きの子供の様な顔だった。
* * *
本番開始5分前。
すでに客入れは始まっている。講堂ステージ袖からでも客のざわつきが聞こえる。
愛宕くんから最後の伝令が入った。
現在、正面口からの入場者だけで60人を超えた。裏口からの入場者は別にカウントしているから正確には何人なのかわからない。
それを聞いた私は答える。
「定刻通り開始よ。時間ちょうどに影ナレして、3分で本番開始」
「はい」
入ったばかりはそんなに期待していなかったけど、愛宕くんは最近頼もしい。
体育祭のパネルとパフォーマンスの関係で3年生たちと絡んだのがいい経験になったみたいだ。
仲間を信じる。それだけで私は気楽になれた。
「円陣を組みましょう」
我等、恵温高校演劇部の流儀、開始前に円陣を組む。
「緊張してるナツヒ?」
「今までで一番緊張してるかもしれない」
肩を抱いただけでも心臓の鼓動が伝わる。
「大丈夫よ、今日で引退なんだから、楽しみましょう。今日で高校演劇が最後よ」
「そうね、楽しもう」
「かぼちゃんは、初めてよね。緊張してる?」
「……はい」
少し震えている。
「大丈夫、かぼちゃんがちょっと噛んだり飛ばしても、私たちがフォローするわ」
「はい、お願いします」
「真奈美ちゃん。ごめん、美奈子ちゃんかな?それともレナちゃん」
「真奈美です」
コンバットタイムは1ミリ秒にすぎない。
「6年ぶりね、真奈美ちゃん」
真奈美ちゃんは驚いたような顔をする。
そうか、真奈美ちゃんも気負っちゃって、こんなに大事なことを忘れていたのか。
「6年ぶりに一緒にやるのに、これで最後なんて残念よね」
「はい」
「精一杯楽しみましょう。来場者勝負のことなんて忘れていいわ」
このタイミングで影ナレが入った。
「ご来場の皆様にお願い致します。上演中の携帯電話のご使用は――――」
もうすぐ本番だ。音楽室では軽音部がライブを始めた時間だ。
だけど軽音部のことなんかどうでもいい。
気にしてないと言えば、嘘になるけど、でも軽音部じゃなくて、私たちの公演を見に来てくれた来場者のみなさまに最高のパフォーマンスで応えよう。
大丈夫、私たちならできる。
「この公演で、何か一つでもいいから、良かったなと思える事、成長したなって思えることをみつけて。それさえあれば、どんな結果になっても、この公演は失敗じゃない」
これは大先輩の受け売り。誰が言い出した台詞だかわからない、源流は誰なのかもわからないけど、ずっと受け継がれてきた言葉。
「じゃあ、始めるよ」
円陣を解く。ナツヒの鼓動が離れて行く。
かぼちゃんの背中が震えている。
でも、大丈夫。最初の台詞で私が何もかも持っていく。
観客の心をワシ掴みにしてあげる。
今の私は、翼の生えた猛禽。
翼が生えた私は無敵だ。
BGMが落ちた。客電も置ちた。定位置につく。
深呼吸1回。
サスがつくまでの時間、3・2・1・ドン。
次の台詞、3・2・1、
「あぁ、セックスしてぇ」
* * *
「あぁ、セックスしてぇ」
客席が強烈な笑いに包まれる。
錦町の奴め、ぶっつけ本番で最初の1セリを変えやがった。
いや、もしかしてかなり前から計算していたのか。
一昨日までの公開練習では一貫して、冒頭シーンからのスタートを観客の生徒たちに見せてきた。何度も見てる生徒、一昨日みた生徒にとっては最初の30分は全く同じシーンの繰り返しだ。
リピーター客の心を掴むために強烈な下ネタを用意しやがった。1人が笑いだせば、みんなが笑いだす。笑いが伝播すれば、キャストも乗ってくる。もう俺の想定以上のことをやっている。
本当だったらこんなストレートな下ネタを生徒の前でやるのは怒らなきゃならないんだろうが、今日は大目に見てやろう。
たった1分で錦町がはっちゃけている。アドリブの連発だ。それを当然のごとく、柴田がさばいている。柴田は8キャラやるが、キャラ作りがそれぞれしっかりしているから、簡単なアドリブならキャラがどういうことを言うか即座に想定できる。
一昨日までと全く同じ演劇なのに、全く別の演劇になっている。
リピーター客も含めて、完全に観客の心を掴んだな。
だがこんなシーンを見せられたら、南爪は緊張するぞ。大丈夫か?
