3話 頬の傷跡
ジャンは家に帰ってくると、リビングのソファーに座りフルールが怪我をした日の事を思い出そうとしていた。
目の前のテーブルにあったウイスキーの瓶を、台所の隅に持って行き、ついでに顔を洗った。濡れたままの姿でソファーに座り、袖で顔を拭った。朝は気がつかなかったが、目の前に小さな血溜まりを見つけた。
ジャンは目の前が真っ暗になった。
自分の娘に大怪我を負わせ、呑気に朝まで寝て仕事に行き、言われるまで気付かないなど、俺は親なのか?いや、人としてどうなんだ?今まで何をしてきたのか?
いくら自分を責めても起こった事実は覆らない。
ジャンは気を取り直し、風呂に入り寝室に向かった。
一睡もできず朝を迎え、休みを貰うために職場に行くことにした。
職場のギルドから診療所に直行し、昨日聞けなかった事を医者に聞くことにした。
「残念ですが、お嬢様の左頬には傷が残り、後遺症もあるでしょう」
「···傷は目立ちますか?」
「はい。傷は深いので、お化粧しても隠しきれないと思います」
「···後遺症というのは?」
「神経が傷ついているので、口が開けにくくなるかもしれません」
「·····」
医者は遠慮がちに言ったが、今の状況を正確に伝えた。
ジャンは失意の中、しばらく椅子から立ち上がれなかった。
医者は無言で立ち去り、看護師に部屋に立ち入らないようにと、小声で指示を出していた。
小一時間は経ったのだろうか···
我に返ったジャンの顔色は悪く、足も震えていたが自分の目で、フルールの様子を見に行くことにした。
フルールは意識が戻っていた。
話にくいのか、左手を左頬にあてゆっくりした言葉で、オリビアと話をしていた。
フルールはジャンの顔を見て怯えていた。
「フルール、謝って済むことではないが、すまなかった」
「···」
ジャンの言葉にフルールは答えられなかった。
フルールは涙が溢れ、傷に障るのか顔を歪めていた。
「父さん、フルールが怖がっているので、今日は面会を控えて下さい」
ペテルに諭され、ジャンは家に帰ることにした。
「わかった。ペテル、オリビア後は頼む。必要なものがあれば届けさせるので、言ってくれ」
と言い残しジャンは病室を出て行った。
ジャンはふらふらと街を歩き、気が付けば行きつけの酒場の前に来ていた。
「まあ。ジャンさんいらっしゃい」
女給が声をかけてきた。
「ああ」
「いつものでいいわね」
女給は注文を通そうとすると
「いや今日は果実水を貰う。後は何か腹に溜まるものをくれ」
「まあそうなの。禁酒中なのね」
ジャンの言葉に女給は明るく答えた。
果実水を飲み干し、食事を終えると真っ直ぐに家に帰った。
家に帰って来たジャンは、静かな家の中を眺め、疎外感を感じていた。
家に帰れば妻や子がいて、騒がしいながらも暖かい気持ちになる。自分を待っている者がいる。
いつの間にか家族を支配し、自分の思い通りにならなければ、暴言や暴力を振るう。
これではまるで暴君ではないか。
家族を守るのが父親の役目ではないのか。
自らが傷つけるとは。
取り返しのつかないことをしてしまった。
悔やんでも悔やみきれなかった。
「俺は何て事を···」
頭を両手に抱えたジャンのつぶやきは、家の暗闇に消えて行った。
翌日、フルールの熱が下がったので、付き添っていたオリビアとペテルは家に帰って来た。
オリビアは台所や、リビングにあったフルールの血の跡のなど忙しく片付けをしていた。
ジャンはギルドに出勤しているらしく、家には誰もいなかった。
片付けも少し落ち着き、オリビアとペテルはリビングで話をしていた。
「お母さん、お話があります」
「なにかしら」
「僕は、王都の建築の専門学校に行きたいと思っています。そして建築士になって独立し、家を出ようと思います」
「···貴方の思うようにしなさい」
「できれば、お母さんとフルールと三人で暮らしたいと思います」
「私はお父さんがいるから、難しいと思うけど、フルールには聞かないとわからないわね。でもペテルと一緒なら私は安心だわ」
「お母さんも考えておいて下さい」
「ありがとう。わかったわ」
妹と母を横暴な父から守るためペテルは決心していた。
王都の建築士になるための専門学校は、12才から16才までの4年間の全寮制の学校で、卒業と同時にギルドに登録することができる。
入学するのも卒業するのも難しい学校なので、卒業の証があればギルドで優良な仕事を斡旋してくれ、収入の心配がない。
来年はペテルも受験資格のある12歳になる。
今から猛勉強をし、母や妹のために超難関の専門学校を目指すつもりでいた。
数日後フルールの容態が落ち着き、傷の痛みも薬が効いているので、診療所から退院の許可が降り、自宅に帰ることができた。
家に帰ると傷を受けた時のことを思い出すのか、しばらくは自室に籠り食事を取っていたが、今日からは家族で食事ができるようだった。
父のジョンも最近は帰宅後すぐにお酒を飲むこともなく、静かに家族と食事をし、家族が寝たのを見届けてから、飲酒をしているようだった。
習慣は抜けないようで、ジョンにとって断酒をすることは難しいようだった。
お酒を楽しむことに問題はないが、過ぎるとろくなことがない。
ましてや我を失ってまで飲酒を続けるのは、酒を嗜まない者にとっては、理解できない。
息子のペテルは父の飲酒に嫌悪感を抱いていた。