誰も聴かない調律を、公爵だけが聴いていました
完璧な調律に、調律師の名前は残らない。
リディア・フェルトは宮廷唯一の調律師だった。舞踏会の1時間前に裏口から入り、大広間のチェンバロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュート――全17台の楽器を、たった1人で整える。開演までに狂いを消し、響きを揃え、何事もなかったように裏口から去る。今夜の旋律が称えられるほど、彼女の仕事は「最初からそうであったもの」として扱われる。
仕上がりが完璧であるほど、誰も調律師を思い出さない。楽師の名は称えられ、貴族たちはうっとりと踊り、誰もがこの響きを「演奏者の腕」だと信じる。リディアの名が呼ばれるのは、全てが狂ったときだけだった。――調律師を呼べ、と。
狂ったときだけ、名前のない声で呼ばれる。
――調律師を呼べ。
今夜も17台は完璧に揃った。リディアは音叉を懐にしまい、大広間を出た。これから広間は旋律と光で満たされる。楽師たちの名は称えられ、貴族たちは踊り、誰もがこの響きを「楽師の腕」だと信じる。
リディアの名前を知る人間は、宮廷に3人もいなかった。
帰宅すると、父が居間で待っていた。
「縁談がある」
没落貴族の父がこの言葉を口にするとき、それは「お前が家を救え」という意味だ。リディアは外套を脱ぎながら訊いた。
「相手は」
「クラウス・ヴェーバー公爵。北領の領主だ」
「……音楽嫌いで有名な方ですね」
「だから何だ」
「私は調律師です、お父様。不協和音にも程があります」
「調律師など辞めろ。妻になるほうが家のためだ」
「お父様。私が12年間、何をしてきたかご存じですか」
「楽器をいじっていただろう」
「宮廷の全ての楽器を、1人で」
「だから何だ。公爵夫人のほうが値打ちがある」
父はいつもそうだった。仕事を「楽器をいじる」で片づける。腕より名前。響きより家格。それが没落貴族の論理だった。
リディアは黙って音叉を磨いた。返事はしなかった。
北領への馬車は3日かかった。
公爵邸の門で迎えたのは、にこやかな初老の使用人だった。
「リディア・フェルト嬢でいらっしゃいますね。使用人長のハンスと申します」
「ご丁寧にありがとうございます」
「お荷物、お持ちしますよ」
「いえ、これだけは」
リディアは懐の音叉を押さえた。ハンスがそれを見て、目を細めた。
「ああ――旦那様から伺っております。楽器を整えるお仕事をされていると」
「ご存じでしたか」
「ええ。旦那様は、お嬢様のお仕事について大変よくご存じですよ」
「……音楽嫌いの方が、ですか」
ハンスはにこにこしたまま答えなかった。
クラウス・ヴェーバー公爵。黒髪、無表情。リディアが通された応接室に、楽器は1台もなかった。
「座れ」
2文字。リディアは椅子に腰かけた。公爵が向かいに座り、一拍だけリディアを見た。
「調律師だと聞いた」
「はい」
「どのくらいやっている」
「12年です」
「長いな」
「楽器が好きなので」
「俺は嫌いだ」
「存じております」
「それでも来たのか」
「縁談ですので」
「縁談は断れる」
「断れないから来ました」
公爵が一拍、黙った。
「……正直な女だ」
「正確な耳を持っていますので、嘘が下手です」
公爵の眉がわずかに動いた。何かを言いかけて、やめた。
「宮廷では何台の楽器を整えている」
「17台です」
「1人で」
「はい」
「時間は」
「1時間です。開演の1時間前に入り、開演までに終えます」
「それは――」
「不可能だと言われます。よく」
「言っていない。大したものだと言おうとした」
「……失礼しました」
「だが言わない。嫌いなものを褒める趣味はない」
「楽器がお嫌いなのに、私の仕事に興味がおありですか」
「興味はない。確認だ」
