8/3 その一
目を覚ますと、この世の楽園――屋根裏部屋だった。
「……あれ、いつの間にか寝ちゃってた?」
わたしは上体を起こして目を擦りつつ、知らない間に、体にタオルケットが掛けられていることに気づいた。そして自分の喉がカラカラに乾いていることにも、気づいた。
「水飲も……」
はしごを使って楽園から下界に降りて、食卓に行くと、そこには千和さんはおらず、代わりに泰輝くんがいた。泰輝くんはわたしに気づくなり、こんな挨拶をしてきた。
「おそよう」
「……うん? おそよう……」
この辺の方言か何かだろうか。思いつつ、時計を見ると、その挨拶に納得がいった。
正午だった。まったく、おはやくない時間だった。
「……え、ちょっと待って、もうお昼っ!?」
一拍遅れて、正午という時間を正しく呑み込んで、わたしは目ん玉が飛び出るかと思った。そりゃ、千和さんはいないわけだ。もうとっくにパートに出ている時間だ。
「お前、まじで昨日何時まで絵見てたんだよ」
「わかんない……一回も時計見てないし、気づいたら寝てたし……」
「馬鹿だろ、普通に。あんなところで寝て、夏じゃなければ風邪引いてたぞ」
「すみません、ごもっともです……。以後気をつけます……」
そうして今日という日は、昼から始まった。とりあえずまずは、昼食としよう。メニューはたまごサンドだったので、朝食という感じしかしなかった。
午前中に、泰輝くんはちゃんと一人で勉強していたらしいので(偉い)、午後はいつも通り、泰輝くんが絵を描く時間。今日は家の裏庭に出て描くことになった。とはいえ、この間のアゲハチョウのときとは違って、裏庭にある何かを題材にしたのではない。絵の具で汚すといけないから、描く場所として裏庭を選んだだけのことだ。
じゃあ、裏庭で何を描くのかというと。
「…………」
ぎらぎらと降り注ぐ日光を、パラソルで遮った中。泰輝くんは集中して、キャンバスと、その横に並べたパソコンの画面を交互に見やる。そしてキャンバスのほうに丁寧に色を加えていく。
どうやら昨夜、泰輝くんの好きな音楽のアーティストさんが、新曲のミュージックビデオを投稿したらしい。そのアニメーションMVに登場する女の子を、泰輝くんは描いている。景色にしても動物にしても、泰輝くんは普段は実物を見て描く。わたしはその姿しか見たことがなかったから、彼が画面の中にあるものを描く姿というのは、違和感がとてつもなかった。
けれど、実物を見なくても描けるというのは、すごいことだなとも思った。
「だけど、そっか……泰輝くんはこういう女の子が好きなのか……」
わたしは題材の女の子を見る。スポーティな格好をした、たぶん男子よりも女子からモテるような、かっこいい系の女の子。彼女が青空の下、グラウンドを走っている姿だ。なんというか……いや、別にアニメーションの女の子に嫉妬しているわけじゃないけど。胸がもやもやして、いい気持ちではない。
「わたし、明日からポニーテールにしようかな」
「ん? なんか言ったか?」
「別にー?」
わたしはごくごくとオレンジジュースを飲んだ。そうして数時間経って。
「うーん……」
泰輝くんが背伸びをしたので、わたしはいざ完成品を見てみる。
「…………」
キャンバスの上で走る女の子の、あまりのかっこよさに、わたしは不覚にもときめいてしまった。そして遅れて、なんか無性に悔しい気持ちになる。
女の子を描きないなら、わたしのことを描いてくれればいいのに……。
夕方になると、千和さんがパートから帰ってきた。彼女はすぐにキッチンで夕食の支度を始めると――
「あ、郵便見るの忘れてたわ。ちょっと今手が離せないから、たいちゃんか夏美ちゃん、どっちか見てきてくれない?」
「はいっ。わたしが行ってきますっ」
千和さんの頼みに、わたしは手をあげた。
外ではツクツクボウシが鳴いていた。わたしは玄関先に出て、郵便ポストを覗く。何も入っていなかったので、ポストを閉めてそのまま家に戻ろうとした、そのときだった。
「おい、見ろよ。今、キングの家から女が出てきたぞ!」
