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俺は商人の幌馬車の荷台に、腰を下ろしていた。乗り心地は最悪で、木製の車輪が小石を乗り上げる度、尻に衝撃をうけた。
ここは、人の乗る場所では絶対に無い。
乗合する木箱ですら、軋む音を立て弱音を吐いているのだ。
良い子の皆には、真似してほしくない。
商人と共に御者台に座る、マリーンが羨ましかった。
しかし彼女を荷台に乗せて、ツライ思いをさせる位なら、このままの方がずっと良い、そうも思えた。
背後の警戒の役目を割り当てられていた俺は、のどかな平原と離れて行くクラウンシティを黙って見続けている。尻の痛みに堪えながら。
雲が気持ち良さそうに大海原を流れていた。
なんだか心地よくなり、いつしか眠気との戦いに敗北してしまう。
目を覚ますと、既に日が傾いていた。
背後の警戒を怠たってしまったと、焦って見渡す。
しかし、現在も見える物は広大な平原しかなかった。太陽が、何者にも遮られる事なく、真っ赤に染め上げた平原だ。
それは息を飲む程に美しい光景だった。
夕陽をじっくり眺めるのは、いつぶりだろうか。
向こうの世界では、夕陽は通り過ぎるだけのものだった。
ただの日常だった。
いつか、この美しい夕陽にも、見慣れてしまう日が来るのかも知れない。そう思うと切なくて、心がキュッと締め付けられた。
それからも馬車は進み続け、夕陽がツルッとした頭頂部だけを残し顔を沈めてしまった頃に、漸く止まった。
尻が瀕死状態の俺は、その瞬間に飛び降りた。
長時間座っていたからか、若干足がふらつくが、大地の感触はとても気持ちよかった。
早く宿で眠りたい。
そう思い、馬車の進行方向を向くと…
…ひたすら平原が広がっていた。
荷台から見る景色と何一つ違わない、地平線まで続く平原。
俺は旅の恐ろしさを、初日から思い知る事となった。
呆然とする俺を尻目に、商人とマリーンは地べたに座り、会話を弾ませている。
彼女には聞きたい事があった。
会話を遮るのも忍びなく、話題の変わり目を待った。
「マリーン。ちょっといいかな」
「なに?」
「今日はどこに泊まるの?」
「ここだよー」
彼女は平然と言った。こんな平原のど真ん中で、文明とは程遠いこの場所で、たった三人で⁉
「まじで?」
「まじだよー」
まじか⁉旅人にとっては、野宿くらい平常運転のようである。
無論俺だって旅に野宿は付き物だという偏見はあったし、覚悟もしていた。
しかし、モンスターが出るという話は大丈夫なのだろうか。
今の所は見ていないが、ほとんどの肉食動物にとって、夜は活動時間だ。
モンスターが肉食じゃない可能性はある…が、ならば"モンスターから人を守る"なんて仕事が成り立つ訳がない。
「寝ている間にモンスターに襲われたりしない?」
マリーンに尋ねた。
「勿論襲われるよ!だから私達がロビーさんと一緒にいるんじゃない」
その口調は、「一は知らなかったの?」とでも言いたげだった。
お髭のロビーさんの顔にも「知らなかったのですか?」と書いてある。
知らないと言うのは憚られた。
少なくとも、雇い人のロビーさんに聞かれるのは避けるべきだろう。
「知ってたさー。勿論知ってたさー。もう最初からよく知ってたよ」
嘘をつくと必ず棒読みになる、これは幼い頃からの癖だった。
「当然、ですな」
お髭の紳士は、ホッホッホと笑いながら言った。
「それより、一もこっちに来なよー」
二人とも、俺のお粗末な嘘に納得したようだ。この世界の住人は皆、素直なのかもしれない。
マリーンに促されるまま、地べたに座る。瞬間、尻に違和感を感じ、悪寒が生じた。
「痛ってぇぇぇ!」
自分の声だと思えない程、大きな叫び声が野を駆ける。
座った場所を見ると、嘘をついた罰なのか、偶然そこには石があった。
石が俺の尻に、深手を負っていた尻に、追い討ちを掛けたのだ。
叫びながら飛び回る男の様子は、さながら古代の踊りにも見えた事だろう。
マリーン達は哀れな男を見て、爆笑していた。
しかし、気にしている余裕もなく、俺は跳ね続けた。
そんな出来事の何分か後、三人で会話をしていると、不意にマリーンが背嚢を漁り出した。
互いの表情は既に、鮮明には見えなくなっている。
彼女は、肘から指先まで位の四方の正方形を取り出すと、それを地面に敷いた。
そしてまた、ボロのリュックサックを漁り出す。
次に取り出した物は、小さなごつごつとした固形物だった。
輪郭からして、多分石か何かだろう。商店で買っていた石かもしれない。
彼女は背嚢を傍らに放り、物体を持ったまま立ち上がった。
「汝、火の御霊よ。我等にその力をかし給へ。」
マリーンが呪文のような言葉を唱えた。
すると、地面に置かれていた紙の上空に、突如燃え盛る小さな火球がボウッと顕れた!
