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美奈子と斎藤先生

 ところがどっこい、そう簡単にもいかないんだよな、これが。

 ゴールデンウィーク前に復活した美奈子さえいればなんとかなると思ったんだが、そうは問屋が卸さなかった。話はちょっとそれるが、演劇部に入部したオレたちにはもちろんゴールデンウィークはなかったぜ、ヒャッハー!

 真奈美は美奈子となって、舞台屋〈トマトカレーパン〉の練習に参加し、恵温高校の演劇部の練習にも参加し、部長や副部長に地元のアマチュア劇団の公演を奢ってもらったり、自腹で払って入場したり、そんな感じで連休も開けたんだが、舞台屋〈トマトカレーパン〉の練習でも演劇部の練習でも、そろそろ美奈子の演技にも違和感を隠せなくなってきた。演技が下手なわけではない。

 しかし、美奈子も5年も外に出れなかったわけでもある。

 エチュードと呼ばれる即興劇で演技の基礎を学んでいるが、どうも美奈子の演技が他の役者と噛み合わない。

 本人にも自覚があるらしいが、どこが悪いかわからないし、錦町部長も柴田副部長もどこが悪いのかを指摘できないらしい。

 こういう時に里中先生や劇団〈トマトカレーパン〉の主宰や演出がいれば的確に指示ができるのかもしれないが、主催や演出にはまだ会ったことがない。次の脚本のコンペで揉めているらしい。ちなみにオレは、監督から〈トマトカレーパン〉次の公演、裏方の下っ端でやってみないかと言われているが、まあ、今はそんなことはどうでもいい。

 顧問の里中先生はクソ忙しいみたいだ。先週末、県内の高校入試に関するものすごいスキャンダルが発生した。その電話対応で職員室を離れられない。

 別の県立高校の高校入試で、カンニングをしていた受験生の、その行為を把握しながら見逃しており、さらに同じ入試で出題ミスと採点ミスがあり、本来合格圏であったのに、不合格にした生徒が何人もいたらしい。

 本来合格の生徒を不合格にさせ、カンニングの生徒を入学させたこの学校の行為は、県内の公立高校全体を巻き込んで大変な騒ぎとなっている。

 恵温高校に関しては、カンニングをした受験生はいないと発表はしているが、採点ミスの方では本来合格なのに不合格にしてしまった生徒が4人いた。入試問題は県立高校全て同じ問題を使っているので当然といえば当然なのだが。

 主に恵温高校を受けて落ちた受験生の保護者から大量の電話をもらっている。その中には何度も何度もかけてくる粘着質もおり、ツイッターやブログをつかって大騒ぎしているモンスタークレーマーは、すでに生徒のほうでも噂になっている。恵温高校は公立なのに自由な校風であり、一応進学校でもあるから人気は高い。落ちた受験生やその保護者の恨みはとても大きいだろう。

 話を戻すと、とにかくそういうことで里中先生は職員室を離れられず、斎藤先生はズブの新人教諭なので職員室でもあまり役に立たない。それでいて、演技指導についても素人なので、こっちにいてもあまり意味がない。

 机を後方に詰めた数学講義室の前半分でやる練習はとても窮屈感が捨てきれない。

 美奈子が陥っているスランプ――というか、他の役者と噛み合わない感じ。

 これを脱出する方法が知りたいのだが、それは手探り状態だ。

 美奈子はいつもエチュードで、与えられた設定を飲みこみ勢いよく演技を始めるが、途中で他の役者から自分の意図していない演技や台詞、行動を取られるとあきらかに演技の質が落ちる。

 自分のイメージから脱線した物語を、強引に戻そうとするが、またそこでも他の役者と噛み合わない。

 つまりアドリブに弱い。

 相手が先攻で始まるエチュードにもとても弱い。相手の作った物語を瞬時に理解して、どのように乗っかるかがまるでわかっていない。ここら辺は5年も外に出ていなかった弊害だろう。社会経験も社会常識もまるでないから、そういう演技はとことん苦手みたいだ。


