六話 血に沈んだアルバム
気がつくと、犬はすべて機能停止していた。大理石の白い床に鉄くずが散らばっている。信じられないが、俺が倒したのだろう。避難したのか、いつの間にか研究員もいなくなっている。
死体は原形をとどめていなかった。犬に消化器官はないが、蒸気により体内は超高温だ。吐き出された肉塊や内臓は無残だった。
最も動揺したのはリザ姉の髪を見たときだ。透き通るような白い髪が血に浸っている。美しさが汚されていた。
持っていたアルバムもカメラもボロボロに壊れている。
思い出は、血の海に沈んだ。
せめて、と思い胴体と切り離された頭部を抱える。皮は中途半端にはがされ、露出した白骨も激しく損傷していた。頭頂部についていた長い髪も、抱えると重力に従って剥がれていく。破裂した蒼い瞳と白い髪。リザ姉の美しさを象徴する二つが切り離されてようやく死を実感した。
「リザ姉……」
こういうとき、どうすればいいのだろう。今まで心を押さえつけていたからか、悲しむタイミングを逸した。
悲しみはない。怒りもない。後悔は少しだけ。
それは都合が良かった。俺の仕事はまだ終わっていない。ここで絶望して足を止めるよりはいい。ほとんど骨だけになった頭部を抱えて研究室の奥へと歩いて行く。歩くたびにコツコツと足音が響き、ぽたぽたと血が垂れていった。
白の回廊は迷路のようだった。鍵のかかった扉は斧で切断して強引に進んでいく。俺の歩みが遅いのか、研究室が広いのか、やけに長く感じた。
――ふと、自分が泣いていることに気づいた。
頬の傷に熱い液体がしみ込んで痛む。疼きが現実と感情をつなぎとめた。
自覚すると、押さえつけられていた感情が心の膜を破ってあふれ出してくる。抱えた頭蓋骨が妙に暖かくて強く抱きしめた。
「ああ……あああ…………ちくしょう………………」
悲しくない――わけがない。絶望しないはずがない。
「なのに……なんで、俺の身体は止まらないんだよ……」
使命に駆られて身体が勝手に動く。嘆き膝をつく暇さえ与えてくれない。
ぽたぽたと垂れていく音が、血か涙かわからない。かすむ視界が、疲れか涙かわからない。悲しみの蒼で染まった脳は役立たずだ。
魂に刻み込まれた使命を頼りに進むしかなかった。
俺は、村を守らなきゃいけない。
歩き回っていると最奥の部屋にたどり着いた。白の壁に白の扉。最新の技術で作られた鍵がかかっているのだろうが、扉ごと破壊して中に押し入った。
目の前に広がった世界に息をのむ。
超巨大な空間だった。村の面積とほぼ変わらない。白い壁には一切の装飾がなく、無機質を貫くデザインは恐怖を覚えるほどの美しかった。
途方もない空間に、超大型の機関があった。山のようにそびえたち、部屋の八割ほどを占めていた。
――階差機関。蒸気で駆動する演算機だ。
無数の歯車がパイプオルガンのように天井へと積み重なっている。複雑な構造にめまいがした。土台部分の様々なメーターは多すぎて何が何だかわからない。
近年の階差機関は小型化が主流であり、自律型《蒸気獣》にも搭載されている。だが犬の複雑な挙動は小型だけでは賄えない。どこかに演算を補助する大型機関があると予想していたが、これほどとは思わなかった。
「すごいな。世界一の蒸気都市、か」
皮肉半分、感嘆半分でつぶやいた。
ふと気づく。整然と並んだ歯車が動いていない。これほどの大きさなのに、蒸気の熱も、駆動の音も存在しなかった。世界一を象徴する巨大な機関は役目をはたしていない。
失敗作なのかと疑ったが、よく見るとメーターの一部がゆっくりとゼロへと戻っている。つい先ほどまで起動していたらしい。
何を演算していたのか。《蒸気獣》の自律思考だ。人間に対し高度な戦闘の駆け引きをするために膨大な演算が必要なのだ。
では、なぜ今それが止まっている……?
