真奈美と美奈子
真奈美は激怒した。必ずかの邪知暴虐のヒステリー女を除かねばならぬと決意した。
真奈美はもう演劇はやらぬ。普通の部活に入り、普通に遊び、普通に暮らすと決意した。
だがあの女の言い分はなんだ。聞いて激怒した。生かして置けぬ。
あの女の○○○に、○○○をつっこんでやる。
姉は駆けた。
走れ!真奈美!
そして、ベーカリー〈倫敦夜曲〉にて、オレに拒否権はなかった。
音速で駆けた姉=真奈美は、たずね人ステッキか妖怪レーダーを使って瞬時にオレの居場所を探り当て、そしてオレを拉致した。
目の前には、コッペパンサンドと石釜天然バゲットで作ったベーコンレタスサンド、そして同じくバストラミビーフサンドが並んでいる。あれ?パストラミだったけな。
値段にしておおよそ1000円。高校生にとっては高額だが、3年間を売るには安い額である。目の前のパン3つでオレは拒否権のない買収劇の当事者になっている。
「さっきの女って、副会長?」
「そう。有名よ。執行部3役で組んでる〈バンド〉でもベースやってるし。
右利きだけど、アニメのキャラの真似して左利きでベース弾いてるの。そのキャラが使ってたベースのレプリカモデルも使ってるし、去年はコスプレもしてた」
「そっか、だから楽器は左利きで、ビンタは右利きなんだ」
もはやオレは、入部確定らしい。もうオレが入る入らないは議論されていない。
女子4人のガールズトークの中で、オレは完全にアウェーだった。帰りたい。
「でも、なんであんな〈理不尽〉な勝負を受けたんですか?」
姉ちゃんが部長に質問する。そりゃごもっともだ。普通に考えたら負けるに決まってる。
「勝算があったからよ。条件に出したでしょう。
『当日の来場者に、それぞれの部活の部員は来場者にカウントしないこと』って。
部員数が百人を超える軽音部と部員数が5人の演劇部。
観客は恵温高校生徒のみ。生徒数は1000人。
普段から他の部活の恨みを買っている軽音部には、固定ファンの数は少ないわ。逆にアンチは多い。
演劇部だって固定ファンがいないわけじゃないけど少ない。けれど、敵も少ないはず」
「だけど、部員が多いってことは、部員の友達も多いってことでしょ?嫌いな部活でも人づきあいで嫌々見に行くって事もありえるわ」
「ま、それはそれ」
「大丈夫なのぉ~?」
楽観論だけが流れる現場だ。
「ところで、マナちゃんとかぼちゃん、今日これからと、明日明後日の予定はどんな感じ?あいちゃってる感じ?」
「私は空いてます」
「私も愛宕も空いてます」
オレも勝手に空いてる事にさせられた。酷過ぎる。人権侵害だ。1週間の勉学の対価として、休日2日間を要求する。いや、まだ授業はじまってないけどさ。
「じゃあさ、これからワークショップあるから、一緒にきてくれない。恵温の演劇部の顧問もワークショップに参加してるの。うちの顧問にだけは紹介しておきたいし。あとは主催と演出と監督がいるんだけど、それは追って紹介するわ。今日は見学だけでいいから様子をみてもらって、明日参加できるようなら、明日も練習に付き合って。明後日は学校で練習。まだ脚本はないから、基礎練だけだけど、うちの練習方法を教えておきたいし」
「わかりました」
とんとん拍子で話は進んでいくが、オレはまだ不満だ。というか、1度もやるとは言っていない。いつも姉ちゃんが決めてしまう。だから、オレは恵温高校に来るのが嫌だったんだ。中学の時も美術部に入ろうとしたのに、ヲタク臭いからって勝手に男子バレー部に入れられた。その後、コンピ部と兼部したが、籍はずっと男バレだった。玉拾いと声だしだけのみじめな3年間だった。その時、オレは決意したんだ、もう姉ちゃんの言う通りにはならない。もういい、堂々と言ってやる。
「すみません、オレは水泳部に入りたいんで、演劇部には入れません」
4人の視線が集まる。姉ちゃんはあからさまにムッとしている。私の言う事を聞かない気なのかと。
「あら、マナちゃんからは、あなたはどこにも行く当てがないって聞いてたんだけど」
錦町先輩は残念そうな顔をする。
「マナちゃん、ダメよ。実の弟だからって、無理強いしちゃ」
姉ちゃんはバツの悪そうな顔をしたあと、またオレを睨む。睨みたいならどうぞ睨んでください。一時の勢いで3年間を無駄にするわけにはいかないのです。
「残念だなぁ、せっかく5人そろったと思ったのに」
小さな先輩は言う。この人の名前はなんだったっけ?
「そうねぇ、せっかくいい男が入ったと思ったのに……」
いい男だなんて初めて言われた。
「この前卒業した3年生の中にも男子はいなかったから、男子が入部するのはかなりひさしぶりなのよ。結構、嬉しかったんだけどなぁ。かっこいいし、イケボだし」
足元のつま先からてっぺんの髪先まで嘗めまわすように見られている。
男のオレより身長が高いもんで、威圧感は抜群なんだが、猫なで声と混ぜられると、怒っているんだか、悲しいんだか、まるでわからない。
小さい先輩は何も言わず食の手を進めている。
「ところで、愛宕くん、水泳部入りたいのはなんで?」
「え?」
なぜそれを聞く。
「水泳に興味があるからです」
女子と一緒だと言うことと、冬の練習がないからだとは言わなかった。というか、水泳部はまだ見学にも行っていない。陸上、体操、卓球、水泳、柔道、剣道、空手、弓道、馬術、の9部が体育会系で男女合同の部活だ。つまり女子と仲良くなりたいなら、この中から部活を選べばいい。下調べしたところ、馬術は男子しかいないし、体操は女子しかいないし、柔道はいかついゴリラみたいな女子が1人とガラモンみたいなモンスター系女子が1人の系2人、これは論外。
本当は他の部活もちゃんと下調べして、かわいい女の子がいるかどうかを見極めてから入部したいんだが。
まあここで水泳部と言ったところで、必ず水泳部に入らなければならないというわけではない。あとでひっくりかえしてもいいんだ。ようはこの場をどう乗り切るかだ。
「女目当て?スク水とか競泳水着フェチ?」
図星をつかれて動揺した。「ふぇ~」とか「ファっ!」みたいなスットンキョウな声をあげたかもしれない。何を隠そう、前を隠そう、オレは競泳水着と日焼けした素肌が大好きだ。オレの反応をみて部長は喜んでいる。何もかも見透かされているようだ。
「私たち、いますっごく、男がほしいんだけどなぁ」
男手がほしいということでしょう。周りから誤解されるような言い方だな。
頬杖をつきながら、オレをみつめる視線はとても色っぽい。
「ねぇ、愛宕くん。演劇部ってね、コスプレが好きな子が多いのよ。私もナツヒも抵抗ないし。今度の体育祭ではチアガールやるし、高校野球も順当に勝てば、夏にもチアやるかも」
なんと!
「愛宕くんが、夏まで手伝ってくれるなら、夏になったら、1回だけどんな格好でもリクエスト聞いちゃうよ」
スッと立ちあがって、テーブルを回ってオレに寄ってくる。ベリーショートの黒髪、カモシカのようにスラッと伸びた脚、きめ細かくシミひとつない肌、小さいとも大きいともつかない中庸な胸、挑発的な視線、響くピアノ、不協和音。
後ろに立ち、両肩に手を置かれた。
「愛宕くん、彼女いる?」
「いないです」
そのまま後ろから抱きしめられた。先輩の顔が横にある。先輩の胸が背中に当たっている。汚い物でも見るかのような姉ちゃんの視線が痛いが、そんなことはどうでもいい。今、オレは初めて女性に触れられている。初めて感じる体温、初めて感じる吐息、初めて感じる脈拍、姉ちゃんとは違うシャンプーの香り。
「どんな格好がみたい?」
耳打ちされた。声がエロい。姿形は男に近いのに、やっぱり中身は女性なんだ。
どんな格好がみたいかだって?
チアは体育祭で見れるなら、やっぱり、メイド、猫耳、チャイナ、ナース、OL、サンタ、ミニスカポリス、バニーは定番だが、定番のアニメキャラとかだったら、エルフ耳とか艦コレとか東方とかも捨てがたい。しかし、オレの欲望に忠実なら、そりゃもちろん、白いスクール水着とか、白い競泳水着とかを来てもらいたい。
「ねぇ、夏まで一緒にいてくれない?そうしたら……デート1回」
マジですか?
