第2話:怪物の咆哮は、ただの「危ないぞ」だった。
「なんだよあれ……」
全身から一気に汗が噴き出す。心臓が鳴り始める。これは本能だ。危ない、逃げろ、と体が叫んでいる。
「こ、殺される……」
気づいたら走っていた。怪物とは逆の方向へ。
追いつかれるかもしれないとか、そんな事を考える余裕はなかった。とにかく離れなければという一心だった。
しかし、恐怖と焦りで足がもつれ、盛大に転んでしまった。
地面に手をついたまま、後ろを振り返る。まだ来ている。距離が縮まっている。
――訳が分からない内にこんな場所に放り出されて、もう死ぬのか。
その瞬間、手元の棍棒に視線が飛んだ。
……そうだ、これがある。
使えるかどうかなんて分からない。役に立つかどうかも分からない。
でも逃げられないなら、せめて道連れにしてやる。そのくらいの気持ちで立ち上がった。
「うわあぁぁ! 来るなあ!」
10メートルほどの距離にまで近づいてきた怪物に向かって、棍棒を振り回す。
「…! …!!」
怪物が吠える。だが関係なかった。声を張り上げて、ひたすらに棍棒を振り回す。
これで追い返せるかもしれない。それだけを祈っていた。
そして。
「いいかげんやめろ! あぶねーだろ!」
声が聞こえた。
……え? 日本語?
腕を振るのをやめて、目の前の存在に視線を移す。
怪物――いや、その存在はこちらの動きが止まったのを確認して、警戒するような間を置いてから口を開いた。
「ようやく静かになってくれたか。いきなり暴れるなよ、びっくりするだろ」
言葉の意味は理解できる。
しかし驚きで声が出ない。
「どうした? とりあえずその物騒な物を下ろしてくれよ」
言われるがまま、棍棒を地面に置いた。
「お前、人族だろ? 初めて見るよ。どうしてこんな所にいるんだ?」
「あ、いや、俺……気付いたらここにいて、ここがどこかも分からなくて……」
改めて、目の前の存在を凝視した。
頭部は獣そのものだ。突き出した鼻先に、湿った鼻腔。
……いや、狼というよりは、どこか見覚えのある「犬」に近い。
ピンと立った耳の奥で、琥珀色のつぶらな瞳が不安げに揺れている。
首から下は茶色の体毛に覆われているが、その骨格や立ち姿は驚くほど人間に近い。
逞しい腕も、地面を捉える足も、獣の野蛮さと人間の理性が奇妙に混ざり合っている。
得体の知れない怪物だ。
それなのに、武器を構えるこちらを怯えるように見つめるその姿には、凶暴な殺意など微塵も感じられなかった。
「あんたは一体何なんだ? その姿……人間じゃないよな」
問いかけると、彼は「ふいっ」と喉を鳴らして首を傾げた。
犬顔ゆえに細かな表情までは分からない。
だが、ピンと立っていた耳が少し後ろに倒れ、困惑したような空気が場に広がる。
「え、お前、コボルトを知らないのか? 確かに魔族はいろいろいるけど……さっきの様子じゃ、魔族自体知らないみたいだな」
驚いたことに、その口から流暢な人間の言葉が漏れた。
コボルト。魔族。そして、俺たちのような人族。
一気に「異世界」という実感が押し寄せてくる。
つい数秒前まで殺す気満々で棍棒を握っていた相手と、こうして言葉を交わしているシュールな状況も含めて。
「俺、ここがどこかも知らないし、コボルトも初めて見たよ。正直何がなんだか分からないんだ」
コボルトはこちらをしばらく観察した後、
「嘘をついてなさそうだな。変わった服も着てるし、異国の旅人なのは間違いないよな。記憶喪失か……?」
と続けた。
記憶喪失。
別の世界から来たなんて説明しても混乱させるだけだろうし、記憶喪失ということにしておいた方がいいか。
「いや、覚えてないんだ」
「……そっか、まあその内思い出せるだろ」
楽観的な声で返してくれた。
気を遣ってくれているのかもしれない。
「ま、とりあえず行く当てもないなら俺の住んでる村に来るか? 今日の飯と寝床くらいは都合してやるよ」
その一言で、ぐっと何かがこみ上げてきた。
「俺はテオック・ルオノー、お前の名前は?」
「俺は朝井 陽平、陽平だ」
「ヨウヘイか、よろしく。とりあえず着いて来な」
死ぬほど運が悪いと思っていたのに、こんなに優しい人に出会えるなんて。
捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものだ。怪物なんて思っててごめん、テオック。
「ありがとうテオック、あんた凄く良い人だな……!」
「よせよ、照れるだろっ」
***
テオックを先頭に、森の中の小道を歩いていく。見慣れない木々が鬱蒼と茂り、足元の草は異様なほど青い。ここが別の世界であることを、改めて実感させてくる景色だった。
「村まで着くまでにはどれくらい時間かかるんだ?」
「ん~、多分日が傾くくらいまでには着くだろうな」
まだ日は高かった。近所というわけにはいかなそうだ。
自分の服装は軽く外に行けるスタイル――某アパレル店のトレーナーにチノパン、スニーカー。異世界の森を歩くには少し心もとないが、今のところはなんとかなりそうだった。
「ヨウヘイはどこから来たとか、何か覚えてる事はあるか?」
テオックは俺が記憶喪失だと思っている。
「いや、覚えてないんだ」
「……そっか、まあその内思い出せるだろ」
さっきと同じ返事だった。それ以上は踏み込んでこない。ありがたかった。
とりとめのない会話を交わしながら歩くこと2、3時間。次第に小道の幅が広くなり、木々の密度が薄れてきた。遠くに建物らしきものが見え始める。
「もうすぐだ、あそこが俺の住んでる村、アステノだ」
俺は棍棒を握りしめながら、その村を見据えた。
これが俺の、異世界での第一歩らしい。
能力は棍棒を出すことだけ。チートも加護もない。あるのはしょぼい能力と、なぜか仲良くなれたコボルトが一人だけ。
……まあ、なんとかなるだろ。きっと。




