第一章 鐘が鳴る街の手紙
戦争は遠い——はずだった。
けれど、ここ鈴櫛では、毎日が少しずつ戦争に食べられていく。パンは買える。だが靴底は薄い。腹は鳴らないが、心はいつも何かが足りない音を立てる。
潮の匂いと鉄の粉が風に混ざる午後、俺は古道具屋「綾辻」の前で立ち止まった。軒先に吊られた柱時計は、やっぱり三分遅い。
ドアを押すと、鈴が鳴った。中は古い木の匂い。並ぶのは、傷だらけの道具たち。
「——もうすぐだよ。糸が張りはじめてる」
店の奥から、少女の声。
現れたのは、黒髪をひとつに束ねた綾辻 澪。瞳の色が、なぜか音に敏い。
「あなた、糸に触れる人?」と、彼女は言った。
「糸は見えない」俺は素直に答えた。「俺に見えるのは、錆と歪みだけだ」
「それでも、役に立つ。鈴櫛では、放っておくと崩れるから」
彼女は微笑むと、腰の布で手を拭いた。
俺は名乗る。「西宮 蓮。修理のバイト。通りすがり」
「嘘」澪は軽く首を傾げる。「何かを取りにきた顔。糸がそう言ってる」
言葉が胸の奥に落ちた。俺の胸には、封筒がひとつある。ざらつく手触り。差出人は母。
中身は、十九になったら開けろとだけ書かれた紙——いや、紙らしきもの。
そして今夜、俺は十九になる。
店を出ると、鈴櫛の港通りがざわついていた。
徴募券の照合所が臨時で開かれ、青いカードを掲げた人々が列を作る。合衆領の治安部が目を光らせ、その後ろには、透明な壁で囲まれた富裕層クラブ「ガラス箱」。
中にはドレスの女——ヘレナ・カドウェルが、笑いながらシャンパンを傾けている。
戦争は遠い? いいや、観戦席つきで、ここにある。
「行かないの?」澪が横に並んだ。「封筒」
「零時に鐘楼へ、と母は書いた」
「じゃあ、行かなきゃ。世界がほどけやすい時間になる前に」
俺たちが歩きだすと、透明の壁の向こうから男が声をかけてきた。
白い歯、整った髪、合衆領の訛り。
「君たち、面白い顔をしてる。ガラス箱に入らないか? 若い“感性”で戦況を読むのは愉快だ」
ヘレナが笑って手を振る。「私、あなたたちの選択に興味があるの。ねえ、願いって、いくらで買えるの?」
俺は立ち止まらない。怒りは、もう燃えない。
胸のどこかで、温度が最初から低い。
「——買ったところで、失うのはあなたじゃない」俺は淡々と言う。
ヘレナの笑みが少しだけ歪む。
東雲隊長が間に入って軽く会釈した。「若者の時間を奪わないでいただけますか、お嬢様」
俺たちは港道を外れ、鐘楼に続く裏路地へ入った。石畳に錆色の水が走り、電線の影が細く揺れる。
「蓮」澪が言う。「——あなた、もう怒れないんだね?」
「ああ」俺は嘘はつけない。
「どうして?」
風の音に混ざって、駅前のざわめきが蘇る。
第一章より前、まだ灯が十四になったばかりの日。
検問で列が詰まった。治安部の犬が、灯の徴募券を覗き込む。
“抽選が早まった。君は今週だ”
灯の指が震え、俺の袖を掴む。列の進みが悪い。目の前の壁時計は三分遅い。時間は足りない。足りないのは、ほんのわずかな“早さ”。
——その時、耳の奥で鐘の胎動がした。
“代わりに、何をほどく?”