「マジですか?」
「マジですよ」
「……はい、入ります」
欲望には抗えない。煩悩はとめどなく。
「よっしゃ、新入部員3人確保」
その瞬間に背中に押し当てられた胸は離れ、先輩はとっとと反対側の席にもどってしまった。もしかして、騙された?色仕掛けで落とされた?
「よし、じゃあ、今日はワークショップいくわよ。明日からは練習ね。マナちゃんは私とブランク明けの練習と、かぼちゃんと愛宕くんはナツヒといっしょに初心者用の基本事項を勉強してちょうだい」
ヒガシヅメさんが小さく「はい」と答えただけで、姉ちゃんとオレは何も答えず、ただ目の前のパンの山を見つめていた。さっきまではとても女性的だった錦町先輩が大口を開けて、竜田揚げサンドを一口で飲みこんだ後、まっくろくろすけの形をしたパンを2つ一緒に口の中にほおりこんだ。コーヒー牛乳のパックに口を直接あててゴクリゴクリと喉を鳴らして飲みほすと、プハーッと天を仰いだ後に、左手の甲で口をゴシゴシと乱暴にふき取った。
騙された方に一票だ。この人は多分、中身もおっさんだ。
* * *
俺、里中広樹は、目の前の生徒の指導に集中していた。
いや、すまん、全然集中できていない。タバコが吸いたい。
だが今は禁煙中だ。消費税が上がった時に禁煙をしたが、2ヶ月も続かなかった。禁煙パイポをずっと使っていたが、ミントの味がするのはなんか不愉快だった。だから最近はもっぱらブラックコーヒーを飲んでいる。足元には空になったブラックコーヒーの缶が1つ置かれている。
「つぎ、無表情、よーい――――はい!」
目の前にいるのは、昨日あったばかりの新入生、女池真奈美。
去年の春から、俺は恵温高校で演劇部の顧問兼演出をやっている。本当はやりたくなかった。アマチュア劇団で役者の経験があることは確かだが、大学から演劇を始めた自分には、高校演劇は未知の世界だった。高校演劇は異質だ。他のアマチュア演劇やプロの演劇は全く違う世界が確立している。野球で言えば、アメリカのメジャーリーグと日本のソフトボールぐらい違う。だから勝手がわからない。それに俺は一役者であって、演出の経験は皆無だ。助演もしたことがない。というか、スタッフ関係は今まで一度も経験したことがない。完全な役者バカだ。そんな俺がスタッフの頂点の演出などできるはずがない。そんな俺がゴタゴタの末に顧問を引き受けることになり、なし崩し的に演出も何度か引き受けることになった。
「つぎ、喜怒哀楽の『哀』、よーい――――はい!」
錦町と柴田が2年になる時だったから、ちょうど1年前からか。俺が顧問を引き受ける事になった経緯はいろいろとあるんだが、今はそんなことを回想しているヒマもない。俺が所属してる劇団の練習に、演劇部の生徒たちも交じって練習している。これも俺が引き起こした事なんだが、今はそれを後悔している暇はない。ちくしょう、タバコが吸いてぇ。
「つぎ、無表情、よーい――――はい!」
今日は劇団の主宰も演出も来ない、ただの自主練習日だから、場所だけ使わせてもらって生徒指導をしているが、今はブランク明けの基礎練と、経験者に対する一種の通過儀式である喜怒哀楽の練習をしているが、なんというかとんでもなく外れの子だ。4~5年も舞台から離れていちゃ仕方ないのかもしれん。謙虚だし、自分の過去の栄光を振り回すわけでもない。天狗になっているわけじゃないから、初心者と同じ練習をさせても問題なかったのだが。
「つぎ、喜怒哀楽の『楽』、よーい――――はい!」
正直、外れだ。ずぶの初心者の方がまだよかったかもしれない。演劇の練習方法ってのは、劇団ごとに全く違う。前の劇団での練習方法とか癖が残っていると、それを修正するのに時間がかかる。郷に入るなら郷に従え。この練習は実力もないくせに自信満々でやってきて自慢げになってる奴に赤っ恥をかかせるための、いわゆる『かわいがり』の練習でもあるんだが、正直、これをこの子にやるのは辛い。
「つぎ、無表情、よーい、――――はい!」
それにしても苦しそうだ。錦町の話だと、昔は県民会館に立ったこともあるらしいが、今はその面影は全くない。本人もそれがわかっているから余計辛いのだろう。隣にいるベテラン連中との差は歴然だ。あんまりイジメは好きじゃない。ただ、感情表現は演劇をやる上で一番重要なポイントなのでおざなりにするわけにもいかない、一緒に入った2人もいずれは通る道だ。
「よし、終了。すぐにダメだしいくぞ」
「「「はい」」」
ベテラン勢3人は威勢のいい返礼をする。本来、こういうことをやるのは演出の仕事のはずなんだが、今日演出は小屋と打ち合わせに行ってる。高校で演劇部の顧問だからって先輩方にもからかわれつつ練習指導をすることになった。まぁこの劇団は、全員がダメだしに参加する方式だから、演出が絶対権利者というわけでもない。しかしなぁ、ベテラン勢にはありきたりなダメだししか思いつかない。
「押木くん、ちょっと確認したいんだけど、怒の2段階の時、顔が左右非対称なんで、右側から見た時と左側から見た時で観客がうける印象が全然違うはずだとなんだけど、それは意識して左右非対称なの?意識してやってるならいいんだけど」
「そうです」
「なら問題ないです。以上です」
「ありがとうございました」
「小林、手と上半身は上手くなってきたんで、今度からはワンランクあげて表情だけでチャレンジしてみようか。それでも十分上手くなってきたと思う。以上です」
「ありがとうございます」
喜怒哀楽無表情の練習は、喜怒哀楽の4つを各3段階にわけて、順に表現する。第1段階は微笑やちょっと怒った程度、第3段階は本気で怒ったり、泣いたり、喜んだり。
まずは「喜の第1段階」から始まって、合図で「喜の2」「喜の3」とレベルアップしていく。そして一旦無表情をはさんで、次に怒を同じように3段階、また無表情をやって、哀、楽と続ける。最後の無表情まで、16回のタームに分けられる。
顔だけで表現できれば一人前だが、最初はセリフをアドリブで行ったり、身振り手振りをくわえた方がやりやすい。
ベテランは慣れた練習だ。というか、ベテランは新人を叩きのめす為の比較対象だ。
押木、小林、伊藤に続いて、とうとう女池の評価をする番だ。泣かなければいいが。まぁ泣かすのが目的なんだけどさ。女を泣かして喜ぶ趣味はないんだな、これが。
「最後、女池さん、ちょっと長くなるけどいい?」
「…………はい」
「自分でどうだった?やってて、100点満点の何点ぐらい取れてたと思う?」
「…………30点ぐらいです」
「全然、0点」
これを聞いて、女池から一番遠い位置に立っている押木は笑いだしている。死角にいる下山も目だけは笑っている。もちろん、女池には気づかれないようにしているが。
この喜怒哀楽無表情は、自称経験者が自分は無力なんだと自覚させる為の通過儀式。劇団内の空気と上下関係を教え込ませる為に最適の練習で、とにかく下手な奴は自信をなくさせるのが目的。変に自意識過剰な新人が来て、演出や主催や脚本にケチをつけたり反論してきたりするのを予防するためにもこの練習はうってつけなんだが、この子は子役出身だし、そういうことはわきまえてそうだからこの儀式は必要なかったと思う。子役出身は場の空気を乱すことの怖さを幼いころから知っているはずだ。
それに30点は正解だ。確かにこの子の演技は30点ぐらいだ。赤点は赤点だが、0と30は大違いだ。この子は自分の能力をある程度は客観的に把握している。もしも女池が50点とかそれ以上の点数を言っていたら、俺も30点と答えるつもりだったのだ。だがしかし、自信を無くさせるためには0点というのが一番いい。あぁ、本当は嫌われ役をやるつもりはなかったのに。
「まずさぁ、本番始める前に言ったよね、上半身や手の動きを使ってもいいって。セリフもしゃべっていいって言ったよね。表情だけで喜怒哀楽無表情を伝えるの、最初は難しいって。
芸歴3年の伊藤さんだって上半身使ってるんだから、君も上半身つかってもいいし、喜怒哀楽にあったセリフをしゃべってもよかったんだけど。
いきなり高レベルな表現に挑戦して、大失敗しちゃってるわけだけど……なんでセリフも身振り手振りもしなかったの?」
「できると思ったからです」
「ぜぇんぜん、できてない。それから……」
やってて心苦しい。この儀式の大根底にあるのは、ちゃんとできてる人がいたら、それは評価すること。ただのイジメではない、あくまで練習だ。上手い人にはその実力を認める。できない人がいたら、ちゃんとできるようになってもらわないと。
「喜怒哀楽と『喜』と『楽』の違いがないね。
君、『喜』と『楽』の違いをちゃんと把握している?」
「『喜ぶ』のと、『楽しい』の違いだと思います」
「それ言い換えただけだよね?『白』と『赤』の違いがわかるかって聞かれて、『ホワイト』と『レッド』の違いですって言ってるのと同じだから」
「はい、すみません」
すぐ誤りを認めて謝罪する、素直な子だな。
「『喜』とは、嬉しい、感謝する、という意味だ。涙をみせるのは悲しい時だけだと思ってる奴も多いが、嬉しくて泣く事もある。だから『喜』で泣いてもいい。
対して『楽』は楽しい、笑顔だ。それは作り笑いの笑顔じゃなくて、本当に心から楽しいと思ってる笑顔だ」
