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「ちょっと、そこで待て」


 夕食後、例によって千和さんの洗い物を手伝い、デザートのプリンを食べてから、自分の部屋に戻ろうと二階にあがったときだった。廊下のど真ん中に、どうしてか物干し竿を手に、門番みたいに立っている泰輝くんがいた。彼はそう言って、やってきたわたしを足止めした。

 わたしはきょとんとする。わたしを通せんぼして何がしたいんだろう。

 もしかして、この間の夜みたいに、また親に連絡しろということを言ってくるのかな。あの話をしたのは一度きりで、それ以降何も言われていない。なので油断しきっていた。まだしつこく言われるかもしれない。そうしたら最悪だ。

 わたしはぶんぶんと首を振る。いや、きっと逆だよ。たとえば、そう――告白とか。

 きゃー! 付き合うとかまだ早いよ泰輝くん! わたしたち出会ってまだ一週間半だよ!

 そんな妄想をして一人ではしゃいでいると、わたしはふと、泰輝くんが何やら変なことをしていることに気づいた。

 天井に向かって物干し竿を伸ばしていたのだ。初めは気づかなかったけれど、よく見ると、物干し竿の先には鈎爪がついている。天井にも小さな穴が空いている。その穴に、泰輝くんは鈎爪を丁寧に引っ掛けた。次の瞬間――

 パカッ、と天井が開いた。天井が開いた、としか説明のしようがない。天井のかなり広い面積が、扉のように外側に開いたのだ。


「え……」


 わたしは固まる。天井が開くその絵図が予想外で、びっくりしてしまった。

 けれど、天井が扉になっていたということはつまり――


「何この、隠し部屋……?」


 暗いけれど、その奥に空間があるのがわかる。


「隠し部屋。言い得て妙だな。まあ、屋根裏部屋ってやつだ」

「屋根裏部屋……!」


 なんとわくわくする響き。我が家にも欲しいと思って、お母さんにお願いしたことがあった。何言ってんの? 無理に決まってるでしょ? と一蹴されたけれど。


「で、この部屋が何なの?」

「わからないのか? まあいいか。とりあえず登ってみればわかるさ」


 扉の裏にははしごがついていた。泰輝くんがそれを床まで伸ばしてくれると、これで通行可能になったわけだ。


「登っていいの?」


 泰輝くんが手で、どうぞと示した。わたしははしごに手をかけて、ごくりと固唾を飲む。これを登った先に、果たして何が待ち受けているんだろう。なんだか緊張する。そんな心を落ち着けて、ゆっくりと、一歩一歩登っていった。

 床にスイッチがあったので、ぱち、と電気をつけると――わたしは息を呑んだ。

 もしこの世に楽園が存在するとしたら、それは間違いなくここのことだろうと思った。ここはわたしの理想郷だった。

 天井の低い部屋に、所狭しと並べられている――たくさんのキャンバス。小さなキャンバスから、どうやってここに運び込んだのか不思議なくらい大きなキャンバスまで。それぞれにわたしの想像を超える世界が描かれている。

 わたしは呆然と、わたしを囲う無数の絵たちを見回す。人の姿が描かれている絵が目立つ。しかし一口に人の姿とは言っても、リアルな肖像画もあれば、アニメ調のデフォルメされたものまで多岐に渡る。人以外にも、動物。たとえば、顔をだらしなく綻ばせた大型犬。鏡のような湖面を泳ぐ優雅な白鳥。それから風景画。ひつじ雲の流れる穏やかな青空。大きくうねって、岩に打ち付ける白波。数え切れないほどあって、目が眩む。

 ひと目見てわかった。ここにある絵は、すべて泰輝くんの描いた絵だ。ここまで色が踊って、光が弾けていて、わたしの心を奪うことのできる絵は泰輝くんの他にない。泰輝くんの絵からしか得られない喜びが、胸の奥から溢れて止まらない。