「よぉ、田中」

「私、田中じゃないですけど」

 シュールギャグじゃないんだからさ。こんな調子でエチュードが進まない。

 どこが悪いんだか2人はわからないから、指摘のしようがない。オレもわからない。

 オレと美奈子が組んだ時は、全部美奈子に合わせればそれなりにならできる。

 だが、かぼちゃんや部長や副部長と当たって、相手に合わせると途端にダメになる。

 せめて誰か1人でも演技指導がしっかりできる人がいたら、この状況を打破する方法がわかるような気がするんだが。

 新人の斎藤先生では荷が重いのかもしれない。この先生からは指導らしい指導を聞いたことが無い。演技の新人として生徒と一緒に〈トマトカレーパン〉のワークショップなり練習に参加している。里中先生も「それほど強制するつもりはないが、月1ぐらいで出てほしい」とは言っているし、そう言われて、律儀に皆勤で通っている。

 30歳の新人教員。今のところ、フランクに接しさせてもらっているし、オレたちから見れば2倍も生きてるし全く別の生物に見えるんだが、向こうは「社会人になれば、新人なら30も15も同じなんだ」と言ってたし、精神年齢は若そうに見える。仲良くさせてもらっている。

 その斎藤先生は、立ちながら両足をクロスし、左手を腰に組んで、右手の人差指は顎にあてて何かを考えている。よくみるとつま先立ちだ。よくこんな姿勢で微動だにしないな。

 仲良くさせてもらっているし、生徒に近い先生だと思う。よく自分の高校時代や大学時代の話はしていた。中学高校は放送部にいたから、外郎売なんかは今でも空で言える。

 でも大学を卒業してからこの高校に来るまでの7年か8年間の事は一切語らない。

 いい女にはミステリアスな過去があるのはアニメの世界だけで十分。

 人によっては美人に見えるかもしれないが、オレにとってはどこにでもいる普通の先生で、普通の大人だ。何も興味をそそられない、好奇心の対象外だ。

 別にこの先生に、どんな過去があってもどうでもいいこと。

 そのはずなんだが、この立ち振る舞いを見ていると、この先生の過去が気になってくる。

 好意や片思いではない、好奇心でもない、野次馬根性でもない、何かが、この先生を知りたがっている。

 人差し指を起点に、最初は6時の方向にあった右手が、3時の方向まで進み、人差指の関節が逆側にグニャリとひっつくぐらいまでいったところで、斎藤先生は「わかったかもしれない」とつぶやいた。

「錦町さん、柴田さん、ちょっと来て」

 部長と副部長だけが呼ばれて小声で説明を受ける。本人に聞かれてはまずいのか、とても小声だ。だがこういう時、美奈子はともかくとして、オレやかぼちゃんはどうしたらいいんだ。

「たしかに……」

「言われてみればそうかも」

 2人はめいめいにうなずく。

「すぐ練習用の脚本を書いてくるから、20分で準備できる?」

「お願いします。すぐ暗記できる奴で」

「1分ぐらいの短編にするわ。ビデオの準備はできる?」

「これから充電します」

 そのまま斎藤先生は数学講義室を出て行った。

「ちょっと部室行ってくるから、4人でエチュード続けてて」

 錦町先輩は部室に行くようだ。ビデオの準備と言っていたので、ビデオを取りに行ったのだろう。3分もしないで戻ってきた。多分、走ったんだな。ジムキャノンみたいに三脚を担いできた。ジムキャノンは鈍重ってイメージがあるので、キャノンもちは走らないで欲しい。コンセントを拝借し、充電を開始する。その間に机をもってきて簡単に配置した。白布と暗幕をかけて抽象演劇のような小道具、大道具を用意する。