この機関を止めると《蒸気獣》は弱体化する。遠隔制御もできず、単純なプログラムだけで動くただの獣になり果てる。俺はそのためにここに来た。
なぜ止まったのか。もういらなくなったのだ。
「おい、それはないだろ」
慌てて広大な部屋を走り回る。推論を否定する材料が欲しかった。巨大な階差機関の周囲をぐるりと一周する。
見つかったのは、研究員がアトランティスへの脱出に使ったであろうエレベーターへの入り口だけ。動力は途切れていないのでボタンを押せば使用できる。敵地のど真ん中に入り込むことになるが。
その他には何もなかった。巨大機関を設置するためだけの部屋だった。
もうここに用事はない。村に戻るべきだ。
なのに、見たくないと心が拒否する。動かそうとする両足に重りがまとわりつく。
それでも、村の役に立つために、行かないといけなくて……。
「燃えてるな、リザ姉」
村は焼却処分されていた。炎は村の全てに行きわたり、ここから生存者は見えない。確認のために走る気力はなかった。幻想的なほど残酷な光景だからか、それとも熱風で乾燥したからか、目を開けていられない。リザ姉に地獄を見せたくなくて、瞳のない空洞の目を手で覆い隠す。俺もあの中に飛び込めばリザ姉と同じ姿になれるだろうか。
なぜ、こんなことになったか。
景色は世界の終幕、最後の審判の絵画のようだ。
ドシン、ドシンと一定のテンポで地響きがする。炎の先をよく見ると、怪物のシルエットが見えた。火災の加速は怪物の攻撃が原因だろう。巨大階差機関による制御を失い、ただプログラムに従って蹂躙を始めた。
ローニア村の後は島の集落を滅ぼしていくのだろうか。動力さえあれば世界を滅ぼせるだろう。
海の底を見ると、絢爛の大都市が沈黙している。嘲るように地の底から大地を見つめ、神も恐れぬ玉座に座り、世界を武力で支配していた。
これが天変地異ではなく、アトランティスによる支配なのだと思い出す。
リザ姉は奴らに殺されたのだ。
皮肉なことに、村を滅ぼされた怒りは湧いてこなかった。産んでくれた両親、育ててくれた神父、共に苦難を乗り越えた仲間が殺されても心に波風は立たない。ローニア村への愛着はなかった。
今はただ、リザ姉の死を許せないだけで……。
感情を向ける先がなく、ただ茫然と景色を見つめていた。下手をすればリザ姉の頭部を抱えたまま餓死するまで立っていたかもしれない。
「いい景色でしょう。人は、死にゆくときに最も美しい色彩を見せるのです」
後方から声が聞こえた。振り向く気力はなかった。
勝利の美酒で下品に歪んだ顔なんて、見たくなかったから。
「なぜ、村を滅ぼした。俺たちが何の罪を犯した」
「さて? 吾輩にもわかりませぬ。聖女様の思し召しですから」
研究員は無責任に言い放つ。これだけの虐殺をして、あらゆるものを破壊して、楽しむような声音だった。
「とはいえ、あなたには感謝を。処刑の抑止力は吾輩を村人の暴行から守ってくださいました。おかげ様で吾輩の陰謀は潤滑に進んだのです」
「……黙れ」
村を滅ぼすために処刑したのではない。
俺はただ……自分の仕事をしただけなのに。
「卑屈になる必要はありまぬ。あなたは道具。仕事の成否だけが存在価値を決めるのでしょう」
研究員は高らかに笑った。勝利を宣言するかのように、不快な声が空に響く。
どろりとした衝動が胸の内から這い上がってきた。あいつを殺せ、と誰かが叫ぶ。
敵を殺せ。悪を裁け。
「それでも、責任はとらないとな」
身体に喝を入れ、振り向きざまに斧を振るう。不意打ちだ。
しかし、完璧に直撃したはずの斬撃は、憎き敵の身体をすり抜けていく。大振りを外してよろめいた。
「残念、今の吾輩は遠隔映像です」
見ると、小型の投影機が研究員の映像を作り出している。とっくにアトランティスへ避難しているのだろう。安全圏から高笑いをするためだけに送り込んできた。
舌打ちをするも、すぐに考えを改める。
「別にいいさ。ここで処刑をしても味気ない」
それでは生ぬるい。もっと徹底的な処刑が必要だ。
「お前を処刑台に送り込み、全人類の前で土下座をさせてから殺してやるよ」
睨みつけると、研究員は歓喜に打ち震えるような笑みを浮かべた。
「ふふふ、粘つく憎悪にぞくぞくします。ですが、ロジックがなければ人を憎むことすらできない小僧に――復讐と処刑を混合する小僧にやる命はありませぬな」
「失せろ」
投影機を破壊する。映像はプツンと途切れ、周囲を静寂が満たした。
残ったのは使命感だけ。黒の斧を力の限り握り締める。
荷物はない。黒の斧と頭蓋骨だけ。二つを抱えて《白の箱》へと歩き出す。
アトランティスへと繋がるエレベーターがあったはずだ。動力が通っているとは思えないが、海の中を進む道はある。斧ですべてを破壊して突き進めばいい。
遮るものは何もない一本道を進んでいく。ふと後方を振り返るも、終末の怪物と破壊された村が広がるのみ。もうあそこには戻れない。
進むしかない。その先で何を得られないとしても。
俺は走り出した。感情に突き動かされ、走るしかなかった。
この世界に、負けないために。
誓ったのは悪の処刑。
これは、復讐の物語――では、ない。




