三十話 七つの大罪:憤怒
何もできなかった――
脱走した娼婦の最期を見届けたシグリッドの結論はそれだった。麻薬で苦痛を和らげることはできても、死の運命は回避できない。《腐敗病》はゆっくりとすべてを蝕み、抗う術はない。
ゆっくりと、ゆっくりと死んでいく。
苦しみながら、もがきながら。溺れるように命の灯が消えていく。
もう……限界だ。やがてこの街すべてが飲み込まれるだろうと確信した。
――オレがやるしかねェ。
決意を再確認する。この状況は誰かが打破しなければならない。
計画も今のところは順調に進んでいた。多大な犠牲を払ったこともあり、絵空事ではなくなっている。
必要なのは金だった。それも、都市一つの運営を可能にするほどの金だ。
そのためには手段を選ぶ余裕はない。神に背く沙汰であっても、やり遂げる覚悟が必要だ。
気合いを入れなおして帰路を辿る。
帰宅して建物に入ると、不意に眩暈がした。
「……クソ」
世界が揺れる。バランスを崩して膝をつく。落ち着けようと目を閉じてじっとしていると、次第に割れるような頭痛が侵食してきた。脳に釘を打ち込まれるような痛みが肥大していく。
そのままでは治らないのでよろよろと立ち上がり自室に入る。
チカッ、と視界が明滅する。数秒後、目が戻ると隅に燃え盛る男が立っていた。
「もう出てきやがったか」
舌打ちをする。室内に灼熱が鎮座する光景は異様であると同時に、シグリッドにとっては日常だった。
『怒れ、怒れ、怒れ――”憤怒”の気概で地上を焼き尽くすほどに。全ての不条理を、全ての悪徳を滅ぼすほどに』
男が語り掛けてくる。皮膚は焼かれ赤黒く染まった全身だが、それでも身を焦がし続けて立っている。
彼が膝をつくことはない。彼を殺せるのは彼自身のみ。死に絶えるその瞬間まで、自分自身を焼き尽くし続けるのだろう。
七つの大罪その一つ――”憤怒”の化身である。
シグリッドが真実を知ったあの日から、男は常に隣にいた。睡眠も食事も戦闘も、全ての時間がこの男に支配されていた。
頭痛の原因は男の脳内に流し込んでくる”憤怒”である。
「チッうるせェ。いい加減にしろ……」
睨みつけても動じない。『怒れ、怒れ』と激情を送りつけてくる。思考が怒りで埋め尽くされ、まともな判断が出来やしない。
せめてもの抵抗として、引き出しからモルヒネを取り出し服用する。多様な麻薬を扱うシグリッドだが、鎮痛作用はモルヒネが最も安定していた。
――ヨシタカには軽蔑されるだろうがな。
最初は頭痛緩和のために収集していた麻薬だが、今となってはシグリッドの財政を支える重要な商品だ。《腐敗病》で弱った身体では依存性に耐えられず、価格を吊り上げても面白いように売れていく。これも最初は《腐敗病》の苦痛を和らげるために売ったのが始まりだった。
ヨシタカの麻薬嫌いも理解はできる。廃人となり道端で野垂れ死ぬヤツは見れたものではない。
が……狂わなければ、イーストエンドで生きるのは難しいのだから仕方ない。
シグリッドも自身の依存性に自覚的ではあるが、だからと言ってこの頭痛には耐えられない。狂うほどの痛みには、狂気で対抗するほかないのだ。
自業自得だとわかっている。シグリッドの中で肥大化した”憤怒”が外へと飛び出したのだ。故にあれは自分自身。どれだけ男を恨んでも、その感情は自傷でしかない。
『邪魔者を殺せ。見下してくる者を殺せ。全ての敵を殲滅せよ』
高揚していた気分もこれでは台無しだ。
通常、怒りに持続性はない。感情に消費されるエネルギーが大きく、受け入れ諦めた方が手っ取り早いからだ。人間の脳は最善手を選ぶようにできている。