 20分もせずに斎藤先生はもどってきた。A4用紙1枚の台本が全員分ある。登場人物はたった2人。挨拶とその後の簡単なやり取りを書いただけ。


B「こんにちは、お姉ちゃん」

A「こんにちは」

B「ちょっと道を教えてよ」

A「いいですよ。どこまでの?」

B「逓信病院って病院はどこですか?」

A「それならそこのバスに乗ればいいよ。歩いていくなら、この道をまっすぐ行って、左手側にあるよ。でも、バス停3つ分あるから、歩いていくのは大変だよ」


「これなら、全員できるかもね」

「いい機会だから、美奈子だけじゃなくて、かぼちゃんと愛宕くん、ナツヒと私もやってみよう」

「いいねそれ」

 ルールは簡単。登場人物AとBがいる。

 まずは登場人物Aを美奈子がやり、登場人物Bを錦町先輩がやる。

 つぎは登場人物Aを美奈子がやり、登場人物Bを柴田先輩がやる。

 全く同じ台本で相手役だけを交代して2本連続でやるみたいだ。

 それが終わったら、登場人物Aをかぼちゃん、オレ、柴田先輩、錦町先輩がそれぞれやるらしい。柴田先輩と錦町先輩が登場人物Aをやるときは、Bには斎藤先生がはいることになった。

 

 簡単な設定。

 いくら暗記が苦手な人間でも3分もあれば暗記できる。

 この台本で何がわかるっていうんだろう。

 台詞は大筋が違わなければ、少しぐらい変えてもいいらしい。

 よくわからないまま、美奈子の演技がはじまった。


「こんにちは、お姉ちゃん」

「こんにちは」

「ちょっと道を教えてよ」

「いいですよ。どこまでの?」

「逓信病院って病院はどこですか?」

「それならそこのバスに乗ればいいよ。歩いていくなら、この道をまっすぐ行って、左手側にあるよ。でも、バス停3つ分あるから、歩いていくのは大変だよ」


 美奈子と錦町先輩の演技はすぐ終わった。

 何のことはない、中学生の英語の教科書に例文で出てきそうな話だ。

次は美奈子と柴田先輩だ。


「こんにちは、おねーちゃん」

「こんにちは」

「ちょっと道を教えてよ」

「いいですよ。どこまでの?」

「てーしん病院って病院はどこですか?」

「それならそこのバスに乗ればいいよ。歩いていくなら、この道をまっすぐ行って、左手側にあるよ。でも、バス停3つ分あるから、歩いていくのは大変だよ」


 すぐに違和感に気づいた。柴田先輩の演技がさっきの錦町先輩の演技と全く違う。

 錦町先輩はBをおばあちゃんのように演じたのに、柴田先輩は少年のように演じている。

 だけど――――


 そうか、先生が急に台本を用意してまでわからせたかったのはこういうことか。

 今のやり取りだけで気づいたか?

あとでビデオを見ないとわからないか?

 ビデオはちゃんとまわっている。

 

 美奈子と柴田先輩のやりとりが終わり、つぎはかぼちゃんが2本やり、同じようにオレ、先輩たちが続いた。

 斎藤先生は錦町先輩と柴田先輩が相手の時、それぞれ若い少年役と老婆役を演じ分けた。

 全部で10本の組み合わせが終わった。

「美奈子ちゃん、わかった?美奈子ちゃんの組み合わせと、他の4人の組み合わせで、何が違うか?」

「まだわかんない」

 オレはもうなんとなく気付いている。

「よしじゃあ、ビデオを見てみよう」

 

 カメラについた小さなディスプレイで映像を見る。美奈子は自分で自分の演技を完璧だと思っているらしい。そう、美奈子の演技は、ある意味で完璧だ。

「ミナちゃん、相手役を、私がやった時と、ナツヒがやった時で、Bが違う設定なの、わかる?」

「ショタとおばあちゃんだね」

「そう、正解。じゃあ、美奈子ちゃんの演技はどうだった?」

「あたしは両方、普通の女子高生やってた」

「そう、でも、それでも間違いじゃない。だけど、演技はどう?」

「演技?」

 美奈子はもう一度、ディスプレイを見る。

「少年役のナツヒと、おばあちゃん役の私に、同じように台詞を言ってるでしょう」

「うん」

 そう、美奈子の演技は、相手が誰でも同じ演技だ。

「でも、かぼちゃんや、私や、ナツヒがAをやった時、相手によって台詞を変えていたのはわかる?」

「なんとなく」

「今のミナちゃんは、台詞を完全に暗記して、同じ動きを再生するだけになってるわ。もちろん、それが不正解ってわけじゃない。そういう演技を目指している劇団や役者もいる。でも、少なくとも私たちは違う」