この人の台詞には無駄がない――とリディアは思った。短く、硬く、正確。整える必要のない声だった。
「この部屋の響きは合っているか」
リディアは反射的に耳を澄ませた。暖炉の火が爆ぜる音、窓枠の微かな軋み、椅子の脚が床に触れる振動――
「窓の蝶番がシャープに寄っています。油を差せば半音下がるかと」
沈黙。
「……楽器の話をしている」
「あ」
頬が熱くなった。職業病だ。耳に届くものがある限り、全てを整えたくなる。
「失礼しました。楽器がございませんでしたので、つい部屋を」
「置いていない。嫌いだ」
「……2度目ですね、そのお言葉」
「大事なことだ」
翌日、公爵邸での昼食に招かれた。長いテーブルに2人きり。銀の食器が並び、料理は丁寧に盛りつけられていた。
リディアがフォークを取った瞬間、隣のグラスが微かに鳴った。
共鳴だ。
柄がテーブルに触れた振動がグラスに伝わり、かすかなラの周波数を出している。リディアは反射的にグラスを押さえた。
「……何をしている」
「共鳴です。フォークの振動がグラスに伝わって――」
「食事中だ」
「はい。ですが――」
「グラスは鳴りたいんだろう。放っておけ」
「鳴りたいのではなく、共鳴しているだけです。意志はありません」
「なら尚更放っておけ」
「……放っておけません。不快な周波数が」
「不快なのは君だけだ」
「公爵はラの440ヘルツが不快ではないのですか」
「俺はグラスに周波数を求めない」
リディアは渋々グラスから手を放した。しかしグラスはまだ、かすかに鳴っていた。
我慢した。スープを一口。――ナイフが皿の縁に触れた。ファの音が出た。グラスのラと長三度。今度はフォークが鳴った。ド。
――ハ長調になっている。このテーブル。
リディアの手が動いた。ナイフの角度を2度傾け、フォークの位置を微調整し、グラスを――
「食事を調律するな」
リディアの手が止まった。公爵が低い声で言った。
「……すみません」
「グラス、ナイフ、フォーク。次は皿か」
「皿は陶器ですので周波数が安定しません。調律の対象にはなりません」
「安心した。皿だけは食事に使えるらしい」
「公爵。提案がございます」
「聞きたくない」
「このグラスの位置を3センチずらせば共鳴が止まります」
「ずらすのはグラスではなく、君の意識だ」
「意識では共鳴は止まりません」
「食事は止められる。食え」
リディアは黙ってスープを口に運んだ。公爵の口元が、ほんの一瞬だけ動いた。
食後、公爵が邸内を案内した。書斎、客間、庭園――そして、廊下の突き当たりの部屋の前で公爵の足が止まった。
「この部屋は?」
「……使っていない」
リディアは扉を開けた。
窓から差し込む午後の光の中に、ピアノが1台。埃ひとつない。床は磨き上げられ、壁際の譜面台には何も載っていない。使われていないのに、完璧に整備されている。
「音楽嫌いの方が、なぜこの部屋だけ」
「先代が残したものだ。処分していないだけだ」
「来客にお弾かせになるのですか」
「弾かせない」
「では、弾いてもよろしいですか」
「よろしくない」
「整えるだけでも」
「触るなと言っている」
「触りません。聴くだけです」
言いながらリディアはもう蓋を開けていた。職業病に抗えない。鍵盤にそっと指を置き、1音弾いた。
ラ。
完璧なラだった。
指が止まった。――妙だ。「先代が残した」ピアノにしては、整え方が新しい。しかし先代の時代と今とで調律技法がどう違うかまでは、1音では分からなかった。
「公爵。いつ頃整えられたものですか」
「さあ。俺は楽器のことは分からん」
「……そうですか」
「次の部屋へ行く」
公爵は背を向けた。早足だった。
リディアは鍵盤から指を離しながら、もう一度広間を見回した。埃ひとつない部屋。誰も弾かないピアノ。先代のもの――本当に?
