*決定的
静かな露天風呂、空には輝く星がまたたいて、ここは人里離れた温泉旅館──佐藤 剛は、社員旅行に来ていた。
人当たりを良くするために、好きでもない社員旅行に参加する。
しかし今回は、きらびやかな場所から遠ざかりたい気分でむしろ有り難いと参加した。そんな気分になったのは他でもない、ジェティスという不思議な人物と関わったからだ。
そもそも、あの男は人間なんだろうか? 不思議な雰囲気と、夢とは言い切れないあの感覚。
そしてあの動きと攻撃は、とても人間とは思えなかった。
幽霊や心霊の類にはとことん弱い剛は「勘弁してくれ」と頭の中で叫んでみるも、あの男の存在は消せはしなかった。
旅館は山奥だけあって、道は緩やかなカーブを描いている。もちろん塗装はされていて、アスファルトだ。
夜風を心地よく感じながらブラブラと歩いていると、何だか焦げ臭い。その臭いを追うと、カーブの処で下から煙が上がっていた。
「えっ、まさか車とか落ちたか?」
駆け寄ろうとする剛の足を止めたのは──
「なんでだよ。なんでおまえがここにいるんだよ」
崖下を見下ろしている人影が見えたと思ったら、それはジェティスだった。
「おまえがここに来たから、俺がいただけだ。おまえを追いかけてる訳じゃない、おまえが俺に近づいているんだ」
ジェティスは驚く風も無く、剛を見据えた。
「なんだって? 俺が? どういうことだよ」
ジェティスはゆっくりとこちらに向き直り、聞き漏らしの無いように遅い口調で答えた。
「おまえが俺と初めて会った日、おまえは俺の波長とかみ合った。だからおまえは自然と俺のいる場所に来てしまう」
「波長? こないだの夢みたいなこと言うんだな」
「あれは夢じゃない。おまえの幽体が俺の波長に呼ばれて飛んで来た。あそこの空間はただの幽体ではプレッシャーがきつい、消滅する処だった」
「マジかよ」
信じらんねぇ、幽体離脱とか言うやつか? マジに勘弁してくれよ、オカルトとか嫌いなんだってば。どうしてだ、どうして俺の望まない方向に道が進む。そりゃあ、たまに刺激のある人生を考えたりするけど、それは今に不満が無い証拠で、俺は本気でこんな生き方望んじゃいない!
剛は苦い表情を浮かべて唸りを上げ、頭を抱えた。
「何か不満そうだな」
そんな剛を見つめて、ジェティスはつぶやいた。
「当たり前だ! 俺は──」
「別に俺が悪い訳でも、おまえが悪い訳でもない。そうなってしまったものは仕様がないだけだ。深く考えないで慣れろ」
この男、言うに事かいてなんてこと言うんだ!
「慣れろだって? こんな状況に慣れるなんて無理に決まってるだろ。何言ってんだよ」
「簡単だろう、立ち止まらずに通り過ぎればいい。立ち止まるおまえが悪いんだ。俺だって人間にこんな形で関わるのは意に沿わない。俺に対して疑問を持たなければ、そのまま自由な生活が送れるというものだ」
言われてみればそうかもしれない。だが、人間は疑問を好む生き物だ。
とりあえず、今の状況を聞いてみる。
「おまえ、何したの? 車燃えてるけど」
「言ったそばから質問かよ。そうだな、連続殺人犯を殺したと言えばわかるか?」
「連続殺人犯!? なんでこんなトコに……」
「警察の執拗な捜査に、車で逃げていたのだろう。俺は奴を悪しき者だとみなした」
「悪しき者? 悪人ってことか?」
「乱暴に言えばそうだ」
ガードレールから崖下を見下ろしていた剛は、半ば現実味を失いながら発する。
「あんた、そうやって悪い奴殺して生きてんの? それって……」
「別に正義だと思っちゃいないさ」
と、肩をすくめた。
「あんた、さっきの言い方だと人間じゃないってことだよな」
ジェティスは眉をひそめ、しばらく剛の目を見つめて沈黙した。
そしてふいに、
「今はまだ知らない方がいい。できればこのままずっと知るべき事じゃないが」
つぶやくように発すると、強い風が剛の視界をさえぎり、風が止んだ時にはすでにジェティスの姿は消えていた。
「……」
空を見上げる剛の耳には、鳥のはばたく音が微かに残っていた。
翌朝──旅館にいる人たちがざわついている。
「ねぇ、聞いた? 近くの崖から車が落ちたんだって。それが殺人犯の乗ってた車だって言うのよ~」
「警察から逃げようと急いでたから、ブレーキかけ損ねたって話よね」
同じ会社の女子社員が、すでにくわしい事を聞き出していた。
全ての真相を知っているのは剛だけだ。「知らなくていい事を知ること」が、これほど苦痛だとは思わなかった。
彼の普通の人生が、普通じゃない人生になった事は決定的だ。