「台本っていうのは、ただの台詞が書いてあるだけの本よ。美奈子ちゃんは台本を読んで演技を作ることはすぐできると思う。でも、相手の役者の演技に対して、やり取りをすることを苦手としている。台本を覚えたら、次は相手と演技を作らなきゃならないの。それは1人じゃできない。相手と一緒につくらなきゃならないの。相手は役者だけど、その役者がどういうキャラクターを演じているか、考えて」

 錦町先輩と柴田先輩が説明して、なんとなくわかってきたようだ。

 今後は斎藤先生が話す。

「ねぇ、美奈子ちゃん。もしかして美奈子ちゃんって、最初あがり症じゃなかった?

 それで、子役のころ、緊張したら、相手や観客を野菜だと思えって、言われたことなかった?」

「あったあった。今でも相手や観客を野菜だと思って演技してる」

「もしかして、本当に相手が野菜に見えてる?」

「それはないけど、相手の顔が真っ黒に見えたり、口だけに見える時がある」

「やっぱりね。それが原因よ。それじゃダメなの」

「ダメなの?」

「昔から、緊張したら掌に人と書いて飲みこめとか、観客や相手役者を野菜だと思っておまじないはよく言われてるけど、それが逆効果になるのよ。

 相手は野菜じゃなくて人間、喜怒哀楽はあるし、同じ台詞でも意味は全く違う。演技をやっていない役者じゃなくても、普通の人でもそれは同じ。日によって喜怒哀楽は全くちがうでしょ?

 同じ台詞でも怒って言ったり、悲しんで言ったりすれば、意味はかわるでしょう?

 同じことをいっても、あの時は怒らなかったのに、今日は怒ったとか、逆に同じ冗談でも、あの時は笑わなかったのに、今度は笑ったとか。

 相手はロボットじゃないわ。ちゃんとした心のある人間よ。美奈子ちゃんの演技は、心のないロボット相手の演技になってる。美奈子ちゃん自身もロボットになっているのよ」

 斎藤先生を前に、美奈子は硬直している。自分の演技の致命的な欠点を指摘されてショックを受けているんだ。もしかしたら、真奈美もショックを受けているかもしれない。

「聞いたことがあるわ。子役出身の子がかかりやすい病だって。

 子役って、必要とされる演技のバリエーションがとっても少ない。

 だから台詞を覚えて、それを再現するだけでも、他の役者がフォローすれば、劇としてなりたつのよ。だから、台詞と動きだけを言うだけの役者になってしまって、相手の情報を重要視しなくなってしまう」

 なんで演技経験のない新人教諭がそんなことを知っているんだ?心理学か?

「それから、相手を野菜だと思えっておまじない。

 感受性が高くて、想像力が強い子だと、脳が不思議な作用を施して、本当に野菜に見えてしまうことがあるの。相手の顔が真っ黒に見えたり、口だけに見えたりするのは、多分そのおまじないが利きすぎているせいよ」