次は、南爪の台詞だ。
「だったら次のデートでAさせてくれって言えばいいじゃん」
緊張はしているが、悪くない。
あいつは体が太いから、声も太い。
性格もまじめだから、基礎練習を怠ったりしない。
体格と、地道な発声練習のおかげで、広い講堂の隅から隅まで声が届く。
よし、いいぞ。
次はレナの初登場だ。
柴田の早着替えは大丈夫か?
大丈夫だな。
暗転4秒。4・3・2・1・Q。
愛宕のスタッフワークもいい。
こいつがいるから役者は演技に集中できる。
ワンマンオペレーションは時と場合によって役者より過酷だ。
下山が愛宕を気に行っているのはわかるし、愛宕も下山からよく吸収している。
こいつは育て方を間違えなければ、立派なスタッフにもなる。
惜しいのは、こいつは役者としても伸びそうだから、演技もやらせてやりたい。
だがそれを考えるのは、後だ。
レナの初登場、3・2・1・Q。
「セックスしたいよぉ~」
ここでも笑いが起きる。
女池の奴、錦町に合わせて台詞を変えてきたな。
まったく、女子高生が公然の場でセックスセックスなんてけしからん。いいぞ、もっとやれ。
柴田が別キャラで登場、まもなく。
学ランの柴田が登場だ。
「昼間っからナニを大声で叫んでるだよ。すればいいじゃん」
よし、キャラの演じ分けもいいぞ。誰がどう見ても、あれはさっきの柴田のキャラと別キャラなんだとわかる。
開始して3分、役者は全員、大丈夫のようだ。
開演しちまったら、もはや俺がやれることはない。
みんな、がんばれ。
* * *
さぁ、ここからは一仕事だ。
大蛇の頭とバッファローの大群を袖に移動したら、しばらくは暗転がない。
その後、5分でキングの出番だ。
今回の舞台で使うのは、体育祭で使ったコスプレの方のキング。
本物を使うかどうか迷ったけど、こっちの方が愛着もある。みんなの汗と涙の結晶なんだ。
だが、着るのには手がかかる。舞台に出ているのは、レナと錦町先輩、柴田先輩、手が空いているのはかぼちゃんだけ。最後のパーツをかぼちゃんにつけてもらって、準備完了。
パネルより上から舞台を見下ろすように登場するから、着るのは上半身だけでいい。だがこの格好で、脚立を登るのは、実はそこそこ怖いんだ。
もうすぐ登場のタイミング。
柴田先輩の台詞で、『天国と地獄』から『ワンダバ』へ曲転換。
コスプレの中にいれたリモコンでトラック操作。『天国と地獄』を徐々にフェードアウトさせて、台詞が終わった直後に『ワンダバ』をイン。
ここが一番大事だ。間違うなよ、オレ。
「臨時ニュースをお伝えします。日本海側に、4体の未確認飛行物体が飛来しました。ウルトラ警備隊が警戒を強めています」
スイッチ、オン!
……
……こない?
…………
…………こない?
しまった、ミスったか。
何秒たった?3秒以上たった。いけない、不自然な間ができる。
「未確認飛行物体だって。UFOかな?」
姉ちゃんが予定にない台詞を入れてくれた。
間のフォローだ。
もう1回スイッチオン。
……
…………きた。
客席から声があがる。
まだ登場していないのに。
よし、いくぞ。キング。
脚立を登る、1段、2段、3段、4段。
5段目からはパネル上からはみ出る。
なるべく脚立を使っている事を解らせないために、顔が出たら、一気に胸までだ。
「ねぇ、トオル。あれ、何?」
姉ちゃんの台詞おわった。よし登場だ。
5段、6段、7段。
――――この時の歓声を、オレは一生忘れないだろう。
おおおおおぉぉと会場が震える。
この前の体育祭の時とは違う。遠い歓声じゃない。近い歓声。
ほとんどの人はキングが登場することはわかっていたのに。
わかっていたのにこんなに興奮してくれるのか。
メッシュの隙間から客席を見る。
あぁ、さっきは気付かなかったけど、軍団の3年生、2年生もいる。
あれは、同じ中学の女バレの渡辺さん。見に来てくれたのか。笑っている。
さっきより客が増えている?
