五話 死
「逃げろって言ったのに。危険だぞ」
「バカじゃないの⁉ 一人で行かせるわけないでしょうが!」
リザ姉は後ろからついてきた。手のかかる弟の面倒を見るように叱ってくる。
「私は、アスちゃんの隣にいるんだよ。自分でそう決めたの。あなたの隣が、世界で一番安全なんだよ」
「……仕事の邪魔はするなよ」
地獄に逃げ場はなかった。斧で道を切り開くしかない。
研究所ならば《蒸気獣》の暴走に備えて制御装置があるはずだ。村の中央を最短距離で突っ切る。
意志力を試される道だった。瓦礫の下から聞こえるうめき声。内臓を食われつつも助けを求めて伸ばされる手。それらすべてを振り切る必要がある。
「リザ姉、よそ見するなよ。立ち止まったら死ぬと思え」
「わかってるよ……」
リザ姉は悲劇から目をそらすようにうつむき、耳を塞いで走った。彼らを助けても意味がない。
「GAAAAAAAAAAAA……」
怪物は先ほどの攻撃でエネルギーを失ったのか、手をかざしたまま動いていない。終末のラッパのような唸り声をあげていた。
《白の箱》は白の直方体だ。北の広大な土地を利用しており、俺の家の何十倍も広がっている。箱の最奥からは海底都市アトランティスに向かって長いエレベーターが伸びているらしい。無機質な白の外壁は、来る者すべてを拒むような圧があった。
門番はいない。玄関扉の鍵を斧で破壊して中に侵入した。リザ姉は戸惑っていたが躊躇する余裕はない。ガス灯に照らされた白の廊下を突き進んでいく。不気味なほどの一本道に、コツコツと足音が響いている。
この構造はおそらく……。
「おやおやアストラルさん。よくぞ生きてくださいました」
廊下の向こうに研究員が立っていた。白衣のポケットに両手を突っ込み、恍惚とした笑みを浮かべて歩いてくる。その態度ですべてを察した。
すべてこいつらの仕業か……。
怒りはなく、むしろ心は凪いでいた。冷静に事実だけを見つめられている。
「説明しろ。何がどうなっている」
問うと、研究員はぱっと笑顔を輝かせた。母に褒められたくて絵を描いた幼児の表情だった。
「海の怪物を見てくださいましたか。かの《蒸気獣》は我らの悲願にして最高傑作。世界を調停する新たな暴力――リヴァイアサンでございます」
両手を広げて宣言する。白の廊下に高らかに響いた。
使命感がさらに増幅される。
「なぜ村を攻撃する。すでに大半が火の海だ」
「我らが聖女様からのお達しです。アトランティスの叡智を結集し世界を滅ぼせとおっしゃいまして」
「……」
アトランティスにおいて、聖女は政治のトップだ。その言葉は都市の意向と考えていいだろう。世界一の蒸気都市が最先端の技術を動員してローニア村を潰しにかかっている。
「こんな横暴が許されるとでも。大虐殺だぞ」
「ちっちっ、甘いですね。これは“世界を調停する新しい暴力”です。今ある世界は滅び、新たな世界が創造される。誰に許される必要もないのです」
自信たっぷりに言う。無茶苦茶だが、この世界にリヴァイアサンを上回る暴力があるとは思えない。どれだけ暴走しても止める術がないのだ。
「ちょっとあなた、いい加減にしなさいよ!」
横で見ていたリザ姉だが、我慢の限界に達したのか声を張り上げた。研究員に臆せず近づいて行く。
「自分は安全な場所からニタニタニタニタと! 罪悪感はないの⁉ 力のあるなしが問題じゃないのよ」
「罪悪感、ですか。あると言えばあるでしょう。ないと言えばないでしょう」
詰め寄ろうとするリザ姉の手を引く。吊り上がった目で抗議してきたが、リザ姉を先に行かせるわけにはいかない。俺は一歩前にでる。
「そこをどけ。奥に制御システムくらいはあるだろう。従わないのなら罪人とみなしその首を落とす」
「ふむ、素晴らしき威勢。ですがそれが勇気か無謀かは、力によって決まるのです」
不敵に笑い、白衣のポケットから手を取り出す。仕込み銃でもあるのかと警戒して斧を構えたが、その手は廊下の壁にかざされた。
――ガコン。
その動作がスイッチだったのだろうか。天上から歯車の駆動音が聞こえた。
「来なさい、我が研究所のセキュリティシステム」
はっとして見上げると、天井の二つのハッチが開いていた。前後に一つずつ。テーブルほどの大きさの穴が開き、何かが降ってくる。
ズドン、質量を思わせるものが地面に着地した。鋼鉄の犬たちだ。前後に三匹ずつ、地面に降り立ち赤い目で俺たちを睨みつけている。
一本道の特権、挟み撃ちだ。
その手は読めていた。ここまでも道が露骨すぎだ。
着地の硬直の間に疾走して距離を詰める。自律戦闘システムが俺を敵と認識し、鋼鉄の体が駆動した。動き始める前に斧を振るい赤い眼を破壊する。わかりやすい弱点だ。前方三対の眼を破壊する。