    *        *        *


 私、女池真奈美もショックを受けていた。

 今、私は美奈子の中にいる。当然、美奈子もショックを受けている。

 あぁ、そうだ。

 美奈子も私も、演劇をする時は、相手を野菜だと思えと言われてきた。

 だから、私も美奈子も、相手の役者も、観客も、顔のないのっぺらぼうを想定してやってきた。いつからだか忘れたけど、本当に顔を見なくても演技ができるようになった。

 顔のない人が相手でも演技ができるようになった。

 日常生活でも、嫌いな人や苦手な人は、顔を真っ黒にして見ることができるようになった。

 だから、子役の時の公演も、相手に顔はなかった。

 ウキウキフェスティバルの会議の時も、クラスのみんなには顔がなかった。

 先生には目も鼻も口もななかった。

 でも、本当は違う。

 みんな顔がある普通の人間だったんだ。

 私たち2人はあの時、周りが怒っているか、悲しんでいるか、喜んでいるか、楽しいか、困っているかを何も読み取っていなかったんだ。

 私たち2人は高慢だったんだ。

 だったら嫌われても仕方ない。

 ごめんね、みんな。

 できるなら、あの時のみんなに謝りたい。

 美奈子は泣いちゃった。

 先輩や先生に演技の欠点を指摘されて、悔しくて泣いているんじゃない。

 昔の自分が恥ずかしくて泣いているんだ。

「顔をあげて、美奈子ちゃん。

 あなたの演劇はあなただけで完成されているわ。

 でも演劇は1人でやるものじゃないのよ。

 顔をあげて、目を開いて、周りをみましょう。みんなの世界を受け入れましょう」

 

 たった今、美奈子のもつ可能性が大きく開きだした。


    *        *        *


「すごかったね、ミナちゃん」

「本当すごかった」

 私はナツヒといっしょにバスに乗っている。

 今日は〈トマトカレーパン〉がない日だ。

 2人で市の中心部、バスセンターまで向かう便に乗っている。

 斎藤先生が演技の欠点を指摘してから、ほんの1時間かそこらの練習時間、体感的にはアッという間に大変身を遂げた。

 台詞にもバリエーションが増えたし、喜怒哀楽にも厚みが出た。

 この前、真奈美から美奈子が登場した時と同じぐらいの大変化が目の前でおきた。

 2度目の大変身だ。

「あの子、指導さえ間違えなければ、私たちが引退した後の中核になるわ」

「そうね」

 無念だが、今年の新人勧誘は3人で終いのようだ。

 人数不足による廃部の危機は免れたが、私たち2人が次の公演を終わって引退すれば、3人だけになる。せめて3人とはあの時願ったものだが、それが叶うと今度はせめて5人と願ってしまったのも事実。しかし、存続できただけでも御見事なのだろう。

 だがこの後、部室没収をかけた来場者勝負がある。

 今日はこれからナツヒと大型書店にいって、脚本をあさる予定だ。

 だがその前に……。


 気になることがある。

 斎藤先生だ。

 今日の指導は的確だった。私はわからなかったし、できなかった。

最初の練習でも腹式呼吸は完璧だった。外郎売も空で言える。

中高と放送部なら当然かもしれない。

 でも、斎藤先生がたまにするつま先立ち。

 バレエダンスをやっていたわけじゃなさそうだが、様になっていた。

 放送部の人間はあんなことはしない。

 ダンスをやっていたに違いない。それがジャズダンスなのかストリートダンスなのか社交ダンスなのか創作ダンスなのかはわからない。

 普段のピンと伸びた姿勢、歩く時の美しい足運び、緊張感があり無駄のない動き、どの1シーンを無造作に写真にとっても美しいだろう。普通の教員でこんなことができるわけがない。

 何より子役が陥りやすい病について知っていた。

 それだけではなく、相手を野菜だと思えというまじないが利きすぎて、本当に野菜に見えるという話も知っていた。

 普通の先生なら、そういう事は知っているものなのか?

「斎藤先生って、演劇は未経験って言ってけど、本当はすごい経験があるんじゃないの?」

「私もそう思った。アナウンサーだったのかな?放送部出身だって言ってたし。でも、ググってみたけど、斎藤広美ってアナウンサーはここ数年、どの局にもいなかったみたいだし、それ以外だとありふれた名前すぎて、ヒット数が多すぎるの。とても全部チェックしきれない」