引っかかりを残したまま、公爵の背を追った。
その夜、リディアは眠れなかった。あのピアノの音色が頭から離れない。何かが引っかかっている。1音では分からなかった違和感が、記憶の中で形を取り始めていた。
平均律の微調整。三度の丸め方。五度の幅。――リディアには「自分の癖」がある。師匠から受け継ぎ、年月の中で磨いた、リディアだけの仕上がり。
あのピアノの五度の幅が、わずかに狭かった。リディアと同じように。
偶然かもしれない。先代が同じ流派の調律師を使っていたのかもしれない。
――でも。
翌朝、リディアは公爵邸の庭を歩いた。朝露に濡れた芝生を踏みながら、無意識に鼻歌を口ずさんでいた。
習慣だ。正しい音程を体に保つために、朝一番で声を出す。
曲は、母から教わった子守歌。母が亡くなってから、この歌を人前で歌ったことはない。誰もいない大広間で口ずさむだけの、リディアだけの旋律だった。
ふと、気配を感じて振り返った。
公爵が立っていた。東屋の柱にもたれ、腕を組んで、いつからそこにいたのか分からないほど静かに。
「――続けてくれ」
リディアの喉が詰まった。
この鼻歌を、聴かれたことはなかった。誰にも。
「その歌は、前にも聴いたことがある」
リディアの手が、止まった。
「……どこで」
「宮廷だ。舞踏会の前に、大広間を確認しに行ったことがある」
「確認?」
「北領は宮廷に年間維持費を納めている。大広間の設備が適正に使われているか、定期的に見る義務がある」
――予算の確認。
リディアは少しだけ肩の力を抜いた。音楽嫌いの公爵が舞踏会の前に大広間にいたのは、領主としての義務。私の鼻歌を聴いたのは、たまたま。
そう思おうとした。けれど公爵の声が、ほんの微かに――半音ほど、上がっていた。
嘘をつくとき、人の声は上がる。リディアの耳は、それを聴き逃さない。
嘘か。本当か。分からなかった。分からないまま、公爵は踵を返し、「朝食だ」とだけ言って邸に戻った。
帰室して懐に手を入れた。――音叉がない。庭で落としたか。芝を探したが、見つからなかった。代わりの道具はある。仕事に支障はない。けれど母の形見だった。
朝食の席で、ハンスが紅茶を注ぎながら言った。
「お嬢様は宮廷で楽器を整えるお仕事をされているとか」
「はい」
「旦那様も、宮廷の舞踏会には毎回いらしていますよ」
公爵がカップを置いた。磁器がテーブルに当たる。硬い。
「ハンス」
「はい、旦那様」
「余計なことを言うな」
「余計ではございません。お嬢様への情報提供でございます」
リディアの中で、何かが繋がった。毎回。――毎回の舞踏会に来ている。予算確認だと言った。だが予算確認なら年に1度で十分なはずだ。
訊きたかった。でも、まだ確信がない。
「公爵は……舞踏会を楽しんでいらっしゃるのですか」
「楽しんでいない。義務だ」
「毎回ですか」
「北領の立場では、欠席は難しい」
ハンスがにこにこしながら紅茶を注ぎ足した。
「旦那様はいつも、開演前にはいらして、開演と同時にお帰りになりますけれど」
公爵がナイフをテーブルに置いた。金属が鳴った。
「ハンス」
「はい」
「解雇する」
「ご冗談を。解雇は不協和音です――旦那様のお嫌いな」
「黙れ」
「かしこまりました。紅茶のお代わりはいかがですか」
「いらん」
ハンスはにこにこしたまま部屋を出た。
開演前にいて、開演と同時に帰る。――開演前。楽器を整えている時間。
でも予算確認なら、楽器が整えられている状態を確認するのは理にかなう。開演後に確認しても意味がない。
合理的な説明はつく。――つくのに、胸の奥が騒ぐ。
「……空調の確認もされているのですか」
「ああ。大広間は広い」
「あなたの声、今、半音上がっています」
公爵が黙った。
「嘘をつくと声の周波数が微かに上がります。この耳には分かります」
「……厄介な耳だ」
「ありがとうございます」
どこからが嘘で、どこまでが本当なのか。分からない。
――でも。調律師の耳は、答えが近いことだけは知っていた。
3日目の午後、リディアは公爵の書斎で本を読んでいた。公爵が許可した――というより、「好きにしろ」の2文字で全権を委ねた。
棚の端に、1冊だけ背表紙の色が違う冊子があった。
『宮廷楽器の調律と保守に関する技術概要』。
手が震えた。――いや、まだ早い。公爵は北領から宮廷に予算を出している。維持費の妥当性を検証するために技術資料を読む。それは合理的だ。
付箋の位置を確かめた。「音叉の基準音」。「平均律の原理」。「倍音の調整」。
――これは予算に関係ない。維持費の検証に、倍音の調整原理は不要だ。
リディアは本を棚に戻した。指先が震えていた。
「それは参考書だ」
振り返ると、公爵が書斎の入口に立っていた。
「何の参考ですか」
「……予算の査定に、技術的な理解が必要だった」