問題はここから。後方の三体がリザ姉に容赦なく――
「アスちゃん任せたよ!」
――杞憂だった。リザ姉は俺のすぐ後ろをついてきていた。
俺が前方の三体を即座に潰すと信頼し、俺の隣が最も安全だと判断し、躊躇なく一緒に突っ込んできていた。
笑みが浮かんだ。リザ姉と位置を入れ替わり、後方より襲い掛かってくる三体に相対する。
無我夢中で斧を振るう。思考が加速し犬の動きがスローモーションで見えた。緩やかに流れる世界で確実に急所を狙っていく。
「はアッ!」
恐れはない。釣った魚を捌くように淡々と三匹を仕留められた。冷静に対処すれば何とかなるものだ。
「ふむ、さすがかの有名なローニア村の処刑人。では次です」
研究員は間髪入れず壁に手をかざした。ガコン――天井から駆動音が響き、また犬が落下してくる。今度は前後に五体ずつ。二十の赤目が獲物を捕らえ、虎視眈々と隙をうかがっている。
「――ッ、この野郎」
毒を吐く。想定外の事態に判断が遅れ、着地硬直の隙を逃した。戦力差は十倍。まともにやりあえば数の差で押し切られる。
撤退しかない。大振りで犬を怯ませ、出口へと強行突破するのが現実的だ。倒してもさらなる援軍が来ては意味がない。リザ姉を守りながら戦うのは不可能だ。
「リザ姉、逃げ――」
――ショケイセヨ。
――しょけいせよ。
――処刑せよ。
…………。
瞬間、頭の中で声が響いた。
脳内でうごめく何かが逃亡を許さない。首元にナイフを突きつけられているような恐怖だった。やまない残響が、前を向けと脅してくる。
『仕事を果たせないお前に、何の価値があるのか』
逃げたら村人は全滅なのだ。迷っている間にも刻一刻と死んでいく。
そうだ……逃げるわけにはいかない。
俺は処刑人。悪から村人を守るのが仕事だ。
「――正面突破だ」
掛け声とともに二人して走り出す。恐怖している暇はない。一秒でも早く惨劇を食い止める。そのためだけに、無我夢中で斧を振るった。
俺に戦闘技術はない。敵との間合いや駆け引きは知らない。
できるのは、斧を振るうことのみ。それだけが修練を積み重ねた俺の仕事だ。
慣れない運動に肺が痛む。命の駆け引きをする非現実感に頭がぼんやりとする。途切れない極限の緊張状態に内臓がかき乱されていく。
「うおおおおおおおおおおおお!」
全力だった。全身を駆け巡る衝動に突き動かされ、限界の先の能力を引き出すしかなかった。
「ほう。中々にお強い。素晴らしき人間の命の輝きですな。――では、追加」
だが、研究員が壁に手をかざせば援軍が投入される。倒したはずなのに、どんどん数が増えている。隣からリザ姉の「なんで……」と聞こえてきた。
勝てない……。
心の隙間に絶望が滑り込む。
「くそっ――」
――動揺してしまった。集中がわずかに欠けてしまった。
たった一つのミスだった。後方の援軍に気をとられ、犬のフェイクに引っかかり、大振りの斧が空を切った。
一瞬の隙だった。そして、致命的な緩みだった。
一匹の犬が俺の横をすり抜け、リザ姉へと向かっていく。声を上げても機械の耳には届かない。プログラムに従って大きく口を開け、腰を抜かした獲物の腸をめがけて突進する。
リザ姉と視線が交錯する。瞳の奥は恐怖に染まり、「助けて」と口が動いていた。
それでも俺は何もできず。甲高い悲鳴が痛々しく響き、
がぶ。がぶがぶがぶ。
踊り食い。
ガジガジ、骨が露出していく。
グチャグチャ、腸がはみ出していく。
ピチャピチャ、血だまりが広がっていく。
機械は嚙み切った肉を飲み込めない。べちょっと吐き出している。
「アす……ちゃ……ん――」
原形をとどめている頭部がわずかに動く。瞳はぎょろりと見開かれ、口はパクパク動いている。
目が合った。おとぎ話の挿絵で見た青空のような瞳は、死に瀕してなお美しかった。
直後、牙が頭部を切り裂いていく。優しい顔が切り裂かれていく。
大好きだった人が、何より大切な人が、蹂躙されていく。
なのに助けられない。飛び掛かってくる犬の対処に追われ、伸ばされた手を掴めない。わずか数メートルが果てしなく遠かった。
「リザ姉から離れろ――っ!」
真っ白な頭で意味もなく叫ぶ。心と体が切り離されていく。筋肉の限界を超えて斧を振るう一方で、現実を見ないよう感情が胸の奥へと閉じこもっていく。目の前の光景なのに、窓の外から眺める鑑賞者のようだった。
景色がどんどん遠くなっていく。深海に沈みゆく中で水面を見つめる気分だ。息ができない。抵抗すら許されずどんどん落ちていく。
そこから先の記憶はない。