「すごい……すごいよ、泰輝くん……! 泰輝くんがいっぱいあるよ!」

「俺は一人しかいねえよ」


 わたしははしごに振り返る。ツッコみつつ、泰輝くんも登ってきていた。


「これ全部、泰輝くんが今までに描いてきた絵たちでしょ?」

「そうだ」

「どうして急に、見せてくれる気になったの? ずっと見せてくれなかったのに」

「別に深い理由はねえよ。そろそろいいか、ってふと思っただけだ」


 そう言って、帽子を目深に被り直す泰輝くん。それを見ると、わたしはもう我慢できなかった。

 両手を広げて、がば、と泰輝くんに抱きついた。いきなりのことに、泰輝くんの呼吸が止まる。しかしそれは一瞬のこと。すぐに我に返ると、


「え、ちょ、なに、急に……」


 と、珍しく慌てふためいて、わたしの腕の中で身を捩る。けれど、わたしはぎゅっと抱きしめて離さない。

 この絵たちを見せてくれたことが、わたしはとにかく嬉しくて嬉しくて仕方がない。けれど、この喜びと感謝を伝えるには言葉じゃどうしても足りなかった。こうすることでしか、この焦がれるほどの思いを伝えられなかった。


「ありがとう、泰輝くん。わたし、もう泣きそうなくらい嬉しいよっ!」


 わたしは間近で、泰輝くんの顔を見上げて言った。


「あ、ええっと、ああ、そうか。それは、よかったよ」


 泰輝くんは今度はぐっと上を向いて、やっぱり表情を見せてくれなかった。むう。わたしも泰輝くんの喜んでる顔が見たいのに。

 ただ、まあ、仕方ない。これが泰輝くんなんだ。泰輝くんの喜んでる顔は諦めよう。その代わり、これから泰輝くんと一緒に絵を見て回って、絵の解説とかをしてもらおう。まだくっついていたい気持ちもあったけれど、そう思って泰輝くんを開放する。

 けれど、開放されるが早いか、泰輝くんは思いも寄らない行動を取った。

 さっさと踵を返して、


「んじゃ。喜んでくれたなら何よりだよ。後はお一人で、ゆっくり楽しんでくれ」

「あ、ちょっと待って」


 わたしが手を伸ばしたときには、はしごを降り始めていた。そんなところを無理やり止めたら危ない。それがわかるくらいの冷静さはあったので、止められなかった。

 わたしはしばらく、誰もいないはしごを見る。泰輝くんを追おうとも考えたけれど、思うだけで足は動かなかった。ちょっと、失敗しちゃったかな。流石にいきなり抱きつくのは、嫌がられちゃったかもしれない。せめて予告してから抱きつくべきだったかな。そんな反省をしつつ、振り返る。


「いやー、でもこんなの見せられて、我慢しろっていうほうが無茶だよね」


 わたしを囲む絵たち。どの絵も、わたしを見て! 僕を見て! と主張するように美しく輝いている。

 うん、素晴らしすぎる絵を描く泰輝くんが悪い。


「ああ、どれからじっくり見よう……」


 どれも見たいから、悩ましい。けれど悩むこの時間すら輝いている。そうして順番に見ていくと、その中で、不意に目に留まった絵があった。

 薄紫色の花の絵だった。茎に連なるように咲く、小さな薄紫色の花。忘れるはずもない。倒木に押し潰された小屋のそばで見つけた、あの花だ。名前は確か、アキノタムラソウ。夕方の静かな色。森の匂いが風に乗って運ばれてくる。わたしは気づけばすべてを忘れて、花の世界に入り込んでいた。

 その後、定期的に屋根裏部屋に帰ってくることはあるけれど、わたしは基本的にはずっと絵の世界に潜り込んでいた。そして我に返っても、鑑賞をやめるタイミングが見つからない。そろそろ自分の部屋に帰って寝ようと思っても、あと一枚、あと一枚と、SNSで画面をスクロールする手を止められないみたいに、気づけば延々と絵を見ている。

 結局、どれくらい絵を鑑賞していたのかはわからない。そうやって没頭していたのが最後、それ以降の記憶がないから。

 翌朝、わたしは屋根裏部屋で、一枚の絵を大事そうに抱えて、幸せそうに爆睡しているところを発見されたという。それ以降、わたしは泰輝くんの付き添いがなければ、屋根裏部屋入室禁止となった。『泰輝くんの絵依存症』防止のためである。

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