道路のほうからそんな声したので、わたしは振り向く。きっとこの場にいたのが誰だったとしても、思わず振り向いてしまうくらいの声量だった。
そこには泰輝くんやわたしと同じくらいの歳の男の子が、ふたり立っていて――そのうちの一人が、あからさまにわたしに指を指していた。わたしと目が合うと、あ、と言って流石に指差しはやめたけれど。
もしかしてだけれど、『キングの家から出てきた女』とやらは、わたしのこと? そうみたいだけど、だとしても意味不明で、反応に困る。とりあえず、わたしは聞いてみた。
「ふたりは、えっと、泰輝くんのお友達だったりするのかな?」
「ああ、そうそう。同級生で、中高と同じクラスだよ」
わたしに指さしていた、お調子者っぽいほうが答えた。
「へぇ、そうなんだっ」
思えば、わたしは家での泰輝くんしか知らない。もしかしたらこれは、家以外での泰輝くんがどんな人なのか知るチャンスなのでは? そう思って、わたしはわくわくしながら、学校での泰輝くんの様子を聞こうとした。
けれど――
「ねえ、きみ、キングの彼女?」
それに先んじて、お調子者のほうからこんなことを尋ねてきた。顔いっぱいに、にやにやしながら。わたしはきょとんと首を傾げる。
「さっきから何回も『キング』って言うけど、それって泰輝くんのこと?」
「え、知らないのか? そうだよ」
「やっぱり泰輝くんのことだったんだ。だけど、なんで『キング』?」
「ああ、そうか。やっぱ知らないのか」
お調子者は納得したように頷いてから、懐かしそうに笑って、そのあだ名の由来を教えてくれた。
「中学の修学旅行のときにな、うちの学校では王様ゲームが流行ってたんだ。それで、修学旅行の夜も徹夜で王様ゲームをやったんだが、そこで泰輝が十回とかだっけ?」
「うん、十回か十一回くらいだね」
もう一人の男の子が答えた。
「そうそう。そんくらい連続で王様を引いてさ、みんなに命令しまくったことがあったんよ。もうあの暴君ぶりは、思い出したくもないくらい恐ろしかったよ」
「僕も、もう二度と男とキスはしたくないよ……」
トラウマを語るようなふたりの表情に、相当壮絶なゲームだったんだと、わたしは想像するまでもなくわかった。
「そんなわけで、畏敬の念を込めて、その時から泰輝は『たいキング』とか『キング』って呼ばれるようになったわけだ」
「ふぅん」
なんとなく、泰輝くんの学校での姿が見えてきた気がする。
「それで、きみはキングの彼女なんか?」
改めて尋ねられたので、わたしは笑顔で答えた。
「違うよっ」
「じゃあ、彼女じゃないならなんでキングの家から出てきたんだ? ――まさか、あいつ実はめっちゃ女癖が悪いとか!?」
「いやー、それはわからないけど……とにかく、わたしはいとこだよ、いとこ」
泰輝くんの名誉のために、ここは嘘をつかせてもらった。バレるかもしれないとひやひやしたけれど、
「ああ、なるほど!」
あっさり騙されてくれた。ちょろい。
「だけど、学校での泰輝くんがそんな感じだなんて、意外だなぁ」
わたしは言う。本心からの言葉だった。
「そんな意外か?」
「意外だよっ。もっとなんというか、教室の隅の席に座って、静かに窓の外を眺めてそうっていうイメージだったからさ。次は何を描こうかな、なんて考えながら」
わたしは言ったけれど、やっぱりイメージが違ったのか、ふたりは顔を合わせて、揃って首を傾げる。
しかし、その食い違いは決して、イメージが違うとかいう次元の話ではなかった。
お調子者が不思議そうな表情で尋ねた。
「何を描こうかな、って何?」
「……え?」
今度はわたしが首を傾げる番だった。
「泰輝くんが描くものって、そりゃあ、絵しかないでしょ」
「…………」
意味がわからないという顔をされた。いや、意味がわからないのはわたしだ。
しかし、わたしの中にふと、予感が芽生える。それがむくむくと膨れ上がって、わたしは頭が真っ白になるのを感じた。
「え、嘘でしょ? まさかふたりとも、泰輝くんが絵を描くこと、知らないの?」
ふたりは揃って、首を横に振った。