十四話 霧<ミスト>Ⅱ
攻撃のテンポが上がる。小さな身体が弾丸のように迫っては、喉元めがけて銀の軌跡を描き出す。ナイフは重い。武器のサイズに差がありながら力勝負で拮抗していた。
意味が分からない。この速度を出すには相応のタメが必要なはずだ。交錯してすぐに次の攻撃がやってくるなんて、どんな瞬発力をしているのか。
経験的な予測と反射神経だけでなんとか捌けているが、完全に後手に回ってした。こちらも動いてかく乱すべきだろうが、ソーニャと離れては各個撃破の恐れがあった。
だが……このままでは……っ!
徐々に対応が遅れていく。防御で精いっぱい。常に一手遅れ続け、澱む空気が肺に入り込み全身が重くなっていくようだ。
ふと、ナイフのテンポが一拍遅れる。手を緩めなければ押し切れていただろうに、僅かな空白が生まれていた。違和感を抱いて視野を広げ――小さな身体がソーニャへ向かっているのを察知した。
「え――」
恐怖を帯びた呟きがかすかに耳に届いてくる。彼女を見ると、全身が硬直して全く反応できていなかった。洗練された一撃が、容赦なく首元へと襲い掛かる。
瞬間、リザ姉の死に際が脳裏によぎった。間に合わず、手が届かずに食いちぎられていく光景が鮮明に脳を埋め尽くしていく。蘇る鮮血の匂いに肺が凍りついていく。
ちくしょう……!
心臓を潰されるような恐怖に苛まれ、気づけば左手を伸ばしていた。小回りのきかない黒の斧では間に合わない。ヤツの手を掴んでも勢いを殺しきれない。ナイフと首元の間に腕を滑り込ませ、ノーガードで攻撃を受け止めた。
「……ッ、」
焼けるような痛みが腕を覆う。隊服に組み込まれている防刃素材は気休め程度だ。黒の服がさらにどす黒く滲んでいく。出血で跳びそうな意識を気合で現実に引き戻した。
ソーニャはすっかりパニックになったのか、腰を抜かして尻もちをつき、慌てた顔で傷口を見上げている。本人にとっては屈辱だろうがむしろありがたかった。座っていた方が的は小さくなる。
――クスクス。裂かれたお肉がびろんびろん。
痛みで力が入らなくなっていた。筋肉が断裂している可能性もある。巨大な黒の斧は両手で扱わなければ、ヤツの速度について行けないだろう。あと数度の攻防で、間違いなく突破される。
ソーニャが涙を浮かべて何かを言っているが、霧に阻まれて聞こえない。聞き返す余裕もなかった。
――脳内ではすでに、勝利への道筋が組み立てられていたのだから。
攻防では常に一手遅れていた。反撃のためには不利を覆す一手、攻撃の一手と二つがいる。それが今、そろった。実際は少ないサンプルから得られた確度の低い推論に過ぎないが、状況をひっくり返せるのなら安いリスクだ。
右手で黒の斧を握り縦に構える。片手では速さについて行けないだろう。それをわかっているのか、ヤツは正面から突撃してきた。
このままでは速さで押し切られる。だが――同じ条件ならば、子供に負けるほど俺は落ちぶれちゃいない。
銀のナイフが吸い込まれるように喉元へ向かってくる。
それは、俺の予測と完璧に同じ軌道だった。
通常、顔面近くへの攻撃はセオリーではない。人は向かってくる攻撃が目に近いほど反応が速くなるからだ。的の大きい胴体や反応の鈍い足元を狙うのが一般的と言われている。
それでも喉元への攻撃を繰り返すのはもはや執着だ。俺だけでなく、喉元を守るように槍を構えていたソーニャに対しても変わらなかった。殺人者としてのこだわりか子供ゆえの稚拙さか理由はわからないが、予測できるならば活かさない手はない。他の可能性をすべて捨て、銀の軌道上にあらかじめ斧を置いて待ち構える。これで一手分テンポを取り戻せた。
だがこのまま交錯すれば力負けする。片手の握力では高速のナイフを受け止めきれず、弾かれて無防備になる。
ならば、黒の斧などくれてやる。仲間が殺されるくらいなら、ちっぽけなプライドなんて捨ててやる。
銀と黒が交差する刹那、脱力して斧を手放した。半歩退いて弾かれた斧と迫るナイフを回避する。
「――チッ」
体勢を崩した敵――小さな少女の姿が霧の中から現れる。仕留めきれなかったからか、いら立つように舌打ちをした。俺が武器を手放したから当然だが、自分が負けるとはつゆほどにも思っていない。突撃の勢いのままに距離を離していく。
……ならば教えてやろう。プロの処刑屋を相手にする、その意味を。
自警団の隊服には懐に予備のナイフがしまってある。軽量化のためにかなり小さく殺傷力は低いが、敵の無力化だけならこれで十分だ。
狙うは反応の遅い足首。一撃で無力化できるアキレス腱。
懐のナイフを軽く握り、刹那の間に狙いを定め、
踏み込むと同時に超高速の軌道を描き、
霧の中に消え行く少女の、確かな実体を捕らえてみせる――‼
「きゃっ!」
悲鳴とともに減速し、地面を転がっていく。手ごたえあり。小さなナイフに鮮血が付着した。
油断はしない。黒の斧を素早く回収し、転がる少女に接近する。処刑人の誇りの下、首を刎ねるのは黒の斧だけだと決めていた。
だが――かすかな足音が聞こえて足を止めた。
息がつまる。音はくぐもっているが、怪我人のものではない。焦燥のリズムとともに何者かが迫ってくる。
ようやく理解した。敵はひとりではない。少女が俺たちの位置を一方的に把握できたのも、外からの支援があったからだろう。
ミスを責めるように凍てつく空気が肺を痛みつける。不用意に踏み込んでソーニャと距離が離れてしまった。
踏み込むか逃げるか……選択の余地はなく、覚悟を決めるしかなかった。
痛む左腕では黒の斧を振るえない。斧を手放し、再び懐からナイフを抜いて顔の前に構えた。もし二人目の獲物もナイフであれば互いにノーガードになる。
足音が近づいてくる。少女のような恐ろしさはなく、焦りが見え隠れするリズムだった。
これならいける……いや、行くしかない!