喜怒哀楽で、喜と楽を誤解している人は多いし、辞書によっては、ほとんど同じことを書いてあることも多い。『喜び』と引いて『楽しみ』と出てくることもある。
「感情表現ってのは、演劇の基本だ。だが、今、感情表現が苦手な子供や大人が増えてきた。
今の時代、若い子にも大人にも、クールであることがカッコいいと思う風潮がある。対して熱血はカッコ悪いという事だ。感情を表にださず、がんばった感を出さないで結果だけを残す。
それが現代のカッコよさの象徴だ。
だからマンガでもドラマでもアニメでも、クールキャラってのは総じて人気が高く、そして能力も高い。だが現実世界では、残念ながらクールキャラが能力は高いとは限らない。もちろん高い奴もいるが、低いのもいる。クールにしているだけで能力があがると思うのは中学2年生までの発想だ。
そしてクールな奴ってのは実はクールなんじゃなく、ただ単に感情表現が苦手って場合も多い。
大人になるにつれ、感情を表に出さないことが大人としてたしなみであるという風潮もある。
たしかに、大人が会社の中で喜んだり、怒ったり、悲しんだりというのは変なもんだ。
だが演劇では、喜怒哀楽が売り物だ。無表情の役者が右に左に移動してセリフを棒読みするのを観客は望んじゃいない」
「はい」
話が脱線したことは自分にもわかった。マンガのクールキャラトークは全くいらなかった。
「それから、無表情が毎回違う表情をしている。4つの無表情を同じ顔にして。それから若干、殺気を放っていて、無表情が怖い。怒に近くなってる」
「はい」
「あとはねー。うーんそうだなー」
参った。この子、経験者というより、本当にズブの素人以下だ。
今の彼女の感情表現レベルは演劇うんぬんではなく、日常生活に支障をきたすぐらいに無表情というか、感情表現が下手だ。喜怒哀楽30点は赤点だよ。
おそらく、演劇やめた反動で、中学3年間は感情表現をあまり表に出さなかったんだろう。
思春期に感情表現を頻繁に行うかどうかで、脳の発達に違いがでると、とある脳学者が述べていた。思春期に感情表現を抑圧すると、後から再習得するのが難しいんだとか。
彼女はまだ高校1年生、なんとかなるとは思う。
しかし、すぐに役者にするには難しいと思うぞ。
「恵温高校演劇部はビデオ撮影で自分の演技を逐一チェックする練習方法をしているんだが、来週、自分の喜怒哀楽無表情を学校でまたやって、それを録画して、自分でチェックして、よく考えるように。それで、これから、錦町と柴田と俺が喜怒哀楽無表情やるから、それとの違いを見て、自分には何が足りないのかを考えるように。以上、終わり」
「ありがとうございました」
いっきに疲れただろう。ダメだしをされるのは、ただ立っているだけでも体力を消費する。
昨日、復帰宣言したばかりの子にはきつかっただろうな。
錦町がとことこ近づいてくるので、耳打ちした。
「あの子、本当に経験者か。下手すぎる」
「私も驚いてるんです。昔より、かなり下手になってる」
「昔はどうだったんだ?」
「泣かなきゃならないシーンで、本当に泣いて出てくるような子でした。もちろん、ガチで泣いてるわけじゃなくて、セリフはちゃんと言えてるし、客が引くほど泣いてるわけじゃない絶妙なさじ加減でした」
「今だったら、無表情で出てきそうだぞ」
耳打ちしたはいいが、俺が錦町に何を言ってるかなんて、だいたい想像がつくだろう。
部屋の隅で舞台用語を新入生2人に教えていた柴田も、適当に区切りをつけさせた。
こちらへトボトボとやってくる。
「あっちはどうだ」
「概ね順調ですけど、舞台用語は物を見せながらの方がいいかもしれませんね」
「今は何をやらせてる?」
「『外郎売』です」
「2人の調子はどうだ?」
「かぼちゃんは大丈夫ですけど、愛宕くんは乗り気じゃないみたいです。無理やり5人にするために引っ張ってきたからだと思うんですけど。学習意欲もそんなにないみたいです」
「やれやれだな。顧問としては、別の5人目を探した方がいいと思うぞ。まだ来週4日あるんだし」
「勧誘はまだ続けます」
「俺としては廃部でもいいんだが」
「先輩たちに顔向けできないんで、それは防がないといけません」
まぁそりゃたしかにな。
俺も前にいた劇団が無くなった時は、無くなる事は前々からわかっていたにしろ、ショックだったからな。
「柴田は準備いいか?」
「いつでもいけます」
「下山さん、こっち来て、喜怒哀楽無表情の点呼お願いします。ダメだしは押木くん、伊藤さん、小林の3人で」
「「「はい」」」
3人の威勢のいい返事が来たあと、下山がどっこいしょと立ちあがって100キロを超える体を引きずってやってくる。女子高生が大好物なこの先輩は、新人が2人来ると聞いて、今日は稽古に出ない予定だったのにやってきた。今週はたまたま休みだが、来週からゴールデンウィークが終わるまでは土日もない生活に戻るはずなので、稽古には出ないでいいからゆっくり休んでほしかったのが本音なのだが、来てしまったのは仕方ない。
「じゃあ、喜怒哀楽無表情、はじめます」
「「「はい」」」
「まずは喜怒哀楽の『喜』、よーい――――はい!」
* * *
オレは疲れていた。昨日、放課後に〈倫敦夜曲〉にいき、その後、いきなりこの練習場に連れてこられた。おまけにチャリは恵温高校に置きッぱだったから、稽古見学が終わったら、また恵温高校まで戻ってそれから1時間かけて帰宅した。こんなことなら、〈倫敦夜曲〉でもっと食っておけばよかった。錦町部長と柴田副部長が細い割に大食いな理由がわかった。演劇部ってのはほとんど体育会系と変わらない。
発声練習をすれば汗もかくし、柔軟体操にかける時間も長い。今日はやってないが、学校では晴れた日にランニングをするらしい。心電図とレントゲンの結果が出たらランニングが追加される。去年、男バレを引退してからコンピ研で毎日アニメを見ていたオレには辛い。
腹式呼吸ってのがこんなに辛いとは思ってもいなかった。演劇の基本らしいが、オレには辛い。普段の生活では胸式呼吸みたいだ。
今は休憩時間。姉ちゃんは隣の大部屋でパントマイムの基礎練をやっているが、なかなかうまくいっていないらしい。当然だ。
姉ちゃんは演劇が(・)得意じゃ(・・)ない(・・)。
演劇が好きだったのは、姉ちゃんじゃなく、美奈子の方だ。
演劇をやっているときは必ず姉ちゃんの体は美奈子に貸していた。
だから姉ちゃんは本当に演劇をやるのは今日が初めてなんだ。
オレは少し期待していたんだ。また演劇をやれば美奈子が出てくるかもしれないって。
姉ちゃんは嫌いだけど、美奈子のことは好きだった。姉ちゃんはいつもオレをいじめるし、こき使うけど、美奈子はいつもオレにやさしくしてくれる。
昔、何度か美奈子がやっていた舞台を見たことはあったが、あれは本当にすごかった。
姉ちゃんと美奈子が5年の時、ウキウキウェスティバルの出し物を決める時になんか言われてから、姉ちゃんは美奈子を体から追い出した。
オレは美奈子の方が本物の性格だったら良かったのにとずっと思っていた。
美奈子を追い払ってから何度も姉ちゃんに「ミナコちゃんと変わって」ってお願いしたけど、「うるさい、ミナコなんていないんだ」と平手打ちされた。
オレが姉ちゃんを決定的に嫌いになった瞬間だった。それまでは3人でまだいい関係が築けたと思う。美奈子がいなくなってから、3人が2人になってから、姉と弟の関係もうまくいかなくなったんだ。
とりあえず、今はカロリーを取らないと。
発声練習をした後はお茶を飲んではいけないらしい。ウーロン茶や緑茶は喉の油を流してしまい、せっかく発声練習でストレッチした喉を、固くしてしまう。だから発声練習をしたら、しばらくお茶は飲まない方がいいのだとか。
かぼちゃんは何も食べずにひたすら外郎売を読みふけっている。
拙者、親方と申すは、から始まって、薬師如来に照覧あれとほほうやまって外郎はいらっしゃりませぬか、で終わる長文。
ゆっくり丁寧に読めば5分、普通に呼んで4分、早口に読んでも3分を切れば早い方、早口言葉選手権でも使われているそうだが、2分20秒が超人的タイムらしいことはわかった。
今はカンニングペーパーを見ながら読んでもいいらしいが、3ヶ月も練習していれば暗唱できるようになるんだと。
だがオレはそんなことをやるために高校に入ったんじゃないぞ。
コンビニの菓子パンを頬張る。昨日の〈倫敦夜曲〉のパンがおいしすぎたせいか、そんなに感動はない。
今日は午前10時に集合して、じっくり1時間ウォーミングアップして、そこから個別で練習。午後も1時から4時まで稽古があって、それから片づけと掃除。だいたい解散になるのは5時。これでオレの1日は終わってしまう。辞めたい。というか、辞めよう。こんなところにいても、何も自分の為にはならない。昨日、拉致られて連れてこられたはいいが、入部届けは出していない。締切は18日、まだ時間はある。絶対に演劇部なんか入らない。
コーヒー牛乳のパックの底に残った一滴を飲み干そうと悪戦苦闘している時に、ドアがノックされた。ドアを開けたのは、大柄のおっさん。確か下山さんだったか?
