さようなら、先生
「お願い!トイレに行かせて!」
そう叫ぶあたしの声は、震えていた。佐倉ちせ、26歳。今年初めて担任を持たされた小学校教諭。若いあたしにとって、想像を絶するストレスだった。慣れない業務、保護者からのプレッシャー、そして何よりも、子供たちを上手くまとめられない焦燥感。それらが積み重なり、あたしの心身を蝕んでいった。そして、ついに過活動膀胱という形で症状が現れた。今にもおもらしをしてしまいそうだった。
「だーめ。ちせ先生、さっきも行ったでしょ?隣のクラスより1週間も授業が遅れてるって知ってる?」
そう言うのは、クラスのリーダー格のルミだ。意地悪そうな笑顔が、目に焼き付く。あたしは、必死に尿意を我慢しようとしたが、もう限界だった。
「あっ!」
しゃぁぁあぁあぁーーーーー
静まり返った教室に、あたしのおもらしの音が響く。温かいものが、スカートを伝う感覚。床に染みが広がり、教室中に尿の匂いが立ち込める。
「ちせ先生、おもらしー!」
生徒たちの嘲笑とざわめきが、耳に突き刺さる。
「先生、今日はもう3回目だよー!そんなにもらすなら、保育園児と一緒じゃん!」
クラス全体から、笑い声が上がる。あたしは、羞恥心と絶望感で、その場に崩れ落ちたかった。
放課後、あたしは生徒たちに連れられ、ルミの親が経営する近所の保育園へと向かった。
「ちせちゃん、明日からここで園児ね!」
ルミの母親に、園児服を着せられ、砂場に座らされる。あたしは、もはや抵抗する気力もなかった。
今日からあたしは、園児になる。ルミのお古だという、くたびれたスモッグに袖を通し、ウエストゴムのスカートを履かされた。下着は、ルミが自分のお古を使われるのに反対したためか、園側が新品の150cmサイズのものを準備してくれた。鏡に映るあたしは、まるで子供に戻ってしまったみたいで、情けなかった。
保育園までの道すがら、あたしは俯きながら歩いていた。できることなら、誰にも会いたくなかった。特に、勤務している小学校の生徒や先生には。でも、よりによって、その小学校の前を通らなければ、保育園には行けないのだ。
「ちせ先生、おはようございます!」
案の定、事情を知ってる担任のクラスの生徒に見つかってしまった。あたしは、咄嗟に顔を隠そうとしたが、もう遅い。
「ちせ先生、どうしたんですか?その格好…」
生徒たちの視線が痛い。あたしは、何も言い返すことができず、ただ俯くことしかできなかった。
「ちせ先生、頑張ってください!」
生徒たちの声援が、逆にちせの心をえぐる。あたしは、早足で小学校の前を通り過ぎ、保育園へと向かった。
保育園の門をくぐると、年長組の子供たちが元気に走り回っていた。145cmのあたしは、背の高い子もいる彼らに混ざると意外にも違和感がなく、それがまた恥ずかしかった。
歌の時間、先生の歌に合わせて、恥ずかしながらも口ずさんでいると、急に尿意が襲ってきた。もう少しだからと我慢していたけれど、限界が近づいてくる。歌の時間が終わり、待ちに待ったトイレの時間になった。園児たちが一斉にトイレへ駆け込む。あたしも後に続こうとしたが、恥ずかしさから最後尾に並んだ。しかし、間に合わず、おもらしをしてしまった。
「あ!おもらしだー!」
「笑っちゃダメって先生が言ってたじゃん!」
園児たちの声が、耳に突き刺さる。あたしは、顔を真っ赤にして、俯くことしかできなかった。
「ちせちゃん、大丈夫だよ。先生が着替え持ってくるからね」
そう言って、一人の園児があたしの肩を叩いた。あたしは、園児に庇われる事態に、さらに羞恥心を覚えた。
次のお遊戯の時間、トイレに行きたい気持ちを必死に抑えながら、他の園児と同じように飛んだり、回ったりしながらなんとかやり過ごす。トイレの時間になり、トイレに駆け込むと、さっきおもらしをしたあたしを見て、
「先にいいよ。おもらししたくないもんね?」
と何人かの園児が順番を譲ってくれた。申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいになった。
(やった!間に合った)
そう思った瞬間、パンツに暖かいものが広がる。トイレの直前で、気が緩んでしまったのだ。
「ちせちゃん、またおしっこ漏らしたのー?」
園児たちの声が、耳に突き刺さる。あたしは、顔を真っ赤にして、俯くことしかできなかった。
「ちせちゃん、ドンマイ!ドンマイ!」
一人の園児があたしの背中をポンポンと叩いた。あたしは、園児に励まされる事態に、さらに羞恥心を覚えた。
お昼の給食の時間、「ちせちゃんのご飯だけ大きいね」と言われながら、短いお箸を使い、他の子と同じように少しこぼしたり落としたりしながら、半分ほど食べ終えた時、隣の席の子が言った。
「あ、ちせちゃんおもらししてるよ!」
「え?」
ちせは、何が起こったのか分からなかった。おしっこをしたいと思わなかった。それなのに、どうして?
先生が駆け寄ってくる。
「ちせちゃん、おしっこが出ちゃったみたいね」
先生がそう言うまで、ちせは自分が何をしたのか理解できなかった。
「え?おしっこしたいって思わなかったよ?どうしちゃったんだろ、あたし…」
ちせは、戸惑いながら呟いた。
「ちせちゃん、先生がきれいにするから、立ってくれるかな?」
先生の言葉に、ちせは言われるがまま立ち上がった。
「ちせちゃん、今日はずっとおしっこが出ちゃうね。もうこのサイズのお着替えがないから、おむつにしようね」
先生はそう言うと、幼児用のパンツタイプのおむつをちせに手渡した。
「え…おむつ…?」
ちせは、戸惑いながらも、先生に言われるがままおむつをはいた。
(3回も、おもらししちゃったし…しょうがないよね?)
そんな風に、ちせは自分に言い訳をした。
お外で遊んでいる時、今日はスカートがないので、おむつが丸見えだ。砂場で遊んでいると、おむつがじわじわと濡れていく感覚があった。でも、もうおしっこが出ている感覚はなかった。ただ、おむつが重くなっていくのを感じるだけだった。
「ちせちゃん、おしっこしったてるよー」
園児が無邪気にそう言う。
(そうか、もう勝手に出ちゃうんだ…)
ちせは、そんな風に思っちゃった。
そう言われても構わず、ちせは夢中で遊んじゃった。
お昼寝の時間、案の定おねしょをしてしまった。おむつがぐっしょりと濡れて、気持ち悪い。でも、もう何も感じなくなっていた。
「ちせちゃん、おねしょしちゃったね。おむつ変えようね」
先生にそう言われ、ちせはおむつを替えてもらうことになった。
一度もトイレに行けなかったちせは、先生から明日から3歳児のあひる組に落第することを告げられた。
「ちせちゃん、年長さんは早かったね。明日からはあひる組で、ゆっくりトイレトレーニングをしようね」
「あひる組って…3歳さんのクラスなの?」
ちせは、信じられない気持ちで先生に尋ねた。
「そうよ。あひる組は、まだおむつの子も半分くらいいるから、ちせちゃんも安心ね」
先生は、そう言ってちせを励まそうとした。しかし、その言葉は、ちせの胸に深く突き刺さった。
ちせは、もはや教師として教壇に立つことはできなかった。ちせは、永遠に、おむつをはいたまま、園児として生きるしかなかった。