灯りの下で見る四角形は、縁が不揃いで、洋紙に比べて薄くも白くもない、羊皮紙のようだった。
更に、ボロ紙の中央に描かれた図形をも、夜の闇に素肌を晒した。円とその内部に六芒星が描かれた、典型的な魔方陣といったかんじだ。その魔方陣は、血が乾燥したような赤黒い塗料で描かれていて、独特の不気味さを放っていた。
マリーンが六芒星の上に、石を置く。やはり、それは昼間の物と同一だった。
これが魔術なのか!科学では説明もつかない現象が、目の前で起きている。心なしか鼓動が速まった。
興奮を誰かと共有したかったが、この場に共感をおぼえてくれる人間は一人も居ない。
それどころか、ミーミアリアで共感してくれる人間は、いないだろう。
俺は眉をひそめたが、口許は自分勝手に緩んでいた。
夕飯は干肉と、蜂蜜味のオニギリの様な物だった。とても簡素だし、普段ならば一口で置いてしまっていただろう。しかし今は非日常!空腹は最高の調味料だという事をひしひしと実感し、有難く食べた。
「一、見張り番の順番を決めよ!」
食後、一服をしているとマリーンが言った。
「順番って先か後って事か?」
「そう!」
一は眉をしかめていた。
先と後、どちらも大差が無い様に思えたからだ。
「マリーンに任せるよ」
「分かった!じゃあ一が先ね。はい、これ時計。今は九時だから、二時になったら起こして!」
そう言って、古びた懐中時計を渡された。よく見ると裏側に文字が二つ、浅く彫り込まれている。酔っ払った蛇の様な文字で、書いてある事は理解出来なかった。だけど、恐らくはイニシャルだろう、そう思った。
マリーンとロビーさんは地面に、等身大よりも少し大きなボロ布を敷き、夢の中へ旅立とうとしている。いや、マリーンは既に旅立っていた。いびきをかいて、ぐーすかと気持ち良さそうにしているのだ。
彼女達が床に着いてから、まだ一分も経とうとしていない。
「流石に早過ぎるだろ!」
口から漏れるほど、圧倒的な早さだった。
その早さは、地球どころか、宇宙一を狙える程の速度だった。
俺はする事もなくなり、宙に浮かんでいる不思議炎と、マリーンの無防備な寝姿とを交互に見ていた。
時折そのルーティンの中に、星見を挟みを挟んだ。
この世界の夜空は、とても美しかった。
テレビ番組で紹介されるような、満天の星が、皆競うように輝きを放っているのだ。
そして、向こうの世界とは決定的に違う部分もあった。
月が二つあるのだ。
横に並んだ二つの丸は、双子のようにソックリだった。
言い訳ではないが、見張りを怠っていた訳ではない。
いくら二つの月が有ったって、今は夜なのだ。見える距離は多く見積もっても、十mが関の山だ。ならば見るのでは無く聞けばいい、夜の大地には虫の音と、時折吹く風の音しかないのだから!
俺の鼓膜を、マリーンのいびきが震わしていた。
ワォーーーーン
突如、狼の遠吠えの様な声が聞こえた。
声の主は、それ程遠くなさそうだった。
殺意が大地を蹴ってやってくる。
「愉快な夜になりそうだ」
鼻で笑い、余裕あり気に呟くが、その足は恐怖に震えていた。