「休憩時間中に悪いな?今、大丈夫か?」
何か手伝えということなのか、断ると怖いのではいと応えて立ちあがると「いやそのままそのまま」と近づいてきた。近くにあるパイプいすに座る。かぼちゃんも近づいてきたが、どうやらこの人はオレにだけ用があるらしい。その旨伝えると、かぼちゃんはまた隅の席に戻って行った。
「大体様子を見ててもわかるが、お前さんは好きで来てるわけじゃないだろ?」
お見通しのようだ。
「まぁ、姉の言う事に逆らえないってのも大体想像できる。大変だな、年子で逆らえない姉が同学年にいると」
まったくもってその通りです。
「俺たちは団体としては、新人や新スタッフは大歓迎だが、無理やりやらされて、しかもメリットのない事なんて長続きしない事はわかってる。悪いことは言わないから、入部しないでおけ。女子4人の団体に男が1人行って、ハーレムになるわけがない。現実はそんなにあまくないんだ」
おっしゃる通りだと痛感しておりんす。
「俺は教師じゃなくて、あくまでアマチュア劇団の小屋付き監督だから、お前の高校のことは何にも言えないが、顧問の里中とは長い仲だ。里中にそれとなく言ってやるこたぁできるぞ」
ぜひともお願いいたします。というか監督だったんですか?
失礼しました。偉い人だとは知らずに。
「あぁ、アニメとか映画とかだと監督って偉いんだが、舞台だと監督ってのはトップじゃない。上には主催とかプロデューサーとかクライアントとか演出とかたくさんいる。まぁ、映画でもプロデューサーやクライアントはいるんだけどな。
舞台や演劇では演出家ってのが、演技指導や舞台美術、照明、音響、小道具、衣装に指示を出していく。
舞台監督ってのは、その演出が出した指示を本番開始前に引き継いで、演出には演技指導に集中してもらい、イメージした舞台を現実の舞台に構築する役割の責任者だ。
だからアニメで言うと演出と監督の役割と全く逆だな。アニメでは監督が上で、演出が下だ。逆に舞台では、演出が上で、監督が下だ」
アニメと全く逆と言われるとわかりやすいです。
「舞台監督の仕事は、9割が事前の準備だ。残り1割が本番中だが、何もなければ、キューを出すだけだったりするし、『タイミング』って役職があって、ストップウォッチ片手に舞台監督の代わりにキューを出し続ける場合もあるから、舞台監督は本番中の進行に関して責任は負うが、突発的なトラブルが起きなければ、役者なんかよりもはるかに楽さ。
俺なんかは、役者経験がなく下っ端のスタッフから舞台監督に昇格してった男だから、演技に関しては何も言えないしな」
そうなんですか。ところでさっきからアニメの監督の話とかしてますけど、そっちの仕事もするんですか?
「アニメの仕事は記者会見とかイベント程度だ。
俺がたまたま映画監督やアニメの監督にも知人友人ともいるからな。仕事柄でご一緒させていただいた人もいれば、プライベートで親交のある奴もいる。ただ、スタッフという関係上、仕事で知りえた情報は一切外には漏らせない。だから監督だろうとアーティストだろうと声優だろうとなんだろうと、仕事で一緒にやらせてもらった人の話は一切漏らせない。俺もプロだからな」
話せる範囲でいいので、どんな人と会ったことがあるか教えてください。
「そう言われると、仕事の数だけ会った事がある奴は増える。ジャンルを指定しろや」
アニメ、声優、特撮関係で。
「だったらなぁ……」
それから下山監督の口から、とんでもない名前がぴょんぴょんぽろぽろばぐばぐバグバグミバグバグあわせてバグバグムバグバグでてきた。
アニメ系が好きなら誰しもが知ってる大声優から、もはや紅白歌合戦の常連になったアーティスト、毎回大作シュミレーションゲームのOPを歌うグループ、さいたまスーパーアリーナで8月に行われる大イベントの出場経験がある歌手などなど。
「アニメ声優が歌手活動やるのも珍しくない時代になったからなぁ」
うらやましい。
「もっともな、仕事一緒にしたことがあるってだけで、挨拶と業務連絡するだけで、直接会話できるなんてそうそうないぞ。この劇団では舞台監督だが、でかい会場だと俺なんか下っ端だからな。下っ端なんかたくさんいるから、出演者も監督も、こっちの事まで覚えてないぞ」
それだとしても、同じ空間にいれることがすごいです。
ところで……?
「なんだ?」
業界って枕営業って、本当にあるんですか?
「大から小までいろいろあるよ。小さく色仕掛けしてスタッフからマイクを奪う事もあれば、愛人としてお偉いさんと付き合う場合もある。ただ、事務所が小さなところだと、タレント1人で社員数名とその家族を支えてる場合もある。だから社長や重役もタレントのことに親身になり、タレントも自分のことを真剣に考えてくれる社長や重役に信頼や尊敬以上の念をもつ。それで恋愛関係に発展してるって場合も多いから、愛人との線引きは難しいな」
枕営業を受けたことってありますか?
「昔、でかいところでその中の50人ぐらいまとめてた時に、そこの舞台監督から『枕営業は絶対に受けるな』って厳命された経験はある。仮にあったとしても、それはホイホイしゃべれねえなぁ」
失礼しました。すみません。
でも、有名人を直接見れるだけでもうらやましいです。
「そうか?仕事だと浅い付き合いで終わるけど、プライベートまで付き合うと、一緒に飲んだりなんだりとかあるんだけどなぁ。
プライベートだったらなぁ……あんま有名じゃないけど……」
それから監督は、プライベートで付き合いのある歌手、声優、スーツアクター、スタントマン、作家、プロモデラーの名前を列挙していったが……
なんじゃそりゃ!
今をときめくB級ウェブアニメ界の大御所やら、去年のアニメで大注目となった若手急成長中の声優とか、この前の大作映画の中で怪人やライダーに入っていた人やら、模型誌を購読していれば嫌でも目に入るガンプラ作家やら、演出が過剰すぎることで有名な同人ゲームの主宰やらわらわら出てくる。有名じゃないとかいいながら、超有名人ですよ、その人たち。少なくともオレが好きな業界に関しては。
「あいつ、俺と里中がいた劇団に客演で出てて、今でも年に1回飲みにいくぜ」
「あの人は俺がイベント主催した時に知り合って、それから仲良くなって、去年の秋に一緒に旅行に行ったな」
「そいつは俺の大学の後輩で……そいつは仕事で一緒になった時に知り合って……そいつは仕事で一緒に下っ端から始めた仲で……こいつは大学の同じサークルで……」
大人になれば人脈ってのは自然と開けてくるってことだったが、少なくともオレの両親には業界人の知り合いは1人もいない。
「趣味と仕事の両方で舞台にかかわっていれば、公私共々関係者は増えてくるさ。お前さんのご両親だって、そっちの業界の知り合いはとても多いはずさ。逆に俺は、お前さんのご両親の業界人に知り合いはいないかもしれん。親父さんとお袋さんは何をしてるんだ?」
通信業界と看護関係です。
「だったら、オレには10人もいない。だから、別にお前さんの両親の人脈がせまいってわけでも、俺の人脈が広いわけでもない。人脈ってのは、そいつが根付く業界内で広がっていくもんだ。まぁ、高校の中だと分かんないかもしれないけどな」
でも憧れます。業界には。
「だったら、お前さん、どういう事に興味がある?」
興味ですか?アニメ、特撮、声優、ラノベ、あとはガンプラかな。
「俺はお前さんと同じ歳でそれぞれの業界にかかわってる奴を10人は知ってるし、下っ端というか、末端として関わってる奴なら100人以上は知ってる」
本当ですか?