開演時より20人以上多い??
そうか、先に軽音部に行って、つまらなくてこっちに来た人がたくさんいるんだ。
みんな演劇部の公演を見に来てくれているんだ。
オレには台詞がない。でも手元のリモコンで効果音の操作はしなきゃならない。
キングの腕は内部にギミックを入れたので、左手の動きを左右対称に再現するようになっている。だからキングの両手を上げさせるには、オレの左手を動かすだけでいい。
オレの右手はリモコンだ。
掛け声とともに、セブン登場。セブンは音だけだが、声だけでわかるよな?
わかる、観客もどよめいている。ごめんよ、さすがにセブンの着ぐるみは用意できなかったんだ。みんな、心の目で見てくれ。
打撃音、転倒音、キングの機械音、セブンの叫び声、エメリウム光線とアイスラッガーを跳ね返し、セブンがピンチのところで、警備隊の服を着た柴田先輩が登場。ドンキで売ってたバッタもんだけど、ちょっと手をくわえるだけで簡単に本物っぽくなった制服だ。警備隊がバズーカ発射。
ちゃんと撃墜シーンを再現するために気をつけの姿勢で後ろに倒れなきゃならない。
いや、演出からはそういう指示は出てないが、オレなりのこだわりだ。脚立から後ろに落ちる。音がしないようにマットは敷いてあるし、脚立は倒れないよう、ガチで固定してある。
だけど怖い、怖いけど、ここで脚立を降りて退散って姿は見せたくない。
着弾の効果音、それと同時にLED消灯、気をつけの姿勢、ここから後ろ向きに落ちる。何度も練習したから大丈夫のはず。
脚立から重心を外した。
自分の体重がなくなり、脚立から落ちる。浮遊感、落下感、重力感。
マットには着地成功。ここで立ち上がる時に、脚立に足をぶつけて変な音を立てたら興ざめだ、静かに立ち上がる。台詞の間にキングのコスを脱ぐ。
あぁ、もうこれでキングの役目も終わりか。
終わらせるのが惜しい。
でも、舞台は終わらせなきゃならないんだ。
キングのシーンは終わった。
ここからは終盤。
多くのトラブルを回避して、ようやく夕飯が終わった2人。
これからは笑いなしのシリアスシーン。
姉ちゃんと錦町先輩のキスシーンだ。
* * *
「俺はレナの彼氏だって、どうして言えないの!」
声を張っている。
最後の喧嘩シーン。
目の前にはトオルがいる。
悲しそうな顔をしている。
いつも以上に悲しそうな顔をしている。
ねぇ、トオル、なんでそんな悲しそうな顔をしているの?
「レナは俺の女だって、なんで言ってくれないの!」
泣きそうになっている。
「女にわめかれたぐらいで泣くんじゃない。
男だろ!」
――アドリブで言ってしまった。
でも彼氏が泣いてたら、レナならこうする。
もっと泣きそうな顔になるトオル。
……
…………
………………ちがう
泣いているのはトオルじゃない。
泣いているのは錦町さん?
どうしてこんな時に泣いているの?
どうしてそんな顔をするの?
――もうすぐ舞台が終わるんだよ。
――確かにここは情けないような顔をするシーンだけど、素の涙なんて舞台で絶対に見せちゃダメよ。
最後まで泣かないで錦町さん。
後で、私の代わりに美奈子と真奈美が一緒にたくさん泣いてあげるから、だから今のあなたは泣いちゃダメ。
私は女池真奈美じゃない。
女池美奈子でもない。
私はレナ。苗字は私でも知らない。
だから、私がレナでいるうちは泣かないで。
「何泣いてるんだよ、レナ?」
――え?
――そんな台詞ない。
――アドリブ?
――私も泣いてたの?
――ダメ、ここは泣くシーンじゃない。
美奈子、真奈美、まだ泣いちゃダメ。
あとで私も一緒に泣いてあげるから、みんなと一緒に泣いてあげるから、あなたもまだ泣いちゃダメ。
「泣くの、やめろよ。こっちまで泣きたくなる」
「泣いてるのはそっちだろ」
――アドリブの応酬が続く。
――ダメだ、元筋からかなりずれている。フォローして話を戻さなきゃ。
――ここから強引にエンディングにもっていくには、どうしたらいい?