後手は取れない。霧の中からナイフの輝きが見えた瞬間に踏み込んで迎撃をする。
「はあッ!」
ここまでくれば気迫の勝負。叫びとともに水平に振るう。
慣れないナイフの間合いを見誤り、勇気虚しく空を切った。小さな影は隙を逃さず、霧の中から現れてナイフを喉元へと滑り込ませてくる。
それを見て安心した。ソーニャに向かわないなら構わない。
傾く勢いに逆らわず、向かってくる影に蹴りを入れる。側頭部に会心の一撃が入り、小さな身体が吹っ飛ばされていく。
追撃したいが今はソーニャの安全確保が優先だ。三人目に対する警戒もいる。素早く後退して座り込んだソーニャと合流した。
「警戒しろ。敵は一人ではないぞ」
声を出してふと気づく。霧の濃度が薄まっているのか声はさえぎられていなかった。視界もわずかに通るようになっている。耳を澄ますと霧の奥から僅かに声が届いてきた。
――撤退! 撤退! ミストがもう限界です!
――《gaaaaaa……》。
二つの足音が遠ざかっていく。仕留めたい気持ちもあったが、罠の可能性も考慮して追えなかった。しばらくすると不自然なほど急速に霧が晴れていく。すっと空気中に溶けていくような消え方だった。
……今、《蒸気獣》のような声と駆動音が聞こえたような……。
閉じていた視界が回復し、慣れ親しんだ薄暗い路地の光景が戻る。誰かの生活音が耳に届き、現実に引き戻されたような感覚になった。
ふう、と息を吐いて頭を切り替える。あの霧はなんだったのだろうか。夢の世界に引き込まれたような心地だ。
「終わった……ですかね……?」ソーニャが恐る恐る訊いてくる。
「いや、まだだ」
あたりを見渡すと、倒れこんだ少女が一人取り残されている。緩めそうになった警戒を再び引き上げてナイフを構えたが、どうにも様子がおかしい。立ち上がる気配がなかった。
「アストラルさん……?」
ソーニャが大きく息をついて身を寄せてくる。声色には疲労が強く滲んでいた。「離れるなよ」と釘を刺し、確かめるため少女にゆっくりと接近する。見ると、少女の両足はカエルのように太ももが不自然に肥大し、不自然な曲がり方をしていた。
……ふざけやがって。
少女の膝裏には大きな手術痕があった。足を切り開いて中に機関駆動式のバネを埋め込んでいる。驚異的な機動力はそこから来ているのだろう。代償としてバランスをとるのが極めて難しく、アキレス腱をやられただけで歩行すら困難になっている。
何者かが少女を使い捨ての戦闘機械にしたのだ。人間として大切なものを捨てさせて。
「ちくしょう……ちくしょぉ……」
少女は悲痛な声をあげて懸命に這いずっている。自分の運命を理解しているのだろう。
俺は黒の斧を手に取り、少女の首に刃を押し当てた。
「答えろ。誰の命令でここに来た。あの鋼鉄の獣はなんだ」
裏で誰かが糸を引いているのだと確信があった。
「……」
「口を開くか首を落とすか。好きな方を選んでいいぞ」
「ちょ、ちょっとアストラルさん!」
ソーニャが慌てて俺の手首をつかむも、すぐにハッとしたのかおずおずと手を離した。
「お願いがあるんです、アストラルさん」うつむいたまま、遠慮がちに口を開いた。
「聞けないな。こいつを処刑して次の被害者を減らすのが俺の仕事だ。ここで逃がして俺の大切な人が殺されたら責任をとれるのか」
「でも……この子は……」
言いたいことはわかる。少女らは利用されているだけだ。そんなことはわかっている。
殺されかけてなお綺麗ごとを言えるのは立派だが。
「ねえ処刑屋さん。殺すなら早くしてくれない?」
少女が皮肉な声音で言った。殺されると分かっていながら焦らされるのは堪えるのだろう。
「ならばもう一つだけ。お前は噂の切り裂きジャックか」
「……」
口を閉ざす。尋問の訓練を受けているのか、横顔からは何の感情も読み取れなかった。
疑わしい部分が多い。切り裂きジャックの殺人現場からは悲鳴が聞こえない理由も、あの霧を意図的に起こせるのなら筋が通る。
それに……霧の中からかすかに聞こえてきた《蒸気獣》と同じ種類の唸り声。
例の噂と一致する。イーストエンドにあるはずのない不自然な最先端技術だ。
どこで手に入れたのだろうか。是が非でも知りたいが、尋問は趣味じゃなかった。
「まあいい、お前の選択だ。俺は、俺の仕事をこなすだけ」
自分に言い聞かせる。心を凍らせていく。片手しか使えないが、何万回と繰り返した動きだ。黒の斧を天に掲げる。
「処刑人、アストラルが宣告する」