「業界業界って言うが、それを観客として楽しみたいのか、主役として楽しみたいのかで道は違うが、アルバイトができるようになれば、バイトとして関わる事は簡単にできる。役者や声優としてだったら、まじめにレッスンしてオーディションうけていれば、必ず道は開ける。この街だと芸能プロダクションなんてそんなにないが、東京や首都圏にいけば、芸能プロなんて100社以上が乱立してるんだ。模型やラノベも高校生でコンテスト常連になってる奴はいるし、高校生でライターをやってる奴も1人、2人みてきたな」
そうなんですか。なんか憧れます。
「だからさ、この時期は自分の方向性を決める大切な時期なんだ。
例えば、今、演劇部に入って、ついでにここの劇団にも入れば、将来、劇団関係で人脈は増えるだろうし、自分も役者としてレベルアップするかもしれない。
でも、水泳部に入れば、水泳は上達するだろうし、そっちの人脈は広がる。でも、選らばなかった道の可能性は途絶える。選ぶ道を間違えると後悔する。高校生活はたった3年しかないんだ。お前さんがこのまま、演劇部に入れば、ただただ後悔するだけだ。お前さんの人生なんだから、姉ちゃんじゃなく、お前さんが選択しな。俺が言えるのはそれだけだ」
ありがとうございます。あの、もう少し教えてもらっていいですか?
「なんだ」
監督は水無月ミミちゃんと会ったことは?
「挨拶だけだ」
高校生の内に、ミミちゃんに会うことはできますか?
「それは声優や歌手になれるかって意味でか?」
いいえ、監督の教えることができる範囲で。
「だったらここら辺のイベントを主催してるイベント興行会社のアルバイトに応募すればいい。高校生NGという条件をつけているアーティストもいるが、今はどこも人手不足だから、簡単に採用されるぞ。そこに登録すればライブやらコンサートやらに呼ばれるようにはなるはずだ。水無月ミミちゃんだったら県民会館でライブやるから、運がよければ選ばれるだろうな。ただ、ミミちゃんのライブは、ミミちゃんファンのスタッフが殺到するから、信用おけるスタッフにしか声がかからない。お前さんが登録して、いかに信用を得られるかだな」
ミミちゃんだけのコンサートで働くことは?
「それは無理だな。ABC27とミミちゃんだけそういうのが群がるんだ。そういうのは仕事そっちのけでステージ見ちまうから、ちゃんと仕事に集中してくれる奴がほしい。だから、それまでまじめに働いて、信用を得ないとだめだな」
難しいですね。
「そこであきらめて、何も始めなければ道は開かないし、可能性も開かない。だけど、進めば、道は開くかもしれない。可能性は広がるかもしれない」
この劇団に入れば、可能性は広がりますか?
「広がるな。少なくとも水泳部に入るよりは広がる。何より、俺が教えるんだ。間違いねぇ。
そのかわり、さっきも言ったが、俺の信用をなくすようなら破門するし、俺は水無月ミミちゃんの時は仕事の発注があっても下っ端だ。お前を直接会わせてやることはできねぇ。
それに劇団の仕事もある程度しこむが、ミミちゃんと関係ないからって、覚えたくねぇってなら、それもそれで破門にする。
それから、俺にもお前さんにも発注がこなければ仕事で現場に行くこともできねぇし、発注があっても全く関係ない部署だったら、遠目で見ることもできない可能性がある。3年間一生懸命努力して、仮に会えたとしても、1分にも満たない時間、たった一言『お疲れ様です』『ありがとうございました』ってお声掛けができるだけ。というか、会えるって可能性は、本当に低い。しかもお前さんは高校生だ。高校生でミミちゃんにお声掛けできるってのは、野球部が甲子園に出場するより難しいぞ」
でも可能性はゼロじゃない?
「もちろんだ」
オレ、水無月ミミちゃんに会いたいです。スタッフの仕事を教えてください。
「気に入った。よし、お前さんにはスタッフワークを徹底的に教えてやる。とりあえず、お前さんの姉ちゃんがこっちに来る時は一緒に来い。俺がいなければ役者と同じ稽古をしろ。少し慣れたなら、俺以外のスタッフにスタッフがどういう仕事をしたらいいのか聞いてまわれ。俺がいたら俺が直接教育してやる。泣き言は言うな。ダメだと思ったら、すぐ破門にする」
はい。
「それと重要なことを3つ教えてやる。
1つめ。自分が高校生だから、バイトだから、無給料だから、できません、わかりません、知りません、しません、って言葉は絶対に使うな。現場に出れば俺たちでも客を相手にする。
客から見れば、スタッフがプロだろうとバイトだろうと高校生だろうと関係ない。
つまり、バイトだろうが、高校生だろうが、プロと同じ行動をしなきゃならない。
方法はその時教える。だけど、覚えておけ。『高校生だからできません』って言葉を使えば、お前は誰からも2度と信頼も信用もされなくなる。これは禁句だ。
2つめ。学校ってのは結果が良くなくても、努力や過程を評価してくれるが、社会では努力や過程を評価してくれない。結果だけだ。『頑張っても出来なかった奴』と『頑張らずにできた奴』とでは『頑張らずにできた奴』の方が評価される。それが社会では当然なんだ。これを間違えるな。
それともう1つ、学校では〈理不尽〉な事ってのは少ない。ちゃんと理にかなった結果や結論、答えが用意されている。例えば『正しいことをしたから、褒められる』みたいな話だ。
だけど、社会では、『正しいことをしたから褒められる』とは限らない。
もっと悪けりゃ、『正しいことをしたのに怒られる』ってこともある。
本当によくある。
だけど、それで腐るな。
これはお前さんみたいな高校生だけじゃなく、大学生や新社会人にも言ってるんだが、『プロってのは〈理不尽〉に対して勝利しなければならない』って言葉がある。
例えば、スタッフの仕事でも、会場からありえない要求されることもある。主催やアーティストから無茶ぶりをされることもある。客からとんでもないクレームを喰らう可能性もある。
だけど、俺たちはプロだから、それに負けちゃいけないんだ。
どんなに〈理不尽〉にも、涼しい顔をして結果を出さなきゃいけない。
わかるか?」
ちょっと難しい話でしたけど、理解はできました。
「よし。話は以上だ」
はい、ありがとうございます。
「それから、今日から俺のことは監督と呼べ」
はい。
「あとで主催と演出が来た日にでも、2人には俺から紹介してやる。まぁ今はとりあえず――」
背筋をのばした。
「舞台屋〈トマトカレーパン〉にようこそ」
こちらこそ、よろしくお願いします。
そうしてオレは、自らの意思で、スタッフとして舞台にかかわることを選んだ。
* * *
「あいかわらず、人を乗せるのが上手だな」
「ちげぇよ、辞めるように突いたら、藪蛇というか、棚ぼただったってだけだよ」
俺は下山とラーメンをすすっていた。稽古上がりで一番近いラーメン屋に入った。お互い独り身の男同士、夕飯はラーメンで事足りる。
「あいつは使えるのか?」
「少なくとも、苦戦してる姉のほうより、見どころはあると思う。話してる途中からモチベーションがいっきにあがってきた。西爪よりも魅力はあるぞ」
「西爪じゃなくて、南爪な」
「教育方針さえ間違えなければ、いい裏方になると思うぞ。結果として藪蛇なのか棚ぼたなのかは、これからあいつがモチベーションを維持できるかどうかと、まっすぐ素直に成長するかどうかだ」
それは本人次第だ。今時の高校生は、俺たちが高校の時と違って情報過多すぎて、選択の道が多すぎる。だから、自分の意に沿わなければ、すぐに道を変更することもできる。
「まぁ、なかなかおもしろいじゃねぇか。入学して1週間かそこらで、ここまで明確に目標設定できる奴は珍しいぞ。もし、やる気なくなったり、使えなかったらすぐ破門にするとも言ってある」
「破門ってなんだよ。ここは道場でもなんでもないぞ」
「いいんだよ、そんなノリで」
下山はしゃべりながらでも食うのが早い。こちらはまだ麺もチャーシューも残っているのに、隣の皿はすでにスープだけになっている。追加オーダーで落とし飯を頼んだようだ。濃厚な味噌スープは、そのままだと飲み干すのが辛い。普通は残すのだが、追加トッピングの落とし飯をスープに入れて締めにするのが、この店での下山の流儀だ。
「ところでもう1人、こっちにやっかいになりそうな奴がいるんだが、そいつも教育してもらっていいか」
「なんだ?もう6人目の部員を確保したのか?」
「違う、副顧問が今年から付いたんだよ。見た目は若い新人の女の子なんだが、もう30になってる。いきなり顧問はキツイだろうからって、今年は俺の下について演劇部を見ることになった」
「30で新人とは変わってるな」
それは俺も思ったが、今はそんなことはどうでもいい。あぁ、さっさとこのラーメンをかきこんで、タバコをふかしたい。ダメだ、今は禁煙中だった。
「俺も恵温高校に来て5年目だからな。任期は最大7年だから、今年でも来年でもいなくなる可能性はある。だからさ、後任をしっかり育てておかないと」