「付箋が3箇所ありました」
「ああ」
「全て、維持費の査定には無関係な箇所でした」
公爵が黙った。視線がわずかに揺れた。
「……読む場所は俺の自由だ」
「もちろんです。ですが、倍音の調整原理が予算に影響する場面を、私は12年間で1度も見たことがありません」
「……」
「お会いして3日目ですが、公爵が楽器のことを分からないという主張は、現時点で4回却下されています」
「数えるな」
「耳で生きておりますので」
リディアは言葉を飲み込んだ。まだ、確信がない。確信がないまま問い詰めれば、嫌われる。嫌われることが怖いのではない――この人の秘密を暴いて、この人を傷つけることが怖い。
「……すみません。忘れてください」
公爵の顎が硬くなった。
その夜。リディアは客間で天井を見つめていた。
ピアノの五度の幅。鼻歌を知っていた。開演前。技術書の付箋。
眠れなかった。目を閉じるたびに、あのピアノのラが耳の奥で鳴った。
確かめるには、あのピアノの前に座るしかない。1音では分からなかった答えが、全鍵を弾けば出る。調律師の耳は、嘘をつけない。
翌朝。
リディアは公爵に断りを入れず、廊下の突き当たりの部屋に入った。扉を閉め、ピアノの前に座り、低い方から1音ずつ弾いた。
ド。レ。ミ。ファ。ソ。ラ。シ。――もう1オクターブ。もう1オクターブ。
全鍵を弾き終えたとき、リディアの指が鍵盤の上で止まった。背筋に冷たいものが走った。
――この整え方は、先代のものではない。
三度の丸め方。五度の幅。ラの減衰の長さ。全て、リディアの癖だった。リディアの仕上がりを、誰かが完璧に再現してある。偶然ではありえない精度で。
音楽嫌い。先代が残した。処分していないだけ。――全部、嘘だ。
扉が開いた。公爵が立っていた。
「――何をしている」
「確かめていました」
「確かめた、と」
「はい」
リディアはピアノの前に座ったまま、公爵を見上げた。
「公爵。このピアノは先代のものではありません。私の整え方が再現してあります。三度の丸め方も、五度の幅も、ラの減衰も――全て、私の癖です」
公爵の喉が動いた。
「なぜ嘘をつかれたのですか」
沈黙。長い沈黙。暖炉の火が爆ぜる音だけが聞こえた。
「……答える義務はない」
「ありません。ですが――私は自分の仕上がりを、こんなに丁寧に再現してもらったことが、1度もありません」
声が震えた。こらえた。
「宮廷の誰も私の名前を知らないのに、この邸に私の音があります」
「……」
「それを整えた人は、私の仕事を相当長く聴いていなければ、この癖は掴めません」
「……楽器のことは分からんと言った」
「はい。嘘だと思います」
「……」
公爵の声が硬かった。怒りではない。もっと脆い何かを、硬さで包んでいた。
「……この縁談を受けるな」
「え?」
「君は宮廷の調律師を続けるべきだ。俺の妻になれば、仕事は辞めることになる。君の響きが死ぬ」
「それは――」
「3年間、あの大広間の響きを聴いてきた。全て君が作っている。それを潰す縁談を、俺は受けない」
リディアの目が熱くなった。泣くな、と自分に言い聞かせた。泣いたら音程が狂う。
「公爵。それは私の仕事が大切だということですか。それとも――私が」
「帰れ。今日は」
ペンを握る手が、白かった。
客間に戻り、リディアは窓の外を見た。断られた。――私の響きを守るため。
音が大切なのか。私が大切なのか。
分からない。――帰りたくなかった。
翌朝、リディアは帰らなかった。
公爵の書斎の前に立ち、扉を叩いた。
「入れ」
「公爵。昨日の続きを」
「断ったはずだ」
「不協和音は放置すれば曲が壊れます」
「……音楽の比喩で口説くな」
「口説いていません。楽理です」
「楽理だろうと口説きだろうと、答えは同じだ」
「では楽理として申し上げます。解決の方法は2つです」
「聞いていない」
「片方が譲るか、新しい和音を見つけるか」
「……」
「私は仕事を辞めません。妻にもなります。両方です」
「そんな調律は聞いたことがない」
「私が初めて試みます。――12年、楽器を整えてきました。新しい和声を作るのは得意です」
公爵が黙った。長い沈黙だった。
「……一晩、考える」
「お待ちします。音叉は300年経っても狂いません。私の気持ちも」
「……比喩をやめろ」
「事実です」
翌朝。
リディアは荷造りを始めた。代わりの音叉を箱にしまいながら、庭で失くした母の形見のことを思った。あの音叉だけは、取り戻せない。
客間の扉が叩かれた。
「リディア嬢。お客様でございます」
ハンスの声だった。扉を開けると、廊下に父が立っていた。
「お父様?」
「縁談の件だ。公爵に直接話をつける」
「お待ちください。私が――」
「家の問題だ。黙っていろ」
父はリディアの横を通り過ぎ、書斎に向かった。リディアは後を追った。
書斎の扉が開いた。公爵が立ち上がった。
