表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

プロローグ 鈴櫛(すずぐし)の歩き方

最初に耳に入るのは、海の音よりも金属の粉の匂いだ。

鈴櫛は潮風と鉄の街。パンは買えるけれど、靴底は薄い。

遠くのニュースでは今日も十三の旗が揺れていて、アムリカ合衆領の気象予報の合間に、太平洋州・第七行政特区「鈴櫛」の夜間外出の注意が流れる。


——零時の鐘が鳴ります。

——願いは等価の代償と引き換えです。

——欠落は戻りません。


誰も驚かない。ここではそれが日常だ。



新来者のための、短い手引き(市民手帳抜粋)

1.鐘

 零時、鐘楼が鳴るたび——小さな願いは叶う。ただし“欲”を永久に失う。

2.比例

 願いが大きいほど、失う欲は重い。

 パンが欲しいなら眠気を少し。誰かを救うなら、怒りや恐怖のような根が削れることもある。

3.欠落ラッカ

 一度失った欲は戻らない。例外はない。

 性格も行動も、以後はその欠落を前提に組み替わる。

4.縫いスティッチ

 鐘が鳴る瞬間、世界に薄い裂け目が走る。代償を払った一部の者は、その裂け目を継ぐ/断つ指先を得る。彼らを継ぎ手と呼ぶ。

5.縫い子

 鐘を管理する職能者。記録と修復を担い、私情を排す。

 国家や企業はときどき彼らに軍事転用を頼み、街はその火花で焦げる。

6.徴募券

 従属市民は青いカードを持ち歩く。戦況が悪いと“抽選”は早まる。

 泣いても、列は進む。

7.観客席

 港の丘にガラス箱というクラブがある。富裕層はそこで戦争を観戦する。

 笑い声は透明で、よく通る。


——以上、覚えたなら耳栓を。零時はすぐ、来る。



 夜のはじめ、鈴櫛の柱時計はいつも三分遅い。

 古道具屋「綾辻」の軒先で、その遅れを見上げるのは黒髪の少女だ。

 綾辻 澪。彼女は鐘の前になると、空中に走る見えない糸を見つける。怖がらない。恐怖はもうないからだ。

 震えない代わりに、彼女は理で危険を見積もる。

 ——自分が欠けた場所ごと、ものの見方を作り直して。


 港通りの反対側、透明な壁の向こうでは、ヘレナ・カドウェルがシャンパンを傾ける。

 「選択を見るのは愉快よ」と笑う声が、夜風と一緒に降りてくる。

 治安部の東雲は無表情で列を捌き、青いカードの角を一枚ずつ確かめる。

 ——ここでは、選ばないこともまた選択だ。


 路地には、直すことをやめられない若い男がいる。

 西宮 蓮。十九。手先が器用で、表情は薄く、いつも冷静だ。

 彼は怒らない。怒りはもうない。

 ある日の検問で、妹のあかりの指が震えたとき、彼は世界に三秒の滑らかさを求め、怒りを差し出した。

 それから彼は、噛みつく理由に耳を貸さない。代わりに、噛み合う計算を選ぶ。


 鈴櫛の夜は、取引でできている。

 願いと代償。継ぐことと断つこと。観客と演者。

 そして、鐘の背後で欲を数える縫い主。姿を見せない影は、ときどき街の片隅に無言の男として立ち、通り過ぎる者の空席を眺めている。


 ——零時が近い。


 海が深くなるにつれ、街の音は一段落ちる。

 古い鐘は、すぐには鳴らない。

 その前に、世界はほんの少しだけほどけやすくなる。


 綾辻の店の前で、澪が空を見上げる。「ほら、糸が張ってる」

 蓮はそれが見えない。見えるのは、柱の歪みと、足場の癖と、錆の噛み合わせ。

 でも、それで足りる。直すには、どちらも要る。


 透明の壁の上で、ヘレナの笑い声がひとつ遅れて響く。

 柱時計は同じく三分遅い。

 東雲は列を止め、何かを無線で告げる。

 路地の角では、無言の男がまぶたを一度だけ閉じる。


 そして、街が息を吸う。

 ——鐘。


 願いはいつも小さな形をして現れる。

 ほんの三歩の距離で届く“助け”、一通の手紙で解ける“謎”、指先で開く“通路”。

 代わりに失われるのは、食欲かもしれないし、恋慕かもしれないし、あるいは怒りや恐怖のような“燃料”かもしれない。


 戻らないと知った上で、なお、人は願う。

 欠けたままでも前へ進むために、誰かの穴を継ぐために。

 ここはそういう街だ。

 鈴櫛——零時に鳴る鐘が、世界の縫い目を一つ、また一つと見せる街。


 プロローグは、ここまででいい。

 名前と、いくつかの場所と、いくつかの欠落を覚えてくれたら。

 あとはあなたも、夜の階段を三段だけ上がって、左へ三、右へ八と指をひねればいい。

 扉は思ったより軽く開いて、雨音みたいな鈴がひとつ震える。

 その先は物語だ。

 誰がどの欲を失い、何を手に入れるか。

 誰が観客で、誰が演者か。

 第三の選択は、ほんの少し先の角を曲がったところで待っている。


 ——さあ、零時になる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