二十九話 麻薬鎮痛剤
「……げ」
《嘆きの壁》を超えてイーストエンドに戻り帰路を辿っていると、前方にシグリッドを発見した。目が合う。複雑な思いだが一応は仕事相手だ。無視するわけにもいかず近づいて行く。
「よォ、こんな裏路地で何してんだ」
出くわしたのはイーストエンドのさらに果て、最北端の裏路地である。スラムたるイーストエンドの中でも特に貧困が加速している地域であり、それゆえ強盗が少なく安全な帰り道なのだ。人間はほとんどが腐敗死体となっているか、道端で座り込み最期を待っている。
「帰宅途中じゃよ。お主こそ何を……その人は?」
シグリッドは道の端でしゃがみこみ、一人のホームレスと向かい合っていた。
思わず口を閉ざす。性別不明のその人は、遠慮なしに言うと、人間の姿をしていなかった。
《腐敗病》で四肢が腐り落ちているからか、万年筆ほどの太さになっている。直立できるはずもなく、壁に背を預けて座り込んでいた。破れかぶれの服から露出した肌には蛆が湧いていた。
「オレんとこから脱走した娼婦だ。駆け落ちだな。金もねえのに脱走すりゃァこうなるだろうよ。バカなやつだ」
納得する。娼館は過酷な環境だ。客にたぶらかされて駆け落ちを夢見ても、金がなければ餓死をする。力がなければ強盗に殺される。よくある話だ。
「……甘いんじゃな。脱走娼婦なんぞ、本来ならば即死刑じゃろうに」
団長の指摘の通りだ。ルールを厳しくしなければ娼婦の駆け落ちは頻発する。見せしめとしてみんなの前で処刑するところも少なくない。
「ケジメがあるから、こうして死にかけても連れ戻しはしねェ。……が、そろそろ限界かもな。見ろよ」
促されて女を見る。さっきからピクリとも動いていなかった。首の骨を重い頭蓋を動かす筋力が残っていないのだろう。ひゅーひゅーと酸素を貪るような音だけがかすかに耳に届いてくる。
「もうこれも効かねェだろうな」
シグリッドは胸元からモルヒネの錠剤を取り出す。末期患者にも有効なほど強力な鎮痛剤だが、ここまでボロボロでは吸収できないだろう。表情には出ていないが、今頃地獄の苦痛に悶えていると容易に想像できる。
それでも死ねない。なぶるように殺すのが《腐敗病》の特徴だった。
「お主……」
錠剤を見た団長は不機嫌そうに呟く。麻薬に対する無条件の嫌悪が場の空気に重しをつけた。
「なんだ、文句でもあんのか?」
「…………」
反論はない。ただむっつりとシグリッドを睨みつけている。
「これがなきゃコイツは地獄の苦しみだ。苦しめってのか?」
「……何も言っておらぬよ、儂は」
「ケッ」
シグリッドは吐き捨てる。互いの視線から火花が散るようだった。セラはすっかり怯えてしまい、俺の裾を握っている。ほんのわずかな時間、重たい沈黙が訪れた。
「………………………………ぁ」
ふと、女がうめき声を漏らす。もう視力も聴力もないはずなのに、シグリッドの存在を認識したかのごとく顔をあげた。正確には、顔の角度をあげるため仰向けに寝転んだ。
二人の目が合う。どす黒くなった瞳には何も見えていないはずなのに、視線が交錯したような気がした。
ひゅーひゅーひゅー。
かすれた呼吸。身体の内部圧力がないから息を吐けないのだ。
その中で、希望を手繰り寄せるように、命がけで単語を発した。
「…………ころして」
もうモルヒネは効かない。
彼女を苦しみから救う方法は一つしかなかった。
シグリッドは目を閉じる。それが祈りか葛藤かは本人でさえもわからないが、結果として彼は一つの結論を出した。
「処刑人、出番だ」
「……いいのか?」
「本人が望んでんだ。これもてめェの仕事だろう?」
女の顔を見る。醜く爛れた姿からは何も読み取れなかった。
その瞳を俺に縋りついていると解釈するのは容易だが、実際は何を考えているのかさっぱりわからない。与えられた情報はその一言だけだった。だが。
「わかった」
誰かがやらなければならないと思った。その役割は俺が背負うべきだと感じた。
「団長、セラを頼む」
「……うむ」
子供に見せたい光景ではない。団長はセラの手を引いて少し離れ、視線を逸らさせる。
躊躇する理由はなくなった。大きく息を吐いて覚悟を決める。
背負っていた黒の斧を握る。首元に狙いを定めて振り上げる。
しかし、振り下ろしはしなかった。
最期の言葉を残し、既に女は息を引き取っていた。
「………………………………………………………………」
行き場のないやるせなさを抱えつつ、黒の斧を再び背負う。
爛れた顔つきでは、安らかな眠りかすら判別できない。最後の最後まで尊厳を奪われた結末だった。
俺はこの女のことを知らない。元の姿も知らないし、話したこともない。
けれど、ここで出会ってしまったのだから、安らかな眠りを祈るくらいはいいだろう。目の前で十字を切って祈りを捧げる。
「わりィな」
シグリッドがぽつりと言う。
「別に。これもまた、処刑人の仕事だ。骨はどうする」
「オレが持って帰る。残っていたらの話だけどな」
シグリッドは遺体に手を伸ばし持ち上げる――が、ポロポロと崩れ落ちるばかりで掴めなかった。
これから、虫けらの餌となって消えるのを待つしかないのだろう。
砂のように手から零れ落ちる元肉体を再度すくいあげるも、触れるほどに遺体は壊れていく。シグリッドは自分の手をじっと見つめていた。
「行こうか、アストラル」
団長が声をかけてくる。目をそらすように俯いていた。
俺は頷き、黙ってその場を去った。必要なのは言葉でもなく、嘆きでもなく、ただ死者への祈りだけだった。
言葉が途切れる。浮かれた気分は絶望に絡み取られるように消えていた。
重い沈黙に包まれた帰路で、団長はぽつりをつぶやいた。
「友人の定義とは、なんだと思う?」
「……いきなりどうした」
「ちと気になってのう。裏切りや決別が当然のこんな街じゃ。友人とはどこからどこまでを言うのじゃ?」
言われて考えてみたが答えはでなかった。とても悲しいことに、実体験をベースに語るには友達が少なすぎた。
「俺に訊くな。経験値が少なすぎる」
「では思考実験でいい。……例えばじゃが、一度は仲良くなるも価値観の相違から決別した二人は、友人と言えるかの?」
「決別したなら言えないんじゃないか?」
「じゃが、その二人の仲が悪くなったわけではない。ただ信念が違うだけじゃ。進む道が分かれても、友人と言えるじゃろうか」
「う~む」
食い下がるように言ってくる。冷静を装うとしているが、必死さが滲み出ていた。
討論ではなく、欲しい言葉があるだけに思える。
「短い時間じゃが、二人は本当に仲が良かったのじゃ。それこそ共に視線をくぐった戦友と言えるほどに」
団長の言葉が熱を帯びていく一方で、俺はどこか冷めていた。
「きっと、おともだちですよ」
代わりに答えたのはセラだった。幼い声が鈴のように響いた。
「おともだちは、やめなくていいんです」
……心がかき乱される。幼く未熟な結論は、逆に俺の濁りを浮き彫りにするようだった。
団長は顔をあげた。強張っていた表情が、ほんの少し緩んでいた。
「そうじゃな。きっと、友情は消えぬよな」
二人の言葉には、どうしても共感できなかった。




