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7/23 その一

 ピコ……

 せっかく鳴ってくれた目覚まし時計には申し訳ないけれど、わたしはベッドから手を伸ばして、カチッと一音目で止めた。見ると、表示されている時刻は五時半。早朝だ。

 なのに、わたしの目はぱっちりと開いていた。実はベッドに横になっていただけで、そもそも眠っていなかったのだ。

「眠ろうと努力はしたんだけど、一睡もできないまま朝になっちゃった……」

 あーあ、と眠くもないのにあくびをしながら、昨夜のことを思い出す。

 ベッドの中。ごろごろ寝返りを打つわたしの頭と胸は、こんな考えでいっぱいだった。


 明日はどこに行こう。東京とかどうかな。渋谷とか行ってみたいし。いや、逆にド田舎も捨てがたい。ああ、どうしよう……! わくわくが止まらない!


 簡単に言うと、今日のことが楽しみなあまり、寝付けなかったというわけだ。

 そして、楽しみなのは今も同じ。気づけば自然と口角が上がっている。

 わたしはぴょんと起床して、準備に取り掛かる。ベッド脇に倒してあるスーツケースを開けて、改めて中身を確認する。忘れ物がないかどうかそわそわして、昨夜も十回ほど確認したのだけれど――そもそもの持ち物リストのほうも、抜けているものがないか五回くらい確認したのだけれど――念には念を入れて、もう一度確認しよう。


「たぶん、車の整備点検でもここまではしないよねー。ともあれ、これはある、あれもある……モバイルバッテリーは充電済みだし、日焼け止めもちゃんと二本ある。パンツだけ一枚少ないみたいなことは……大丈夫だね。よし、じゃあ後は――」


 財布を取り出す。ぱかっと開けると、わたしはその神々しさに目を細めた。

 かつて見たことのない数の諭吉が綺麗に整列していた。


「これだけあれば、流石にしばらくは持つでしょ……!」


 今日のために、あれこれ手を使って、こっそりと長年(十七年分)のお年玉を手元に回収していたのだ。


「うししししっ……!」


 つい悪そうな笑い方をしてしまってから、はっと口を押さえる。危ない危ない。あんまり声を出してしまったら、家族を起こしてしまう。まだ静かにしてないと。

 大きく深呼吸して、落ち着いてから、荷物がすべて揃っていることを確認した。それからふと、まだ窓のカーテンも開けてないことに気づいた。音を立てないようにゆっくりと開ける。

 静かな窓だった。七月なので外は既に明るいけれど、そうは言っても早朝である。人の声や車の音はほとんどしなくて、代わりに聞こえてくるのは鳥の歌声。綺麗だった。

 振り返って、朝日の差す机の上を見やる。そこには、昨日のうちに書いて置いておいた、一枚の紙がある。


『旅に行ってきます。夏休みが終わるまでに帰ります』


 ――わたしは今日、旅に出る。

 行き先はわからない。まだ決めていない。しかしとにかく、ここではないどこかへ行きたい。

 たとえば、一日中電車に乗ったらどこまで行けるのか。

『線路は続くよどこまでも』という歌があるけれど、あれは本当なのか。

 それを確かめてみたりするのはいいかもしれない。

 沿線にはどんな景色が広がっているんだろう。今日は天気がいいから、きらきら美しい海とか、風に波打つ若草色の田んぼとか、濃い緑を青空に伸ばす山とか見えるのかな。見えたらいいな。

 尽きない想像に胸を膨らませながら、残りの支度に取り掛かった。

 高二の夏休み初日のことだった。




 廊下は静かだった。流石にまだ家族はみんな寝ているみたい。けれど、いつ起きてきてもおかしくない時間だ。わたしは家族を起こさないように、荷物を大事に抱えて、猫になったつもりでそろりそろりと玄関に向かう。

 家族には旅のことは秘密にしてある。言ったりなんかしたら、お兄ちゃんやお父さんは止めないかもしれないけれど、お母さんは絶対に駄目だって言うから。お母さんは厳しいのだ。つい昨日も、学校の成績表のことで怒られたばかりで、おやつ禁止令まで下されたくらいだ。

 おやつはわたしの生命線である。確かに成績を落としてしまったことは悪いことだけれど、それに対する罰として、おやつ禁止はやりすぎだと思う。

 そんなわけで、こっそりと禁止令から逃れるように旅に出る。

 しかし、玄関に近づくにつれて、わたしはだんだんと不安になってくる。


「本当に無断で旅に出ていいのかな……?」


 わたしはまだ高校生だし、危ない目とか怖い目に遭う可能性だってあるよね。怪我とか病気とかしたら、どうしよう。ちゃんと保険証は持参してるけど、そのとき近くに病院がなかったりしたらどうしよう。

 わたしの中には悪い妖精さんが棲んでいる。悪い妖精さんは、不安になったり緊張したりすると決まって出てきて、わたしにまとわりついて怖い想像をさせるのだ。

 どうしよう……。いままであんなに輝いて見えた旅というものが、今はもう、先の見えない暗闇に自ら足を突っ込むようなものにしか思えない。


「やっぱりお母さんの許可を取らないと、よくないよね……」


 気づけばわたしは立ち止まっていた。玄関だった。扉は目の前、手の届く距離にある。旅に出るには、あの扉を開けて、一歩外に出るだけ。簡単な動作だ。

 なのに、わたしの目の前には見えない壁があった。頭では思い浮かべられるのに、手も足も動いてくれない。

 気づけば、踵を返して廊下を戻っていた。

 やっぱり駄目だ。女子高生の一人旅とか、どう考えても危なすぎる。どうしてこんな怖いことを平気でしようと思っていたんだろう。旅は中止だよ、中止。そうして頭を冷やして進んでいると、

 ガタン、と音がした。一瞬遅れてわたしの肘に痛みが走った。考えながら歩いていたから、前をちゃんと見てなかった。若干開いていたトイレの扉に、思い切り肘をぶつけてしまった。

 いてててて、と肘をさする――けれど、そうしていられたのはほんの一瞬だった。


「ものすごい音したけど、大丈夫?」


 はっとした。廊下の奥、お母さんの部屋から声がしたのだ。

 お母さんはもう目を覚ましていたんだ。まずい。お母さんが不審に思って部屋から出てきたら、この大荷物を見られてしまう。そうしたら――なんて言い訳をしよう。

 わたしはぶんぶんと頭を振る。言い訳を考えている場合ではない。ダッシュで廊下を駆け抜けて、見つかるまでに自分の部屋に滑り込めればセーフだ。それか、あるいは。


 いっそのこと、ダッシュで玄関から飛び出して、旅に出てしまえば――


 わたしは振り返った。玄関はまだ遠くない。自分の部屋とどちらが近いかと言えば、まだ玄関だと思う。迷う時間はない。進むか戻るか、早く決めないと。逸る頭で考える。

 ――それはものすごく勇気のいる一歩だった。けれど、思い切ってその一歩を踏み出してしまえば、あとはわたしのものだった。


 わたしは、旅に出たい――!


 走り出した。今更音なんて気にしていられない。ばたばたと走って、さっと靴を履いて、がちゃっと扉を開けて。

 たったったっ、とそこからも走り続ける。

 状況に後押しされてだけれど――わたしは悪い妖精さんに打ち勝った!

 高く晴れ渡る青空。夏の匂いをいっぱいに吸って、満面の笑みで駆けていった。


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