――私ならどうする。
トオルが深呼吸したのがわかる。
私も深呼吸1回。
――もういい。
――全部すっとばす。
――どうせアドリブしまくりで10分押しになっているんだ。
――3台詞ぐらい飛ばしていいだろ。
「キスしてくれたら、泣きやんであげる」
――今までのレナだったらこんなに甘えない。
――でも、レナだって変わっていくんだ。
――たった90分しかない物語、90分しかない命だけど、その中でも私は変わっていくんだ。
3歩踏みよる。
――愛宕、上手くフォローしてね。
――キスシーンと同時にエンディングテーマ。
――3、2、1、で密着。
――客席から、きゃあと言う声が聞こえる。
――本当にキスしたと思ったかな。
――まぁかなり近い形にはなってるけど。
――トオルの顔が近い。
――あぁ、トオルが本当に男だったら惚れていただろうな。
――エンディングが流れる。
――あっ、愛宕の奴ミスったな。
――最後だけはボリューム上げてエンディングだって気付かせるのに、ボリュームが同じだ。
――フェードアップもしない。
――どうする?
――どうする?
――観客はこれで舞台が終わりだって気付いていない。
――どうする?
――どうする?
――トオルが一度、私を離す。
――これからどうするの、トオル?もう台本に台詞ないよ。
「いい男になってやるよ。お前に、もう1回俺を惚れさせてやる」
――これはさっき飛ばした台詞。
――飛ばした台詞をここでやるの?
「私がいつまでも、あなたを好きでいる保証はないのよ」
「いいや、レナは明日から、俺以外の男には興味なくなる」
――で、その後はどうするの?
「だからもう1回」
抱きしめられた。
唇を重ねられた。
寸止めもごまかしもしていない。
本気のキス。
――台本には存在しない2回目のキス。
――また客席から驚きの声が聞こえる。
――キスの天丼できやがったな、この優柔不断彼氏めっ。
――いや、これは愛宕のミスだから、あとで愛宕をとっちめる。
――私のファーストキスを返せ。
――今日は愛宕のおごりでキスとアナゴの天丼だ。
――ここでBGM音量が一気に上がり、そのまま照明しぼる。
――今度はうまくいった。
――お客さんもこれで終わりだってわかったみたいだ。
――拍手が聞こえる。
――こんな拍手を浴びるのはひさしぶりだ。
――完全に暗転したところで、幕を引く。
――幕を完全に引いたところで明転。
「ごめんね、真奈美ちゃん、ビックリした?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫です」
ファーストキスだったけど女の子同士のキスはノーカウントだ。今決めた。私が決めた。
「最後、挨拶よ。準備はいいね。拍手が終わらないうちにやるよ」
「はい」
あぁ、また幕を開けたら、もう終わりなんだな。
幕が下手から上手へ開く。
もう客電がついている。
こんなにお客さんは多かったのか。
100人はいる。
すごい、こんなにたくさん、私たちを見ていてくれたのか。
隣を見る。
かぼちゃんも、柴田先輩も、グッと堪えている。
多分、泣きたいんだろう。
でもまだちょっと早い。
終わったら、みんなで一緒に泣こう。
錦町先輩が一歩前に出る。
「本日はご来場いただき、ありがとうございました」
3人が続く。
「「「ありがとうございました」」」
* * *
結局、みんなで泣く暇なんてないまま、客だしとバラシが行われた。
公演後の客だしには時間がかかる。
知り合いはみんなこの劇が、良かった、どうだった、あのシーンが良かった、って役者を囲む。それを無碍にはできない。
みんなが講堂を去るまで、私たちは語りあい、20分を過ぎて、観客が完全にいなくなってから、バラシを開始した。
組む時は4時間かかったのに、ばらす時は30分もかからなかった。
講堂と生徒自治棟2階を何度か往復して、バラシが完了して講堂をほうきと雑巾掛けしたら、もう6時近くになっていた。
今日の来場者は121人。
アンケートの数もほぼ同数の117枚。
4人ほどアンケートを渡さずに帰ったらしいがまぁそれはいい。
全校生徒が1000人だから、10人に1人は見に来てくれた事になる。本当にうれしい。