 あぁそうなのか、と右から左に流れる。

「ねぇ、ナツヒさぁ。私これから、すっごい性格悪い事言うけど、いい?」

「何よ、改まって」

「すっごい腹黒発言するけど、私の事、嫌いにならないでね」

「そんな前置きしないでさっさと言っちゃばいいじゃん」

 そうだな、私らしくもない。

 深呼吸2回。

「斎藤先生って、もしかして自分の過去を隠したくてさ、わざと手を抜いて私たちを指導してるんじゃない?」

「そんなことはないと思うけど」

「手を抜いてるって表現が適切じゃないならさ、なんていうか、最初からもってる抽斗を全部開かないで小出しにしているというか、そんな感じしない」

「言いたいことはわかるけど……考えすぎじゃない?」

「女の過去を暴く趣味はないけどさ、なんか華々しい経歴があるなら、隠さず全部おしえてほしいよね。使える技術なら吸収したいし」

「まぁね。だったら今度、ストレートに聞いてみようよ」

「うんそうだね」

 過去を隠したいって気持ちは17歳の私にはわからない。

 でも私たちは全力で演劇にぶつかっているし、手を隠している余裕はない。常に全力だ。

 先生にも全力を出してほしい。手を抜いて私たちを指導しているとは思っていない。

 でも隠している技術があるはずだ。それが今日わかった。

 先生がもってる技術は全部吸収したい。

 高校演劇ができる時間は短い。

 人生80年だとしたら、高校演劇ができる時間はわずか3年。

 私たちには3年しかない。

 ううん違う、私たちはもう3年生。

 あと1回しかない。

 6月末の公演で終わりなんだ。

 あと1ヶ月半しかない。

 体にゆるやかな遠心力がかかって、カーブを曲がっているのに気付く。

 もうすぐバスセンターにつく。

 5月だと言うのに夏日みたいに暑い。

 もうすぐ夏か。

 高校生活最後の夏だというのに、来場者勝負なんて物があって、全然心が安らがない。

 ストレスだらけの毎日だ。

 私たちにとっては引退の公演、せめて厳かに終わりたかった。

 だが考えようによっては、勝って終わりなら最高の引退になる。

 演劇には勝ち負けはない。だけど今回は軽音楽部が勝手に勝ち負けを設定してくれた。

 役者は4人。裏方には愛宕くんがいるし、彼は役者もやってくれているから、いざとなれば役者5人でもいける。

 看板を張れる役者も入った。

 後は脚本と宣伝がしっかりすれば軽音楽部に勝てる。

 その為の脚本探し。手を抜くわけにはいくまい。


    *        *        *


「脚本できたよ」

 ついに脚本の読み合わせの日を迎えた。

 錦町先輩と柴田先輩の行動は早かった。

 来場者勝負用のインパクトがある脚本を見つけられなかった2人は、わずか数日で1時間30分の脚本を書いてしまった。

「これって……」

「ギャグっていうか……コメディ?」

「王道ギャグコメディだね」

 私は意外だった。

 部活動紹介の時はシリアスの王道、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」で来たので、シリアス中心の劇団なのかと思ったら、王道ギャグコメディらしい。

 そういえば、私も美奈子も過去の公演の台本を何も読んでいない。今度時間があるときにチェックしておかなければ。まぁそんなことはどうでもいい。

 で、演技を全くしない私が言うのもなんだが、美奈子はギャグが苦手である。

 シリアスしかやったことがないのだ。

「今回はいろいろな事情で、〈トマトカレーパン〉の監督から協力を取り付けたからね。

 台本を後で向こうも使うって交換条件で、大道具を一式貸してもらうことになったし。

 だから、脚本から入ったんじゃなくて、使える大道具と小道具から書いていったから」

 道具の事情から入った。

 演じる事ができるシーンだけを集めて繋げた。

 私は脚本には詳しくないんだが、どうやらそういうこともできるらしい。

 「当て書きだから、オーディションなしで、配役も決まってるし」

 ちょっとまて、それは初耳だ。登場人物は複数いるが、トオルという男子高校生。レナという女子高生。他は女友達が多数登場する。男役は1人だけ。

 でも、男役が1人だからといって、唯一の男性部員の愛宕がこれをやるとは思えない。

「トオルは私がやるから」

 やはりトオルは長身の錦町先輩がやるみたいだ。

 高校演劇では女性が男性を演じるのは珍しいことでない。

「1人8役モブはナツヒ、同じくモブをかぼちゃん」

 ということは、ヒロイン=レナは美奈子だろうな。

「レナは美奈子ちゃんお願いね。愛宕君はワンマンオペ」

 ワンマンオペとはワンマンオペレーションの略、1人で全ての操作をするということだ。これも人数の少ない演劇部では珍しいことではない。音響効果、照明操作、その他どんなことがあるかわからないが、とにかくそれを1人でやらなければならない。

