十三話 霧<ミスト>
報告のあった現場にたどり着くと、凄惨な死体が残されていた。上半身は焼き魚のように開かれており、内側と外側の境界があやふやになっている。恐らくは女性だろうが、胸元から性器にわたって肉が切り開かれ、いくつもの内臓が消失しているので区別がつきにくい。顔面も皮がはがされて身元の特定が難しかった。
死因は断定できないが、おそらく喉元への攻撃だろう。胴体の解体は綺麗な手口なのに、喉元の傷は歪んでいた。
「うぷ……おぇ……」
ソーニャはしばらく死体を茫然と眺めていたが、我慢できなくなったのか逃げ出して嘔吐している。俺も慣れているから平気だが、身体に絡みつくような血の匂いを前にすると強烈な頭痛がした。
同時に怒りが湧いてくる。人を何だと思っているんだ。
目をそらしたい気持ちを抑えてじっくり観察する。現場から得られる情報は多い。まず、浮浪者を含む周囲の住人に聞き込みをしても、ここ数日で悲鳴を聞いたものはいなかったこと。濃い霧に阻まれて声は通りにくいとはいえ、悲鳴をあげる暇もなく人を殺すのは相当な技術がいる。
他には、人体をここまで解体できたこと。豚や魚を捌くには知識がいるように、ヒトの分解も難しい。加えて刃物の扱いも一流だ。技術と知識の両方を会得した人間などイーストエンドにいるのだろうか。
「切り裂きジャックか……」
奴ならば、信じがたい技術の説明もつく。似たような事件が七度起きているのだ。
また犠牲を出した。無意識のうちにこぶしを握り締めていた。切り裂きジャックが街で騒がれ始める前から追っていたのに、いまだしっぽを掴めていない。
「はぁ……はぁ……アストラルさん、どうです……?」
吐き終わったのかソーニャが肩で息をしつつ戻ってきた。死体を見るとまた小さく悲鳴をあげて目を閉じたが、恐る恐る瞼を開けてグロテスクさに立ち向かっていた。
「証拠はないが奴の仕業だろうな。こんなことをできるのが複数いたらたまらん」
「なんで、こんなことをするんでしょう」
ソーニャの雰囲気から察するに、この世全ての殺人に対して問いかけているのだろう。
「標的の傾向としては娼婦が多い。彼女らへの恨みが一般的な説だな。だが模倣犯が多すぎてどれが本人の犯行かわからない。推測には限度がある」
誰にも俺の気持ちがわからないように、人の気持ちなどわかり得ないものだ。さも理解した気になって語るのは誠実さに欠ける。
ソーニャは苦しそうに胸の前でこぶしを握り締めていた。
「……随分冷静ですね」
責めるような声音だった。
「慣れてるからな」
「イーストエンドでは、よくあることなんですか」
「殺人が起きない日はない」
「こんな死に方をするのが、普通なんですか」
「普通の定義は難しいな。ただ、《腐敗病》に侵されて死ぬよりは苦しまず、ある意味美しいまま死ねたのかもしれない」
立ち尽くしたまま沈黙した。ソーニャの曇り顔で空気が重くなっていく。だが、それは必要な重さだ。自分の常識と異なるものに出会ったとき、軽薄な覚悟では意味がない。
「……理不尽ですね。ひどく」
呟くと決心したように生唾を飲み込み、ゆっくりと遺体に近づいた。全身が強張った恐る恐るの前進だったが、片膝をついて手を組み、祈りの言葉をつぶやいた。
――どうか、安らかな旅立ちでありますように。
殺されたのに安らかな死などありえない。けれど、そうであってほしいと祈り続ける姿勢は大切なものだと思った。
ソーニャは立ち上がって遺体を見下ろす。表情は路地の陰に隠れて見えない。
「悔しいです。祈ることしかできないなんて」
「だからこそ処刑屋がいるんだ。次の被害を防ぐために。処刑されるという恐怖があれば、人は罪を犯しにくくなる」