同中学バレー部の渡辺さんも来てくれていた。
「軽音部は50人もいなかったよ」
勝った。
これで部室は、無くならないし、部活もなくならない。
錦町先輩も柴田先輩も安心して受験勉強に専念できる。
何も心配いらない。
「アンケートの確認は来週にしましょう。私は生徒会執行部に今日の来場者の数を報告に行くから」
ねつ造を疑われても困るから、ちゃんと来場者の姿は斎藤先生がカメラにとってくれているし、アンケートもそのまま提出する。無記名だけど、それは軽音部も同じ。っていうか、軽音部はアンケートなんてやってるんだろうか。
錦町先輩が部室を出て、執行部の部室に向かった。
私は演劇部の部室を見渡す。
乱雑に見えるけど、実は規則正しく隙間なくびっしり置かれたパネル。部室を埋め尽くす小道具。昔の台本や賞状、古いトロフィー、公演のDVD。先輩たちの思い出が詰った部屋。
この部室を手放さなくて済んだ。
それだけで十分だ。
これからも演劇はやっていける。
来週からは3人だけだけど、大丈夫だ。
私たちならなんとかなる。
錦町先輩が帰ってきた。
「結果の発表は、来週の月曜日、6限が終わった直後に生徒自治棟の掲示板にするって」
「今日、すぐには出ないんですか」
もう結果なんてわかっているくせに。
「しかたがないわ。向こうも片づけで忙しいでしょう」
「打ち上げは来週にしましょう。もう遅くなるし、みんなも疲れたでしょう」
「本当にごくろうさま。ありがとうね、真奈美ちゃん、かぼちゃん、愛宕くん」
「はい、こちらこそ、ありがとうございます」
「先輩たちも御苦労さまでした。安心して、受験勉強に専念してください」
錦町先輩はここで、少しさみしいような顔をした。
* * *
月曜日、6時間目が終わり、清掃時間も終わるころには、生徒自治棟の掲示板前は人だかりができていた。
意気揚々と、かぼちゃんと愛宕を連れて、掲示板前にやってきた私は人の多さに圧倒された。
近寄れないくらいに人が大勢いる。
「ごめんなさい、ちょっと通して下さい」
あ、レナだ。と誰かが言った。役名で覚えてもらえるとは役者冥利に尽きる。
人波をかき分けて掲示板にたどりつくと、A3用紙が新しく貼られていた。
来場者勝負結果について報告
演劇部 121名
軽音部(コンピュータ同好会&ソーシャルゲーム同行会代理)
168名
よって、軽音部の勝利とし、演劇部には部室からの撤退を命じる。
7月1日生徒会執行部
はっ?
ちょっとまって、どういうこと?
だって軽音部は50人もいなかったって……。
渡辺さんに嘘をつかれた?
違う、先生もそう言っていたし、他にも40人ぐらいだったって話は聞いている。
なんでだ?
どうしてだ?
水増し?
どういうことだ?
愛宕やかぼちゃんが何か私に呼びかけているが
ざわざわとまわりから声がする。
「ひでぇよな、軽音部、50人もいなかったのに」
「軽音部さ、5バンドで演奏したじゃん。それぞれのバンドの来場者を合計したらしいぜ」
「え?じゃあ、最初から最後までいた人ってどうなったの?」
「5人分でカウントされてるんじゃね?」
「何それ?じゃあ、ほとんど数5倍じゃん」
「途中で出て行ったり、途中から来たのも多いらしいけど……」
「そうすると本当の数は30~50ってところじぇねぇか?」
「エゲツねぇな」
「やることが汚いよな、軽音部と執行部は」
「でもそもそも演劇部だって必要な部活か?」
「軽音部とか文化系に金使うぐらいなら体育会系にもっと金を回せよな」
「うちは体育会系へ部費が少ないから保護者からのカンパで成り立っているもんな」
「文化系なんてみんな遊びみたいなもんだろ、みんな本気じゃないじゃん」
「演劇部も軽音部と似たようなもんだろ。本当に121人もいたかなんて、しっかり数えてるわけじゃないさ」
なんだなんだこの雑音は。
事情を知らない無関係な奴らが勝手なことをわめいて。
雑音だ。
うるさい、だまれ、今すぐこの場から消えろ。
かぼちゃんと愛宕が私の体をゆすっている。
ごめん、今は何も聞こえない。
どうすればいい?
錦町先輩と柴田先輩に報告するか?
いや、そんな事をしている暇はない。
今、やることはたったひとつだ。