 1人複数役というのは、キャラの演じ分けが大変になる。役が増えれば増えるほど大変だ。時と場合によっては主役なんかよりモブの方が難しくなる時もある。ましてや今回はコメディの複数役。一番大変なのはもしかしたら柴田先輩かもしれない。それに付き添う形でかぼちゃん。演劇経験のないかぼちゃんにとっては、いきなりハードルが高い。それは愛宕も同じだ。

 総じて今回、誰一人欠けても成り立たない。うわっ、胃が痛くなってきた。

「ところで、ザッと読んでみたんですけど……」

 早い!かぼちゃん、ザッとだけどもう読んだの?

「これ、思いっきり、下ネタですよね」

「そうよ」

「大丈夫なんですか?高校でやるのに」

「高校でやるからよ。これが一般客とか他校の生徒いれるとなると大変だけど、今回は恵温生しかこないし」

 なるほどそういうことか。

「それに、高校生って下ネタ好きだし」

 おっさんか、この人。ただ、かぼちゃんが心配するのもわかる。

 なにせ冒頭開始の1セリ目がトオルの「あぁ、キスしてぇ」だもん。どんだけストレートにいくんだ。

 粗筋はこうだ。

 彼女ができたばかりのトオルは、新しい彼女、レナとキスがしたい。レナもトオルとキスがしたいが素直になれない。自然な流れでキスをしようと、トオルはレナをデートにさそうが、デートの最中にバッファローの大群が現れたり、大蛇に飲まれたり、レナそっくりのアイドルの影武者を頼まれたり、魔女の魔法にかかって2人の体が入れ替わったり、怪獣が突然現れたり、UFOにキャトられたり、曲がり角でパンをくわえた転校生とゴッつんこして三角関係になったり、まさに王道ギャグコメディ。

 劇中のトラブルの数々は大道具や小道具でみせるシーンと、柴田先輩の1人8役のキャラの演技でみせるシーンとで交互に見せる。道具で見せるシーンの間に早着替えが求められるという役者泣かせ仕様。もっとも大道具シーンだって、役者はトオルとレナの2人だけであとは道具頼りだから操作役の愛宕は手抜きをできない。

 バッファローは既存のパネルを複製するらしいし、大蛇は新品。UFOは下手から上手へ自動で移動するように天井にレールを固定するというから、けっこう大がかりだ。

 怪獣に関しては、某大手怪獣番組の着ぐるみを上半身だけ特別に貸してくれるという。本来だったら著作主に申請しないといけないらしいが、学内の公開だったらバレないだろうとの事。もとよりまっとうな手段で手に入れたものではなく、メーカーが廃棄する予定だった着ぐるみを、キャラクターショーをメインでやっていた地方団体が格安で購入して、その団体が潰れた際に、貸した金の代わりということで〈トマトカレーパン〉に流れてきたんだとか。本来だったらスーツアクター込みで6桁の額を払わなきゃいけないらしいが、今回は特別。そのかわり、生徒や職員も含めて、絶対に写メを撮らせるな、とのお達し。出回ったら大変らしい。お父さんがみたら喜びそうだな。〈トマトカレーパン〉が全面協力してくれるというだけでこんなにすごいことができるのか。