だが――”憤怒”は逃避を許さない。それは人が生まれながらに背負う罪への罰だった。
七つの大罪は誰の隣にでも存在する。人が生き続ける限り罪から逃れることなどできない。死ぬまで苦しむ運命だ。
『打破せよ――怒りによって。立ち上がれ――憤怒によって。貴様の刹那で、永遠の王国を破壊せよ』
シグリッドは呪われ続ける。どれほど苦しんでも果てのない自傷行為だが、辛うじて彼の精神は人間の域に踏みとどまっていた。
「黙れ。あと少しなんだ。あと少しで完成するんだ。そこで大人しくしていろ」
シグリッドが横たわるの自室に近寄るものはほとんどいなかった。”憤怒”の化身は彼以外に知覚できない。苦悶の形相で独り言をつぶやき続ける狂人の傍からは人が次第に離れていった。
問題はない。シグリッドの計画は最終段階にまで達している。こうして激痛に耐える間にも、部下たちが計画を進めているはずだ。
大丈夫だ。不備はない。
その時、階段から慌ただしい足音が聞こえてきた。
扉がノックされる。返事をすると、汗だくの男が扉を開けた。
「失礼します。お客様が――研究所の方がお見えになりました!」
「……はァ?」
訝しむ。モルヒネが効き始めある意味クリアになってきた頭に、おかしな情報が流れてきた。幻聴かと思い聞き返したが、間違っていない。
次の打ち合わせは来月だったはずだ。事前連絡もなく彼が来るのは初めてだった。
「オレが対応する。待たせておけ」
スーツに着替えて客間へ向かう。出迎えの精神など持たないシグリッドだが、貴族街出身の研究員は何かと品格に口うるさい。
気分が悪い。モルヒネの高揚感は内臓を押しつぶす気持ち悪さに変化していた。
客間に入ると、研究員は壁の絵画を眺めて待っていた。白衣をラフに羽織っている。ポケットに手を突っ込み、見下すような視線をシグリッドに向けた。
「ゴーギャンですか……あなたもようやく文化人らしくなりましたね。ですが、偽物を客間に置くなど品位を疑う」
「本物が手に入るわけないだろうが」
「でしょうね」
世界が滅び、人類が紡いできた文化はほとんどが途切れた。
故に、本物の価値は高い。人が旺盛を極めた証なのだ。多少の金をかけたところで、イーストエンドでは手に入らない。
西側の人間を招く機会が増えたので絵画や食器など高級品をそろえたが、買ったところでバカにされる。貴族の文化には嫌気がさしていた。
研究員はシグリッドをじっと見据え、見透かしたように嘲笑する。
「ふふふ、無様な顔ですね。吾輩御用達のモルヒネの効果は抜群でしょう。切り取って吾輩のサンプルに加えたいほどの表情ですな」
「何の用だ。研究所に引きこもってるくせによォ」
《白の箱》という研究所出身の彼は、シグリッドと共に進めている計画の最高責任者だった。
研究員は機嫌よさそうに笑みを浮かべた。
「吾輩の研究も佳境に差し掛かっておりましてな。とにかく実験体が足りない。今月の分を早めに受け取りに来ました」
「……地下室に置いてある。さっさと持って行け」
吐き捨てるように階段を指さす。
だが、胸で澱む恥は吐き出てくれなかった。
イーストエンドにある二つ目の自警団、《ホワイトシグリッド》の本部には秘匿された地下室がある。一年ほど前に作られたものだ。灰色の石材に囲まれた簡素な部屋だが、サッカー場の半分ほどの広さがある。
切り裂きジャックが集めた女性の内臓は、そこの冷蔵庫に保管されていた。
シグリッドは実験材料を収集し、対価として研究員は巨額の投資をする。
一年ほど続く契約だった。
狂気の研究を続ける彼らを蔑む一方で、シグリッドもそれに加担している現実が精神を苛んでいく。