噛みつくような反論はなかったが、納得できないのか固まったままだった。じっと死体を見つめて何かを考えこんでいる。
――その時、かすかに足音が聞こえた。
耳を澄ませなければ気にも留めない雑音だ。潜むような軽やかさで何者かが接近してくる。裸足で走っているのだろうか。周辺は石畳なのに、靴音が路地に反響していない。
悪寒がする。まともに整備されていない地面を裸足で走ればかなり痛いはずだ。それでも徹底して気配を消すのはプロの仕事である。すぐさま脳を臨戦態勢に切り替えた。
「……アストラルさん?」
ソーニャが呑気に首をかしげる。彼女の唇に指を当てると驚いたように目を見開いたが、すぐに意図をくみ取ってくれたのか黙ってこくんと頷いた。霧の濃い路地で音の反響は重要な情報だ。
にわかに路地が静まりかえる。空気が張り詰めていくのを肌で感じ、額に汗が流れた。
ソーニャは紅白の槍を握り締め、警戒するように周囲を見渡している。が、イーストエンドの戦いには慣れていないのだろう。不安になったので彼女の腰に手を回し、自分の方へぐっと近づけた。ソーニャも素直に引きずられる。
ふと、蒸気噴射音が聞こえた。身構えたが、出力が弱い。装置から気体が漏れたときのような、不吉ながらも控えめな音量だった。
得体が知れない以上、下手に動けない。後手をとっている自覚はあったが……。
……なんだ、この違和感は。
肌にまとわりつく感触が変化した。空気がさらに澱み重くなる。霧の檻に閉じ込められたような錯覚に陥った。
――離れるなよ、ソーニャ。
そう呟いたつもりだった。声が出ていない。もう一度呟いてもやはり音にならなかった。深い霧にさえぎられて、自分の口から耳までが遠くなったようになる。
まずい――そう感じた刹那、風切り音とともに霧が動いた。
それは亡霊のごとく表れ、しかし実体を持って銀のナイフを振るう。おぼろげな輪郭の殺人者が、音もなく懐へと忍び込んでくる。
粘つくような殺意。正確無比な銀の軌道。
一瞬で確信する――全力で迎撃しなければ即死だ!
「――っ!」
音にならない叫びをあげて、黒の斧でナイフを弾く。重い感触だった。火花とともにくぐもった金属音が耳を打つ。間髪を入れず追撃の一振りを入れるも、敵は幻のように霧の中に消えて当たらなかった。
――クスクス。
誰かが笑ったような気がした。少年か少女か、幼さが残りつつも不気味な声だった。
――クスクス。時代遅れの処刑屋さん。巨大な斧じゃ当たらない。
挑発に心がざわつくも、小さく息を吐いて気持ちを落ち着かせる。殺し合いは冷静さを失ったやつから死んでいく。
濃霧の戦闘で声を出すのはリスクが高い。互いに位置の把握が難しいのに、自分から場所を教えることになるからだ。だが、せっかく挑発してくれているのに、敵の居場所がまるでわからない。音が霧にさえぎられているのか方向感覚が奪われていた。
なんなんだ……この霧は……。
不可解な現象だった。三年も仕事をしていて初めての経験だ。自然発生したとは思えないのだが……。
――考え事してていいのぉ?
煽るような声とともに、再びナイフが飛び込んできた。迫る刺突を斧の側面にあてて紙一重で回避する。まぶしい火花が炸裂した。コンマ一秒遅れていれば首元に風穴があいていた。背筋がぞっと寒くなる。
また一撃離脱されたが、交錯した瞬間に少しだけ姿が見えた。背丈はソーニャとほぼ変わらないくらい。声から想像できる通り小さな子供だった。だが、殺し合いの練度が子供のそれではない。歴戦のプロを相手にしているような感覚だ。
「ソーニャ、自分の身を守ることに専念しろ。耳をすませろよ」
彼女の耳元で囁く。何か返答していたが霧に阻まれて聞こえなかった。槍を首の近くに構えているあたり伝わってはいるのだろう。
――どんどんいくよ。
また、不気味な声がささやいた。