「そっちも大変だなぁ」
「恵温は居心地いいんだよなぁ。市街地近いし。〈トマトカレーパン〉も帰りによれるし」
「最悪3年後じゃねぇか」
「まぁ、それでもさ、副顧問がいて困ることはないさ」
俺が食べ終わったのを見図ると、下山は伝票を持って立ちあがり、カウンターにごっそうさんと声をかけた。どうやら奢ってくれるらしい。
* * *
どうやら姉ちゃんは相当苦戦しているようだ。
今週初めから学校での練習も本格化してきた。ビデオで自分の演技を撮影して自分で確認する。自分の演技を客観的にみることで、自分のダメなところもいろいろ見えてくるらしい。同じ初心者のかぼちゃんは自分の演技を見て恥ずかしいらしい。オレも外郎売とストップ&ゴーだけ撮影したが、これは恥ずかしい。自分の演技を見るのは本当に恥ずかしい。で、姉ちゃんも撮影した自分の映像を見ているが、自分の想像とのギャップに恥ずかしいとかそういうのではなく、愕然としているようだ。
体育会系だったはずなのに、動きにキレはなく、動作が硬く、表情のバリエーションは乏しい。セリフは棒読み。
優れた役者というのは、自分の脳内でイメージした動きを自分の体や顔を使って再現する能力が高いらしい。だが、自分に甘い者は自分のイメージを下げてしまう、妥協してしまう。だから演出という役職がいる。
演出は想像したイメージを役者に伝え、役者を使ってそのイメージを再現しようとする。そして役者は演出に答え、演出のイメージを自分の体を使って再現しようとする。そうやって劇は作られる。
しかし、今の姉ちゃんは、自分がやりたい動きもはっきり明瞭にイメージはできていない。その上、体も表情も硬いので、それを再現することもできない。
かぼちゃんは彼女なりに動きを再現しようとしている。正直、動きは硬い。だが、それはオレも同じだ。監督に言われた通り、練習は全部一緒に受けている。いざとなれば役者としても舞台に立つつもりでいる。練習と並行して、渡された初心者用舞台用語リストを自宅で自習してくるようにも指示されている。客席から見て舞台右側が上手、客席から見て舞台左側が下手というのはわかった。そしてリストに記載された専門用語の数々。
――パネル、人形、あぶらげ、平台、サブロク、ロクロク、一間、半間、箱馬
――サス、スポット、バック、ピン、ブラックライト、バトン、客電、非常灯、LED
――ナグリ、ガチ袋、インパクト、ガムテ、ビニテ、養生、蓄光、メット
――しこみ、シュート、場当たり、バミリ、本番、客だし、バラシ
――はねっかえり、転がし、横当て、マルチ、吊り下げ
――演出、舞台監督、照明、音響、受付、客席案内
ただ、監督が言うには、上手と下手さえわかっていれば、後は経験で覚えていくらしい。大事な事はわからない時に、素直に「わからないので教えてください」と聞くこと、わからないことをわからないままにしない事だと言っていた。この教えは10代のバイトだけでなく、20代、30代のバイトやフリーター、新人社員にも教えていると言っていた。
膨大な専門用語をすぐに覚えるのは不可能だし、劇団や小屋によって専門用語が違う場合もある。たとえば三角形の平台を「三角」という場所もあれば「あぶらげ」と呼ぶ場所もある。人形を「にんぎょう」と呼ぶ場所もあれば「ひとかた」と呼ぶ場所もある。「はこ」というと、「会場」の事をさす場合もあれば「箱馬」をさす場合もある。
もちろん、専門用語は知っておいて損はないので、勉強しないよりかはした方がいいとの事で、とりあえず超初心者用の用語は覚えた。ここ2~3日で、上手と下手も癖づいてきたと思う。裏方とは演技ができない奴がやる仕事ではない、共演者のつもりでやれ、そう監督は言っていた。もちろん、役者とスタッフには明確な線引きもあるし、スタッフがキャストに口出しすることを風紀が乱れるからと言って嫌う劇団や学校もあるらしい。だが、スタッフがしっかりしていないと、どんなすごい演技も映えない。だからスタッフワークは重要なのだ。
先週末に〈トマトカレーパン〉の練習に参加してから、演劇部に来るのが楽しくなってきた。早く舞台の裏方をやりたい。もっと大きな舞台の裏方をやりたい。そして水無月ミミちゃんに会いたい。まだ初めの一歩も踏み出していないうちから、オレの右脳はミミちゃんに会うまでのサクセスストーリーを妄想しつつあった。
だが問題はある。この演劇部の存続の関係だ。軽音部との来場者勝負。正直にいえば、このままじゃ絶対勝てない。勝つためには根本的なパワーアップか、革新的な集客をしないと間に合わないはずなんだが、キャストはベテラン2人とズブの素人が2人。全員、女。
経験者という事で鳴り物入りにて入部した姉ちゃんは完全に期待外れで全く使えない。BL好き腐女子なら、「本当に君にはガッカリさせられる」と気だるげに悪態をつく大好物のイケボ声優の声が一瞬にして脳内再生できそうなレベルで、うちの姉ちゃんは使えない。
昔はどういう感じで演技をしていたか思い出そうとしているが、そもそも演技をしていたのは姉ちゃんじゃなくて美奈子なので、姉ちゃんが覚えているわけがない。
今日も壁にぶち当たり、ビデオを前に硬直している。完全に思考停止してる。
「せめてミナちゃんが出てきてくれたらね」
姉ちゃんに聞こえないように耳うちしてくれるのはせめての救いだ。
その言葉は姉ちゃんにとって禁句だ。美奈子はもう何年も前にいなくなった。もう出てくることはない。
「ミナちゃんはどうしたの?」
それは姉ちゃんの設定がどうなっているかわからないから、オレも答えようがない。
今となっては、あれは姉ちゃんが演じていたんだと思うしかない。
姉ちゃんが演じていた美奈子というキャラが、さらに演劇でキャラクターを演じる。二重の演技。劇中劇みたいなもんなのか。だが、確定していることは、もう姉ちゃんは美奈子には戻らないってことだけだ。
執行部の副会長がむかつくって一時の感情に流されて再び演劇部に入ったところで、周りに痛い奴だと思われたくない思いには変わりがない。だったら美奈子は出てこないままだ。部長も副部長もかける言葉が見当たらないみたいだ。こんな時に里中先生が来てくれるとうれしいんだが、今日は入学直後の学習進捗度確認テストの採点があるらしい。
と、律儀に部室のドアがノックされた。ドアをノックする生徒なんていないから、入ってくるのは新人の斎藤先生だろうなと思っていたら、やっぱり斎藤先生だった。部室の中で逢瀬と密会を繰り広げているわけじゃないんだから、ノックなんかせずに普通に入ってくればいいのに。
「あの、女池真奈美さん、ちょっと伝えたいことがあるんだけど、今、大丈夫?」
どうやら姉ちゃんに用らしい。
「この前の血液検査なんだけど、真奈美さんの申告した血液型と、採血した血液が一致しなかったみたいなの」
* * *
そして私は血液型の検査の為に病院にいた。学校は公欠になるらしい。
恵温高校は万が一の為の血液型の把握やら心臓病の有無だとか、そういうことにとても神経質らしく、ランニングも心臓に問題がないとわかるまではやってはいけないとかで。血液型の把握は授業よりも優先する事態らしい。わざわざお母さんが勤めている病院までやってきた。
この前学校で採決したばかりなのに、また検査の為に採決するのは憂鬱だ。
今まで自分をA型と思っていたが、どうやら私はAB型なんだとか。
まぁ血液型で性格が異なるなんてエセ科学は最初っから信じていないが、クラスメートにはそういう占いが好きな奴もいるし、それを占いやエセ科学だとは知らず、本当に学術的根拠のある常識だと勘違いしている輩も多い。そういう奴に限って、A型だのB型だのを気にする。A型はまじめで、B型はバカでわがままで高慢で、O型はよくわからなくて、AB型はレア。そういう迷信を周りが勝手に信じているので、私自身がA型かAB型かってのは、私が血液型占いを信じていようと信じていまいと、周りが勝手にはやし立てるから、とってもバカにできないほど重要なのだ。血液型ひとつで、差別や偏見と戦い続けなければならない。AとABじゃあ天と地ほども違うし、月と火星ぐらい違う。MS―06FとMS―06Jほど違う。源平討魔伝と月風魔伝ぐらい違う。何が言いたいかと言うと自分でも何が言いたいかわかんない。
「では左手を出して下さい」
そして左手を丁寧に消毒したあとゴムが巻かれ、細い手に血管が浮き出る。ここから先は痛そうなので目をそらす。チクリと痛みがあり、体の中に何かが入ってくる異物感が来る。
「はい、押さえててください」
私は泣いてなんかいないぞ。そうだ、泣いてなんかいない。16歳にもなって注射なんかで泣くわけがない。グスン。
「10分ほどで結果が出ますので、ちょっと待って下さい」
その間、待合室にあるウォーリーをさがせを見て時間をつぶした。子供向けの絵本だと思って侮っていたが、全然見つからない。ウォーリーはいったいどこにいるんだ?ウォーリーはいったい何から逃げているんだ?
