伊達成実
これは伊達政宗の生涯(?)を参考にしていますが、彼の伝記ではありません。申し訳ありませんがご了承ください。
伊呂波がこの時代にタイムスリップしてから、2週間が過ぎていた。
部屋から出ることは極力控えろと小十郎こと片倉景綱にくぎを刺されたので、外を見ることはなかなかできない。
朝昼晩のご飯を持ってきてくれる女中が入ってくるときに障子が開けられ、その障子の隙間から垣間見える外の景色が時折懐かしく感じた。
障子は容易に開けることができる。
だが、伊呂波には怖くてそれができなかった。数少ない便所と、一日一回、わがまま言ってはいらせてもらっているお風呂、それ以外で少女が与えられた一室から出ることは許されていない。
直接的に、〔絶対に〕部屋から出るなと言われたわけではないが、片倉景綱の醸し出す雰囲気からは、「お前は危険だから、そこから出るな」。そう言っているように聞こえた。
この時代は、簡単に刀で人を殺してしまう、そんな時代なのだ。
きっと伊呂波も、逆らえば問答無用で殺されるのだろう。しかも授業でこの時代の刀には斬る、なんて用途はなく、突き刺す、という表現が妥当だと教えられた。
ずぶりと自分の腹に切れ味の悪い刀がささっている光景を思い浮かべて、吐き気がした。
まだ思わず真剣を握り締めたときの感触は、じんわりと手に残っている。
自分の志が招いた悲劇。
竹刀袋に縫われた風林火山の四文字を思い出して、自嘲めいた笑いが漏れる。
伊呂波がこの時代に来て与えられたものは、寝るときに身につける夜着だけであった。
着物を貸そうかと持ちかけられたこともあったが、断った。ただ、毎晩その日に来たカッターシャツ、下着、靴下を洗って干すので夜に着る夜着を貸してほしいというと、政宗は快く新しいものを与えてくれた。
そんな中である朝、伊呂波は真っ赤に染まった自分の布団を見て思わず悲鳴をあげそうになった。それを必死に飲み込んで、汚れた下着と夜着を脱ぎ、干してある乾いたカッターシャツに腕を通し、スカートのホックを止めた。急がなければならないので、カーディガンと靴下はほったらかしだ。
不定期にくるそれは、今は絶対に来てはほしくないものであった。
赤く滲んだ布団や夜着を見てどうすればいいのかを必死に考える。
取りあえず伊呂波は一気に買いこんだナプキンが入った紙袋から一つ取り出して下着につけた。
そのまま汚れた布団などを抱えて部屋から飛び出す。水汲み場はないかと庭を駆け回ると隅のほうにすぐに井戸が見つかったのでそこに駆け込んで桶に水を汲んだ。井戸で水を汲むなど初めてだったために使い方に悩んだがすぐに扱いに慣れてきて、井戸の隣に三つほど置いてある大きな桶に水をたくさん汲んで入れた。
たぷん、と大きな桶が水でいっぱいになると、伊呂波はそこに布団や下着をそうっと入れる。とくとくと漏れた水が、伊呂波のはだしの足にかかって、非常に寒い。
なにせ、肌寒い季節である。伊呂波はかじかむ手で汚れた部分をごしごしとこすり合わせながら大きくため息をついた。
誰かに見つかれば、恥ずかしさで自分は死ねるんではないかと思う。
多分、突然の環境の変化からなってしまったのだろう。
伊呂波の場合、一週間きっちりで基本終わるが、今回はひどそうだと考えるだけで憂鬱になった。4日目ぐらいから伊呂波が悩むことになるであろう腹痛も、気が重い。
布団はだいぶと汚れは取れたものの、まだうっすらと赤く残っている。下着と夜着は綺麗に取れた。
「どうしよう…」
真っ赤になった指先をこすり合わせながら、伊呂波は思わず泣きたくなる。
「伊呂波?」
後ろから声を掛けられて、伊呂波はびくっと身を凍らせた。
恐る恐る振り向くと、そこにはきょとんと眼を大きく開いている伊達成実が立っていた。
何度か話したことがある優男だ。
多分、この時代で一番話しやすいのは成実本人に違いないと伊呂波は勝手に認識している。物腰柔らかで、いつでも伊呂波に優しく接してくれるために伊呂波の張りつめていた緊張の糸が切れる。