「軽音部だってスタジオからプロのPAを無償労働させて、機材一式を破格でレンタルんだから、おアイコよ」

 勢いよく、部長が黒板を叩く。

「来場者勝負の日程が決まったよ。6月20日土曜日、残り1ヶ月、試験もあるけど、がんばろうね」

 軽音部は音楽室を抑えているらしいし、こちらは講堂を抑えた。40日前からスタート。それが早いのか遅いのかはわからない。しかも間に中間試験と、体育祭がある。

「時間はないよ。1日だって無駄にできない」

 部長の意気込みは伝わってくる。副部長は多くを語らず、常に静かに熱く燃えている。

 かぼちゃんはまだ戸惑っているみたいだ。まだ初公演に迎えるには、時間がいりそうだ。

 愛宕は楽観してるなぁ。早く本番になってほしいって思ってるんだろうけど。

 じゃあ、私はどうなんだろう?美奈子はどうなんだろう。

 このままやっていて軽音部に勝てるんだろうか?とても不安だ。

「先輩、軽音部との勝負ですけど、これで絶対に勝てるんでしょうか?」

 私の不安をかぼちゃんが代弁した。かぼちゃんの不安はわかる。

 私も不安だし、愛宕ももしかしたら不安なのかもしれない。

 でも私や愛宕は面と向かってこういう質問はできない。

 そういう質問をかぼちゃんがしてくれる。ありがたい。

「このままでは、無理ね。

 単純にいい演技をしたって、それを見に来てくれる子がいなければ話にならないわ。

 今回は1回限りの単発公演。1回目がとても良かったから口コミで2回目に来場者が増えるってケースも想定できない」

「じゃあ、どうするんですか」

「里中先生と斎藤先生と、〈トマトカレーパン〉の広報さんとも話をして、使えそうな技を教えてもらったわ」

「と言うと?」

 オホンとわざとらしく咳払いをする。重大発表をする前のお約束の演技だ。

「試験が終わったら、放課後の練習だけじゃなく、昼練をします」

 朝練ではなく、昼練ですか?というか、昼休みにやるのか。

「曜日は毎週火曜日と木曜日の昼休み。場所は数学講義室」

 うむむ、それだと、2階の渡り廊下のそばだから、昼休み中のカップ麺で並んでいる生徒のすぐそばでやることになるのか。扉を閉めれば、大丈夫かな。

「扉は閉めないよ。練習風景を全部見てもらう」

 なんとっぉ!

「なるべく発声練習はしないで、通し練習だけにする」

 なんだってぇぇぇぇええ!キバヤシ編集長もビックリだ。

 つまり、本番前に本編を見せるという事か。これは恥ずかしい。

「昼休みは40分。本編は、90~100分。で、昼練では、後半パートは絶対にしない」

 ふむふむ、そうすると、見てくれてる人にとっては、後半はわからない、というオチか。

 しかしこれは賭けだなぁ。

「そうね、でもこういう小賢しい手を使わないと新規の客は開拓できないわ。

 それに、愛宕くんとかぼちゃんはまだまだ不慣れな点が多い。

 本番でそれを克服して成長していくのを待ってはいれないの。

 だから本番の前に公開練習を定期的に開く。

 最初は見向きもされないかもしれない。

 公開稽古で逆につまらないって思われるかもしれない」

 諸刃の剣だ。1ヶ月前の私だったら、恥ずかしくてやらなかったかもしれない。

 一応経験者ではあるけれども、5年も舞台に立っていないんだ。

 それに恵温高校の普通の生徒がどれくらい演劇に対して寛容なのかにもよる。

 TVドラマや映画にだけ慣れた人から見れば、演劇はかなり異質だ。

 普段から演劇を見るかと言われれば、普通の中学生、高校生だったらまず見ない。

 首都圏ならまだしも、こんな地方都市、プロの劇団でも、巡業で1回でも公演してくれればマシな方。そのチケットは熱烈なファンが先を争って買うし、何より中学生や高校生が趣味で見たくて買える値段じゃない。

 文化祭や過去の公演で演劇部の公演を見た事がなければ、ほとんど大多数の生徒が演劇未体験だと思う。演劇は敷居が高いと誤解される。確かにそれはある。

 でも本当は、演劇は誰でも関われるエンターテイメントなんだ。

 それを理解してくれれば、私たちのところにもお客さんは来る。

「マナちゃん、難しい事は考えなくていいのよ」

 見透かされていたのか。ニュータイプか。

「大丈夫、私が主役をやれば、絶対にうまくいくわよ」

 この台詞、どこかで聞いた覚えがある。いつの台詞なのかは思い出せない。

 でもなんとなくなるのかもしれない。 残り40日、がんばろう。

 だがその前に試験がある。



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