1ページめの見開きも終わらぬうちにまた声をかけられた。
「女池さん、中へどうぞ」
くそ、ウォーリーめ、まんまと逃げおったな。奴はとんでもないものを以下略。
診察室に入ると、担当の医師は不思議そうな顔をして書類を見ていた。
「書類ではA型だと申請があったが、先週の採決ではAB型と出たらしいんだけど、おかしいな、こっちの採決はA型であってるんだよな」
よかった。どうやら私はA型のようだ。
A型ばんざい。
「もう一回、採決してみましょうか」
ふざけるな。
そして私は右手でもう一度採決することになった。
再び右手を消毒して、以下略、ちょっと待ってて下さい。16歳になって泣いてなんかいない。わんわん。これは犬が吠えただけです。わんわん。
今度こそウォーリーをとっ捕まえてやろうと絵本を取ろうとしたら、さっきおいた場所にない。待合室にいる小学生低学年くらいの男の子がウォーリーをさがせとにらめっこしていた。あの子はとんでもない物を盗んで以下略。
しかたがないから、ブックストックにおかれた数年前の女性週刊誌を手に取る。灰皿テキーラ?なんだそれは?
「女池さん、中へどうぞ」
再び呼ばれて、再び中へ。
「今日はお母さんかお父さんはご一緒ではない?」
「母はこの病院で勤務しています。第2内科の女池さつきです」
「大事な話があるので、呼んできてください」
と言われたので、自分の足で第2内科のナースステーションまで行き、お母さんの仕事がある程度終わるのを待ったが、けっきょく定時まで待つことになった。
そして2人で再び診察室に入る。このやり取りを今日は何回繰り返すんだ。
「右手と左手で血液型が違います。左手ではA型ですが、右手ではAB型です」
この医者は本当に国家試験に受かっているのだろうか?
そいじゃ何かい?あたしは右と左で体が違うってのかい?キカイダーかい?キカイダーなのかい?
「極めて珍しい症例です。詳しい検診を行いたいので、後日、1泊2日で入院検査をしていただきたい。部屋は融通がきかせられるので、早ければ明日にでも……」
つまり、今日出直してきて、またさらに2日かけて私の血液型を調べたいってことなのかい。どうやら今日だけでは結論はでないらしい。
奴はとんでもない物を盗んで行きました。私の1日です。それはかまわんが、もう注射は嫌だぜ。
* * *
「女池真奈美さんの血液型は『A/AB型キメラ』です」
1泊2日の血液検査の結果はゴールデンウィーク直前に出た。
「熊谷先生、聞いた事のない血液型なんですが……」
看護師をやっているお母さんでも聞いたことがないらしい。
隣にいるお父さんも不安そうに聞いている。
少し長くなるけどよろしいですか、と前置きして熊谷先生が説明しだした。
「血液型はA・B・O・ABの4種類だけではありません。Rh+とRh-ならご存知ですか?
それぞれの血液にはプラスとマイナスがあります。それに、それぞれの血液の中にも強い、弱いがある。赤ん坊の時に採決をすると、1年か2年経ったら血液型が変わっているということは珍しいことではない。血液型というのは4種類だけではない。
いいですか?ここまでは珍しくない事例です。
では今回、真奈美さんの体に起こっている事ですが、これは珍しい部類に入ると思います。
体の中を2種類の異なる赤血球が混ざっていることを『モザイク』と言います。
ですが、血液だけではなく、体の中に異なる2種類の遺伝子をもった生物のことをギリシャ神話に登場する伝説上の動物――頭はライオンで、胴体はヤギ、尻尾はヘビで、火を吐く怪物キマイラに例えて、その英語読みで『キメラ』と言います。
女池さんは、血液だけではなく、遺伝子自体が体の中に2つあります。
『モザイク』の原因は突然変異にありますが、『キメラ』の原因は、赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいるときに、異なる2つの遺伝子があり、その2つが交じって、成長して、そのまま生まれる事によっても発生します」
先生の話を聞いている途中、私の体はいくつもの体を繋ぎ合わせて作られたフランケンシュタインみたいな怪物なのじゃないかと妄想していた。
「さて、真奈美さん。ここから先の話はお父様とお母様に事前の聞き取り調査をしています。あなたはまだ知らない事実もあるでしょうけど、落ち着いて聞いてください」
なんだ、私は実は試験管ベイビーだったというオチか?
「真奈美さんは正真正銘、お父様とお母様の子供です。ただし、お母様のお腹の中にいる時までは双子だったんです」
――――双子?
「双子のことを医学的には双生児と呼びます。双子は血液型のキメラになる可能性が高い。
卵子が精子を受精して受精卵となり、胎盤にくっつきます。
1つの受精卵が分裂して生まれた双子のことを一卵性双生児と呼び、2つの卵子が排出され、それぞれ別の精子を受精して生まれた双子を二卵性双生児と呼びます。
そのまま生まれた二卵性双生児のペアも何%かは血液型のキメラになります。
今回のケースは、お腹の中にいた時には双生児で、ところがお腹の中で双生児の一方が死亡し、その死亡した方の遺伝子が生存している方に吸収されて、血液キメラが生じたと考えられます。真奈美さんは、お腹の中ではまだ双子だったのです。そうですね、お母様?」
――そうなの、お母さん?
「真奈美は無事に生まれたけどね。死産で、生まれなかった妹がいるのよ」
――初めて聞いた。
「もう名前も決めて会ったんだけどね。真奈美と、美奈子って言うのよ」
――美奈子?
「それって……?」
「そう、あなたが自分で自分を多重人格だって言っていた時があったわよね。その別の人格の名前、美奈子って名前は、あなたの生まれてくるはずだった妹の名前よ」
――美奈子は、生まれてくるはずだった妹?
「ねぇ真奈美、あれって、あの多重人格の時の、『美奈子』って名前は誰がつけたの?
私たちは美奈子の事は何も教えなかったはずなのに」
お母さんが私に聞いてくる。知らない。だって、美奈子はずっと美奈子だったから。
「私が聞きたいぐらいだよ。私っていつからあんなことやってたの?」
「しゃべりだしたころからだったよ」
お父さんが答えた。
しゃべりだしたころから、私は美奈子っていうキャラを作っていた?
そんなことがあるの?