頭痛は収まってきているが、胸に忍ばせていたモルヒネを追加で服用した。消化できない胸の濁りが、多幸感で押しつぶされていく。
しばらくすると、研究員の部下がアイスボックスを持って来た。白衣の男が蓋を開けると、氷の中でどす黒く枯れ果てた子宮が姿を見せる。モルヒネの服用がなければあまりの嫌悪感にこの場を去っていたかもしれない。
「素晴らしい。売女の香りです」
研究員は恍惚とした表情を浮かべる。彼等に指定されたのは性交を重ねた娼婦の子宮だった。仕方がないので、シグリッドが運営する娼館の女を一人犠牲にした。気に入っていた女だったが、報酬との天秤にかけて釣り合うほどではなかった。
「クソ面倒な指定付きだったんだ。報酬は弾むんだろうな」
「もちろんです。ここに」
研究員の後ろから部下が白の袋を持ってくる。渡されて中を確認すると、契約以上の金貨がぎっしりと詰まっていた。これだけあれば戦闘部隊の装備もかなり整う。
物事を成すには金が必要なのだ。
どれだけ穢れていても、金は世界に干渉できる力である――と、自分に言い聞かせる。
「オーケー、終わったらさっさと帰れ。オレは気分が悪ィ」
「ええ、最後に催促をしたら帰ります」
アイスボックスを閉じる研究員の目つきが鋭くなる。
「なんだ」
「もう一つの仕事はどうなりましたか。あなたにしては、やけに遅延している」
誤魔化そうとしたシグリッドを逃がさなかった。糾弾の視線が突き刺さる。
「相手が誰かわかってんのか。イーストエンドの統治者と処刑人の二人だ。簡単に倒せる奴らじゃねェ」
「もちろんです。特に処刑人――確か、アストラルでしたか。吾輩は彼と面識がありましてね。実力もそうですが、悪運がある。物語が定める運命が彼を生かそうとしていると感じます」
「ならわかるだろうが。切り裂きジャックを動員して暗殺できないなら、慎重になるしかねェ」
「――いいえ」
言い訳をきっぱりと否定する。瞳には理性の光が宿っていた。
それが逆に恐ろしかった。
「暗殺など手ぬるい。自警団に対し戦争を仕掛けるのが筋でしょう。何のために資金提供をしているとでも」
冷たい計算の上に導かれた結論を淡々と述べる。
その声には一切の感情を感じられなかった。
「戦争は金がかかる。割に合わねェだろ」
「ならば、報酬を上積みしましょう。これでどうです」
研究員は両手を広げて見せる。思わず息をのんだ。
「何が狙いだ?」
依頼はアストラルとヨシタカの殺害である。二人のために部隊一つを作れるほどの投資をする理由がわからなかった。
「世界平和ですよ」
研究員たちが帰宅すると、建物は不快な静けさに包まれた。
立ち尽くす。もう引き返せないところまで来ていることは実感していた。
内臓の入手のために女を殺した。
金を巻き上げるためにクスリ漬けの廃人を作った。
暗殺のために友人を騙した。
もはや戻れるはずがない。罪を重ねすぎた肉体の結末は地獄行きだと決まっていた。
だが、こうして奈落へと駆け抜ける実感があると逡巡する弱さがある。
――ダメだ。
首を振る。自己弁護などみっともない。
『怒れ、怒れ、怒れ――不条理を踏みつぶせ。禁忌に踏み込む無礼者を、憤怒の刃で裁くのだ』
弱気になると炎の男が視界の端に映る。もうモルヒネが切れたのか、一層強い激情が流れ込み頭痛が再開した。再び服用する。耐性がついているのか効果が持続しなくなっていた。
炎の男はシグリッド自身である。強すぎる憤怒の思いが身体を飛び出して具現化しただけだ。暴走する怒りで心が焼き尽くされないようにするための防衛装置でもある。
唇を噛みしめ、天を仰いだ。