俺は小さく答えた。怒りだ。いつだって、俺を失敗に導いた、火。
持っていけ。
世界がひと呼吸、滑らかになって、俺たちは列の死角を抜けた。灯のカードに微細なノイズを入れて通し、逃げるように帰った。
怒りは、その日から燃えない。燃えない代わりに、考えがよく噛み合う。
——だから今、ヘレナに噛みつかなかった。
「……そう」澪は短く頷く。「欠落。戻らない」
「戻らない」俺は繰り返す。
路地の先で、金属が崩れる音。声が交錯する。
見れば、工事足場が片側だけ折れ、その上段に少年が取り残されている。下では治安部の徴募兵が怒鳴っている。
「降りろ! 怪我でもしたら従属市民の損耗率が上がるだろ!」
「待って」澪の瞳が遠くを見るように細くなる。「糸が、ほどけてる」
「上から三段目、左の継ぎ手が死んでる」俺は見ただけで言う。「三秒稼げばいい」
計算は早い。怒らないと、世界は静かに計れる。
俺は足場に飛び乗り、少年の手首を掴む。
「右足を上げろ。俺の“合図”で跳ぶ」
「こ、こわ……」
「怖いのは理に合ってる」澪が下から支える。「でも、今が最適」
耳の奥で、遠い鐘。
世界は、また交換を持ちかけてくる。だが、もう払う欲はない——少なくとも、今ここで失うべきものは。
俺は既に怒りを手放している。その冷たさで、三秒を捻出する。
「今だ」
少年の体が軽くなる。足場が悲鳴をあげ、俺たちは転がるように地面に降りた。
治安部がまだ何か言っている。
——喧嘩はしない。する理由が、もうない。
「帰れ」俺は淡々と言った。「終わった」
少年は何度も頭を下げて走り去る。澪が肩で息をしながら俺の顔を覗く。
「やっぱり、怒れないんだ」
「怒れない。けど、嫌悪はある。区別は、つく」
「それで十分」澪は立ち上がる。「鐘楼へ行こう。零時まで、あと少し」
鐘楼へつづく階段は、記憶より急だ。石はすり減り、角は丸い。
扉は半分錆び、半分新しい。押すと、思いのほか軽く開いた。内部は冷えている。壁の歯車、天井の細い金属線。
——世界がほどけやすい時間だ。
「封筒を」澪が言う。
俺は封を切った。中の紙は、最初は何も書かれていないように見え、やがて薄墨が滲むみたいに文字が浮かぶ。
『蓮へ。怒りが静まっているなら、これを読める。
鐘楼の三段目で世界は最初にほつれる。
左へ三、右へ八。百八のうちの最初の縫い目が、あなたを待っている。
——母より』
指で紙をなぞる。紙質が異様に滑らかだ。澪がそっと触れ、すぐに離した。
「これ、縫い子の契約紙。一般には出回らない。どうしてあなたが?」
「母が……置いていった」
「お母さん、縫い子か、縫い子にいたんだ」
階下から、靴音。誰かが塔の外に立っている気配。
覗き窓の隅に、背の高い影。無言の男。視線だけが、こちらを測る。
「糸が絡む音がする」澪が囁く。「急ごう」
三段目まで上がって止まる。
澪が空中に指を伸ばす。「ここ。見える、細い糸が十数本。——一番細いのが“鍵糸”」
「俺にも触れるか?」
「あなたは既に一度、ほどいた。できる」
見えない空間に指を合わせる。確かなひっかかり。
左へ三——糸を三回、送る。
右へ八——八回、逆に捻る。
空気が反転し、床板が小さく鳴った。壁の歯車が、一枚だけ遅れて回る。
「——開いた」
狭い通路が現れる。普通なら見落とす隙間。
通路の先に小部屋。中央に、針のような細い鉄柱。柱の上で、小さな鈴が雨音みたいに震えた。
「雨の日だけ鳴る鈴」澪が目を細める。「街に一つだけあるって言われてた」
柱の根元から、薄い金属板を引き抜く。指に馴染む質感。文字が浮かぶ。
『継ぎ手へ。百八のうち最初の縫い目を開いた。
失ったものを、数えなさい。
——縫い主』
背後で、音もなく扉が閉じた。
外から、零時の鐘が響く。ひとつ、ふたつ。
胸の奥の空席——怒りが座っていた場所に、冷たい水が静かに注がれる。
「蓮」澪が袖を引く。「ここからは、取引だよ。世界と、街と、縫い主と、それから……国家とも」
「国家?」
「治安部と企業が、“欠落兵”を作ろうとしてる。恐怖や痛みを切り捨てる兵隊。鈴櫛の鐘は、戦争の道具にされる」
東雲隊長の声が遠く、階段の下から響いた。「そこで何をしている。戻れ」
澪が小さく笑う。「怖くないから、判断を任せる」
俺は札を胸ポケットにしまい、言う。「——第三の選択を探す」
国家にも、企業にも付かない。
怒りが燃えないなら、灯りになる行動を選ぶだけだ。
小鈴がもう一度鳴る。
通路の奥から、雨の匂いと、路地の気配。
返し縫いの路地へ続く、細い影の筋。
「帰ろう」澪が言う。「今夜、**灯**に会える?」
「会える」
俺は頷き、歩き出す。
——知らない。
この夜から一冊分のページをめくった先で、灯に取り返しのつかないことが起きることを。
外で、三つ目の鐘が遠く響いた。
透明な壁の向こう、ヘレナが退屈そうにグラスを傾ける。
無言の男の影が、塔の外でじっと立っている。
百八のうちの最初が、胸のどこかでカチリと噛み合う音がした。
(第一章 了)