だが、いま自分が置かれている状況を思い出して彼女は大きくのけぞった。
「あ、あ、あの、ごめんなさいっ」
そういいながら恥ずかしさで目じりに涙が溜まっていくのがわかる。
まだ成実は桶の中を見ていない。いや、見られたのかな。それすらも、解らない。
「…」
成実はあかくかじかんだ伊呂波の手と、桶に突っ込まれた布団を見て、ああ、そういうことか、と気まずそうに頭をかいた。
「ごめんなさい…っ」
恐怖か寒さか、よくわからないが声が震えた。
「女中の人に言ってくれたら、ちゃんとお湯で洗ってくれたのに。おいで」
まだ洗い途中のものを置いたままで、成実は冷たい伊呂波の手を握った。
そのまま屋敷のはなれにある一室に連れて行かれる。
「あの…」
伊呂波が戸惑いの声を上げるが、成実はそれを聞かず小さな部屋に伊呂波を押し込んだ。
床は泥を固めたような肌触りで、少しでこぼこしている。部屋の隅にはたくさんの薪が積まれており、成実はそれを幾本かとって、部屋の中央に放り投げた。それから慣れた手つきで火をおこし、外から拾ってきた枯れ葉などを火に入れた。瞬時に自分の周りの空気が暖かくなったのを感じて、伊呂波は火の近くに座りこむ。
成実は火かき棒でしばらく薪をいじっていたが、無造作にそれを置いて伊呂波の隣に腰を下ろした。
「さっき枯れ葉とりにいったときに、女中の人に洗っといてって言っといたから、安心して」
優しくそう言われて、伊呂波は小さくうなづいた。
みじめな気持で、胸はいっぱいである。
「あのね、伊呂波」
「…はい」
「そんなに遠慮すること無いんだよ。景綱、全然伊呂波が部屋から出てこないからきつくいいすぎたんじゃないかって気にしてたし」
片倉景綱の鋭い瞳を思い出して、伊呂波が思わずうつむいたのを見、成実は楽しそうにけらけらと笑った。
「政宗さまは君が持ってる持ち物に興味津々だったしね。でもあんまり怯えてるから、なかなか聞きずらいって困ってるし」
「…」
どう返していいのか分からない。きっと気を使ってくれているのだろう。
「未来の世界から来たってことは、君は政宗さまの運命を知っているんだろうね」
突如そんなことを言われて、伊呂波は思わず成実の横顔を見た。
「それとも、〔未来〕では、政宗さまの名は知られてすらいないのかな」
成実が湿っぽく言うが、それにこたえることはできなかった。
政宗は天下を統一することはできない。伊達政宗が天下を統一したなんて言う大きな歴史の流れは教科書には書いてなかった。
「なんて、言えないよね、そんなこと」
成実は困った顔をしている伊呂波を見て少し残念そうに笑うと、伊呂波の頭に手を置いた。
「未来がどんな世界かなんか知らないけれど、はやく帰りたい?」
「…」
こくりとうなづくと、隣で笑う物腰柔らかな男はそっか、とだけつぶやくと、それから黙り込んでしまった。なにか会話を見つけようと、伊呂波は脳をフル回転させる。
「…成実さまは、政宗さまのご兄弟か何かですか」
伊達という同じ名字を持つ二人の関係が気になった。
「…兄弟じゃないよ。政宗さまには弟が一人いるだけだ。俺は、そうだな、幼馴染かな」
何を思い出しているのか、目を細める成実を見ながら、伊呂波は相槌を打った。
「政宗さまはきっと、そんなふうに思ってないだろうけどね」
どこかさみしそうな声音だった。
「…成実さまは、優しいんですね」
本心から思ったことを口に出すと、彼は困ったように眉根を寄せた。
「そう、見える?」
「見えるっていうか…でも、優しいですよ。だって、こんな私も気にかけてくれて。そんな成実さまが、政宗さまはきっと大好きですよ」
きょとんと成実が目を大きく開いていた。
だが、くしゃっとその顔が緩んで、彼はおなかを抱えてうずくまる。
「そうだったら、嬉しいな」
それからまた、会話が消えた。
だが、伊呂波の心はなぜかほっこりと暖かい。
それがとなりで無言で座り込む青年のおかげだということに気づくのは、まだもう少し先の話。