「フェルト男爵か」
「公爵。娘との縁談、フェルト家として正式にお受けしたい」
「誰が申し込んだ」
「は?」
「この縁談は、俺が調律師リディア・フェルトを指名した。フェルト家を指名したのではない」
父の顔が強張った。
「しかし、縁談とは家と家の――」
「家名に興味はない。俺が求めたのは、宮廷の全ての楽器を1人で完璧に整えられる人間だ。その人間がたまたま男爵の娘だっただけだ」
「調律師など――」
「など、と言ったか」
公爵の声が一段下がった。リディアには分かった。この声は怒りの周波数だ。低く、静かで、振動が深い。
「12年間、宮廷の楽を支えてきた人間の仕事を――『など』で片づけるのか」
父が口を開き、閉じた。何も言えなかった。
「フェルト男爵。帰れ。縁談の話は――リディアとする」
初めて、名前で呼ばれた。
父は何も言わずに踵を返した。廊下を歩く足音が遠ざかる。その足音すら――半音、下がっていた。
書斎に2人が残された。
公爵が机の引き出しを開けた。小さな革の袋を取り出し、リディアの前に差し出した。
「開けろ」
リディアは袋を開けた。
中に入っていたのは――音叉だった。
母のものだ。3年前に宮廷の大広間で落としたと思っていた、あの形見。
「……これは」
「3年前の秋の舞踏会だ。楽器を整え終わった後、大広間の床に落ちていた」
リディアの指が震えた。
「返しそびれていた」
「3年間、ですか」
「ああ」
「36回の舞踏会を、毎回見逃したのですか」
「……数えるな」
「数えます。耳で生きていますので」
公爵が息を吐いた。
「あの日――予算確認ではなく、大広間に入った。楽師たちはまだ来ていなかった。床に音叉が1本、落ちていた」
「……」
「拾った。届けようと思った。だが持ち主の名前を誰も知らなかった。楽師に訊いても、使用人に訊いても――裏口から来て裏口から帰る人間の名を知る者は、1人もいなかった」
公爵が言葉を切った。
「……仕方がなかったので、本を買った」
「本?」
「宮廷楽器の調律と保守に関する技術概要。――あの音叉の持ち主が、どんな仕事をしているのか知りたかった」
リディアの息が止まった。あの付箋は――。
「読んだ。倍音の調整原理まで読んだ。1度、自分で邸のピアノを整えようとした」
「……それで」
「3日で弦を2本切った」
泣きたいのに、笑ってしまった。
「次の舞踏会で、開演前に大広間に行った。持ち主を見つけるために」
「……それが」
「3年前の冬だ。大広間で――子守歌を歌いながらチェンバロを整えている女がいた」
リディアの視界がにじんだ。
予算確認は、嘘だった。あの半音上がった声の正体。――この人は、3年間、私を探していた。
「楽器が嫌いなわけではない」
公爵がリディアを見た。まっすぐに。
「君の響き以外に、興味がないだけだ」
リディアは音叉を握りしめたまま、唇を震わせた。
「――それは告白ですか。それとも音響工学の講義ですか」
「両方だ」
「では査読が必要です。その響きの正確性を――」
「いいから受け取れ。音叉も、気持ちも」
頬を涙が伝った。泣いたら音程が狂う。けれどもう、正しい音程を1人で守る必要はなかった。
「――受け取ります。両方」
1か月後、宮廷の舞踏会。
リディアはいつも通り、開演の1時間前に大広間に入った。17台を整え、最後の1音を確認したとき――正面扉が開いた。
クラウス・ヴェーバー公爵が入ってきた。大広間を横切り、リディアの前で足を止めた。
「まだ終わっていないのですが」
「構わん」
「お客様の前では鼻歌は歌えません」
「客ではない。婚約者だ」
「……婚約者でも、仕事中は」
「37回目だ。37回目にしてようやく、裏口からではなく正面から来られた」
正面扉の向こうで、声が聞こえた。楽師の1人が隣に囁く。
「――調律師風情が、公爵と?」
公爵の足が止まった。振り返った。
「今、何と言った」
楽師が凍りついた。
「この大広間の全ての楽器を整えているのが、俺の婚約者だ。――名前はリディア・フェルト。1人で17台を支えてきた人間だ」
大広間に沈黙が落ちた。
楽師たちが顔を見合わせた。「調律師を呼べ」と名前も知らずに呼んでいた相手が、今、公爵の腕の中にいる。
ハンスが正面扉から顔を出した。
「旦那様、開演まであと45分でございます」
「入れるな。あと15分」
「かしこまりました。空調の確認でございますね」
「……黙れ」
ハンスはにこにこしながら扉を閉めた。
大広間に、2人だけが残った。
リディアは音叉を鳴らした。母の形見。3年間、公爵の手の中にあったもの。
澄んだラが、天井まで昇っていった。
「リディア」
公爵の声が、音叉より先に届いた。
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