「先生、教えてください」
熊谷先生に事情を説明した。私が演じてきた多重人格という設定について。
先生は困ったような顔をしている。
「私の専門ではないので、詳しい事は言えませんが、多重人格という事に関しては否定的に見ています。あくまで、私見ですけどね」
熊谷先生は困ったら顎をかく癖があるようだ。
「今回の件とはあまり関係ないかもしれませんが、臓器移植でこういう症例があることは聞いたことがあります。コネチカット州で心肺同時移植手術をした少年が、手術前と嗜好・性格が変わったということです。苦手だった食べ物が好物になり、物静かだった性格が非常に活発になった。
他にも、ミシガン州の夫婦は『コパスティック』というアメリカ人でも知らないような古い古典英単語を良く使っていたそうです。その夫婦が夫婦喧嘩をした直後、自動車事故で夫だけが死に、夫の心臓は少年に移植されましたが、ドナーの情報など知るはずもない少年が意味もわからずに『コパスティック』という単語を使うようになったそうです。少年は菜食主義者でしたが、肉料理を食べるようになり、音楽の趣味も変わってしまった。
さらに、不可思議な例があります。場所はわかりませんが、夫がなくなり、青年に心臓移植されました。やがて青年は意味不明の数字とアルファベットを書くようになったのです。
青年にはわけがわからなかった。アメリカでも日本でも患者とドナーとの面会は認められていないので確かめようがない。ですが、偶然にもドナーの奥さんと面談することがかなった。するとその意味不明な数字とアルファベットは、2人が学生時代、恋人同士だったころに交わされた暗号文だったのです。さらに青年が出した暗号の羅列を読むと、銀行名と口座、パスワードであることがわかった。その銀行には、生前にドナーが妻の為につくった口座があり、現金が預けられていたということです。そのことを妻は知らなかったのです。
今、3つの例を出しましたが、これは多重人格を肯定する材料ではありません。
ですが、内臓が記憶や感情をつかさどるという仮説の材料になっています。
記憶というものは脳の海馬というタツノオトシゴみたいな形をした部位によって脳に保存されているというのが定説です。だが、記憶の保存は内臓や循環器にもされているのではないかという大胆な仮説がある。
さて、その仮説を今回の真奈美さんに当てはめてみましょう。双生児でも、嗜好や性格に違いはあります。だが、嗜好や性格の違いとは脳がつかさどる物ではなく、内臓がつかさどるものだったら、もっと飛躍させて、遺伝子や細胞がつかさどるものだったとしたら?
体の中に2つの遺伝子情報があるのであれば、体の中でも、嗜好や性格が違う部分があるのかもしれません。ではそれが、多重人格の肯定になるかいえば、全くの別問題ですが、ただ、真奈美さんには、極端に嗜好や性格が変移する可能性については、他の人よりも圧倒的に高いとは思います」
そのあと、先生は、あくまで私見、科学的根拠は何もない、という断りを何度も何度も入れたが、そんなことはどうでもよかった。
私は痛い子だと思われるのが嫌で、多重人格を装っていた設定とお別れをした。
でも、もしかしたら、美奈子は最初から私の中にいたのかもしれない。
物心ついてから、多重人格キャラを装いたいから、別人格を演じていた、と思っていた。
そして、小学校5年生の時、クラスメートに痛い子だと思われるのが嫌で、多重人格をやめた。
でも本当は、美奈子は最初から私の中にいた。
多重人格になりたいから美奈子を作ったのではなく、私は最初から多重人格だったのだ。
周りに痛い子だと思われたくないから、最初からいたはずの美奈子を閉じ込めた。
「だとしたら、私は、美奈子を何年も外に出さないで閉じ込めていたってこと?」
――――そうだよ、真奈美
「ごめんね、美奈子」
――――うん、しょうがないよね、許してあげる。でもね……
「何?美奈子?」
――――この前のパン屋のクラブハウスサンド、私も食べたいな。
――――食べさせてくれたら、許してあげる。
「ねぇ、お母さん?」
「なに?」
「帰りに、〈倫敦夜曲〉によってくれない?美奈子がクラブハウスサンドを食べたいって」
「いいわよ、真奈美、美奈子」
「おかえり、美奈子」
お父さんとお母さんが私と美奈子を抱きしめた。
* * *
男子三日会わざれば刮目してみよ、とは日本のことわざであり、原文は士別れて三日なれば刮目して相待すべし、とあり、意味は3日も会わなければ別人になっているかもしれないから、前のままだと思ってはいけないと云う意味らしい。とは言ったものだが、この目の前の状況をどう表現していいかはわからない。
一昨日まではなかなか物覚えの悪かった新入生が、人が変わったような演技をしている。
その圧倒的な変化は私たち2人でも経験がないし、里中先生、斎藤先生も初めてのようだし、舞台屋〈トマトカレーパン〉のメンバーも驚いている。滑舌やパントマイム、指先の表現から、重心、体移動、ステップまでが全くの別人だし、豊かな表情とバリエーションある演技、細いのに遠くまで通る声、何もかもが私たちを驚かせた。
そして私にとっては、数年ぶりとなる女池美奈子との再会でもあった。
「愛宕君、あれは美奈子なの?」
「そうですね」
「いつから?何年ぶり?」
「5、6年ぶりです。昨日、病院でこの前の血液検査入院の結果が出たらしいんです。学校側は緊急時の輸血の血液型が知りたかっただけらしいんですけど、なんか生まれてこなかった双子の事とかまで知らされて、で、それをきっかけに美奈子がまた出てきたみたいです」
「どういう事なの?簡単にわかるように説明して?」
「かいつまんで話すと、普通の人間は1人分の遺伝子しか持っていないんですが、姉ちゃんは2つの遺伝子を持っていたそうなんです。だからといって、2人の性格とか人格をもっているとは限らないんですが……」
ふぅん、と相槌を打ってみるが、正直わからない。科学考証の根拠も曖昧らしいし、それで確証を得たわけではないが、その遺伝子が2つあったという事実が判明したということをきっかけにして、再び女池美奈子は真奈美に代わって外に出れるようになったらしい。
「美奈子が外に出てきたのは5年か6年ぶりです。オレも驚きましたよ。昨日、部屋にやってきて突然抱きついてきて『大きくなったね』なんて泣きだすんですもん」
「あんたたち2人は兄弟仲悪いんじゃなかったの?」
「真奈美とは悪いですけど、美奈子とは悪くないです」
「そんなもんなの?変な感じとかしないの?」
「そもそも5年か6年くらい前まではそれが普通だったので、特に変な感じはしないんです。うちに犬がいるんですけど、うちの犬は真奈美には全然なつきません。だけど美奈子にはとてもなついてました。昨日、数年ぶりにあってものすごい勢いで尻尾ふってましたよ。美奈子が声をかける前から、足音だけで美奈子が戻ってきたってわかったみたいです。
多分、オレや〈どぅるんが〉、すいません、うちの犬は〈どぅるんが〉って名前なんですが……それからうちの家族にとっては、真奈美と美奈子は別人なんです」
理解はできないが、納得はできた。
そこへ美奈子がやってくる。
「そうだよ、難しい事考えてるのは真奈美だけで、あたしは別になんだっていいんだよ。美奈子の存在はオカルトなのです。うふ」
うふ。とエクボに指を当ててまるで〈アイドル 〉のようなポーズをとってくる。
後輩でなかったら斬り捨てていたかもしれない。しかし、良く考えたら、真奈美の時は笑ってもエクボは現れなかった。美奈子の時は笑うとエクボが現れるようだ。それゆえに全くの別人に見える。
そういえば自称も「私」から「あたし」や「美奈子」に変わっている。
「これからは美奈子も外にでてもいいの?」
「うん。でも真奈美は、恵温高校の中では、演劇部以外では出ちゃダメだって言うの。つまんない」
「美奈子は勉強できるの?」
「う~ん、小学校5年生の問題くらいは解けるけど、めんどくさいのは真奈美に押しつける」
「入れ替わるのに、変身ポーズをとったりとか、復活の呪文を唱えたりとかそういうのは必要なの?」
「全然いらないよ、一瞬でできちゃう。コンバットタイムは1ミリ秒にすぎない」
「それはギャバンね」
「残念でした~。シャリバンとシャイダーですぅ。ギャバンは0.05秒でした~」
その場で私を莫迦にしたように、くるくる回りだす。後輩でなかったら以下略。
真奈美だったらこんなオーバーリアクションは取らないし、こんなにアニメや特撮のセリフをポンポン言ったりはしない。人を怒らせることは皆無だった真奈美と比べると、ちょっと人間関係に波を立てるかもしれないが、役者としては大変優秀であることも相違ない。部活存続の為に必要な5人の部員もいるし、役者3年生2人と役者希望の新人が2人、役者とスタッフ兼任できそうな男手が1人、これなら軽音部との入場者対決に間に合うかもしれない。今の美奈子なら、少し稽古をつめば、すぐに私とナツヒの相手役ができるかもしれない。
そうすれば、去年からマンネリだった2人芝居が終わる。
いける。
敵ばかり作って味方を作ってこなかった軽音部が相手なら、こっちにも勝ち目があるかもしれない。
いける。
私たちなら勝てる。
美奈子が戻ってきてくれたことで、私たち、恵温高校演劇部にも未来が見えてきた。
参考文献
「走れメロス」太宰治