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十五話 ソーニャの祈り

 私の意識はまだ現実感を伴っていませんでした。


 頭と胴が切り離されて路地の地面を赤い血が濡らしていく光景は、いつか見た映画のような白黒画面越しの距離感であり、霧のかかった頭では事実を正しく認識できません。私を殺しに来た少女が始末されて安堵するべきなのか、それとも子供が死んだ悲劇を嘆くべきなのか。信じる倫理と感情が相反する感覚は生まれて初めてのことで、どんな態度が適切なのかわからなくなってしまいました。


 私は何もできなかったのです。悪夢のような霧に閉じ込められてただ震えるばかりで。あれだけ苦しい修練の末に身に着けた槍術に出番は与えられず、私を庇ったアストラルさんには酷い怪我をさせてしまいました。切り裂かれて黒く滲んでいく彼の袖を見ていると、その痛みが灰色の霧を伝って私の心臓に侵食してくるようです。それなのに、自分が助かってどこかほっとしている私がいて、その自己中心的な考え方に嫌気がさしてしまいます。焼けるような胸の痛みで声が詰まり、絶対に認められないはずの彼の選択に文句を言えなくなってしまいました。


 けれど小さな子供を殺すのは我慢が出来なくて、つい手が動いてしまいます。誰かの死の上に成り立つ平和が、私にはどうしようもない“悪”に思えるのです。確かに少女は私たちを殺そうとしましたし、守ってもらった私がアストラルさんに意見できる立場ではありません。ですが本当に殺さなければならないのでしょうか。ひとたび罪を犯せば更生の機会すら与えられずに未来を閉ざされるべきとは思えません。平然とした顔で人を殺す彼の態度は受け入れられません。


 ……私の考えは甘いのでしょうか。


 這いつくばる少女に皮肉な笑みを向けられたとき、胸をきゅっと締め付けられるような痛みがありました。少女は命を捨てる覚悟で飛び込んできたのに、私には殺す勇気すらないのかと鼻で笑われた気がしたのです。街の住人が当たり前に持つ心の強さを私だけが忘れてきてしまったようで、恥ずかしいやら情けないやらで消えてしまいたくなりました。私だけが弱く、街から仲間外れにされたように思えたのです。


 目の前で流れていく強烈な現実が、砂糖の海に溶けた私の頭を叩きつけてきます。生首のぎょろりと開いた両の眼は、地に転がる頭部が白黒映画の作り物ではなく、生命を宿していた人間なのだと主張してきました。昨夜に触れた頭蓋骨の感触が脳裏に思い起こされます。生々しい冷たさを思い出してさらに気分が悪くなりました。


 何もかもがわかりません。なぜこんなに小さな子が人殺しをしているのでしょう。なぜ死を恐れないほどの覚悟があるのでしょう。なぜ罪を犯さなければ生きられないほどこの街は悪化してしまったのでしょう。


 イーストエンドがこんなことになっているなんて知りませんでした。誰も教えてくれなかったのです。西で教えられた海底蒸気都市アトランティスはもう少しだけ理想的で優しい世界でした。話に聞くイーストエンドと、自分の目で見た生々しい感触はずいぶん解離しています。


「なんで……誰も助けてくれないんでしょう」


 ふと口から言葉が漏れました。声は地にへばりつく赤い血に溶けていきます。


「子供が利用されて人殺しをしていて、物乞いがたくさんいて、よくわからない病気が蔓延していて。それなのに、政府は何をしているんでしょう」

「何もしてないんだろ。支援物資は気休め程度。都市警察さえ撤退するほどだ。立て直す気がないんだろう」


 アストラルさんの冷たい言葉が冬の路地に響きます。


 感情的には否定したかったですが、その材料が見当たりません。私が生まれ育ったこの都市を悪くは思いたくないのに、目の前に広がる現実が逃避を許してくれません。これまでの自分が否定されたような受け入れがたい感情が押し寄せてくるのです。


「だから俺たちは自警団を作った。自分の身を自分で守るために。自分の信じる正義もまた自分で守るために。海底蒸気都市アトランティスに抗うために。俺たちは……戦うしかないんだよ」


 都市を悪者のように言われて悲しいのに、彼の語る理屈が正しいように思えました。どんな状況であれ私たちは生きていくしかなくて、そのための努力を日々積み重ねていきます。都市の中で悲鳴をあげながらももがき続ける彼らは美しく見えました。


「例えばこの少女だってそうだ。多分、ここらへんに……ビンゴだ」


 アストラルさんは少女の上着を優しく剥ぎ取り、裏に縫い込まれた刺繡を見せてきました。控えめに戦女神のシンボルが描かれています。私は初めて見ましたが、アストラルさんは納得したように頷きました。


「かすれて見えないが、何かのシンボルマークだ。この少女はこの組織に拾われて、俺たちを殺すために利用されたんだろう」

「なんで……そんなひどいことを……」


 自分で殺しをするならまだしも、自分の手を汚さずこんな小さい子に命令するなんて卑怯にもほどがあります。


「ひどい奴らだと思うか? だが、そのおかげでこの少女は今日まで食いつないでこられた。拾われなければ野垂れ死んでいただろうよ。みんな生きるのに必死なんだ」


 アストラルさんは悲しそうな顔をして言いました。


 ふと、道端に倒れる浮浪者の姿が脳裏に浮かびました。病気で両足が腐り落ちた彼は、一生歩けないまま食料を集められず朽ちていくのでしょうか。団長も体の数か所を鋼鉄に置換していました。醜くても、足が腐り落ちるよりはマシなのでしょうか。


「どこの組織だか知らないが、明確な殺意をもって俺たちを殺そうとしてきた。団長に報告してしかるべき対応をとらなければいけないが……特定できれば戦争は避けられないかもな。やらなければやられるだけだ」


 アストラルさんの言葉の正しさは理解できました。私の考えが甘い自覚もありました。でもなぜか私の心は納得できなくて、目の前で首を斬られた少女の末路を肯定できなくて、思ってもいない言葉が口を滑って出ていきます。頭と心が乖離したように口が勝手に動きます。


「それでも……殺人なんて――」


 言ってからすぐに後悔しました。自分を命がけで守ってくれた恩人に対する言葉ではありません。恩をあだで返す最悪の振る舞いに、私の魂が少し濁ったような気がしました。慌てて訂正しようとするもすでに遅く、アストラルさんの灰色の瞳は感情を持たずに私へ向けられています。瞳の奥に広がる無限の闇がすべて私に向けられたようでぞっとしました。


「そうか」


 アストラルさんは左腕を庇っているのか不自然な体勢で黒の斧を背負い、空いた右手で少女の生首を持ち上げます。左腕の治療はしていません。かなりの激痛なのかすまし顔が歪み、顔色も悪いです。


 そういえば助けてもらったお礼すら言っていないと気づきましたが、とても言える空気ではありませんでした。


 生首の断面からはまだ血が流れていました。


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