第二話 命と幸せ
なかなか筆が進まない...。
まさか、この青年が死神とはなぁ...。簡単に信じられるかと思いつつも、その重苦しい気配や背中の翼は、否応なしにそれが真実であることを突きつけてくる。
「...死神タナトス、か。」
「おや、私のことをご存知で?」
「...冥王ハデスの部下にして、原初の神である夜の女神ニュクスの息子、だったか。」
俺の言葉にタナトスが目を見開く。どうやら俺がここまで神話に詳しいとは思っていなかったらしい。
「...よく、ご存知で。」
「まあな。」
隠すことでもないが、俺は神話オタクだ。ギリシャ神話に始まり、北欧やエジプト、スラブや中国、日本など、大抵の神話なら内容を覚えている。
しかし、妙だ。タナトスは、神話では冥王ハデスの腹心の部下。分かりやすく言うなれば家柄も能力も地位も高く、重鎮にも認められている有能政治家だ。それなのに、俺のような普通の人間が死んだところで、わざわざ迎えに来るだろうか?
疑問は募るばかりだが、どうやらタナトスは話してくれないらしい。
.........仕方ない、か。
「...俺を迎えに来たんだったよな?」
「はい。」
「......ちゃんと案内してくれよ?この暗さじゃちょっと離れただけでお互い見えなくなるからな。」
「お任せを。」
......はぁ。やれやれ。何でこんなことになったんだ?
♢♢♢
移動中、何の話もしないというのはさすがに苦痛だったので、タナトスの話せる範囲ではあるが、神々やこの世界のことを聞いてみることにした。
どうやら少しの違いはあれど、基本は俺が知っているギリシャ神話によく似ているようだった。例えば神々の王はゼウスだし、オリンポス十二神はそれぞれ神話と同じものを司ってるし、もちろんハデスはタナトスの上司だという。
しかし、タナトスは、人間界のいわゆる『科学』を否定しなかった。
「もちろん地震はプレートの動きや断層の働きによるものですし、虹は光がプリズムに反射したものですし、全ての物質は原子から構成されています。」
「じゃあ、神々ってのは何をしてるんだ?」
「我々神は、世界のシステムを一から作っているのです。あなたの世界を担当したのは...あ。」
......ん?
「あなたの......世界?」
タナトスはしばらく逡巡するような仕草を見せたが、溜め息をついた。
「...この話は私の口から言うべきではないことです。いずれ、時が来れば知ることもあるでしょう。......それより、着きましたよ。」
その声に釣られ、俺はタナトスに向けていた視線を前方に送った。
灰色の靄の中にそれはあった。
「......でっ......か.....。」
「こちらが冥王ハデス様の御座所、城塞都市シェオルにございます。」
.........おいおい、いくらなんでもデカすぎるだろ。エベレストなんて目じゃないんじゃないか?
しばらくの間、俺はシェオルのあまりの迫力に目を奪われていたが、タナトスの声で我に帰った。どうやら、俺たちの目的地はこの城のようだ。
「ささ、こちらへ。」
「......お、おう。」
音もなく城門が開くと、信じたくない光景が広がっていた。城があまりにも大きく見えた理由は、これまた大きすぎる城門に隠れて見えていなかった、果てしなく続くようにも見える石造りの階段だったのだ。
そう、城は果てしなく大きいのではなく、果てしなく高い位置にあったのだった。
「......おい、タナトス。......まさか、上まで登れって言うんじゃねぇだろうな......。」
「さすが神川殿、察しがいいですね。その通り、今から我々はこの階段を全て登ることになります。」
「...おい、ウソだろ。」
「ちなみに、この階段は全部で1万3000段ですから、かなりキツいと思いますよ。」
「は?おいちょっと待て。」
「では登りますか。」
.........おい、マジかよ。
出来ればこの階段を登るのは遠慮したかったが、そうも行かないようだ。翼の生えているタナトスすら階段を登らざるを得ないのは、シェオルの、そしてハデスの特殊な役割のためだという。
何でも、冥界は、日本で言うところの地獄である、奈落タルタロスの一階層上に存在する空間であり、タルタロスに幽閉している魔物が万が一にも逃げ出したとしたら、それを追うのはハデスの役割らしい。魔物のなかにはもちろん、地上を動くものもいるが、空を飛ぶ厄介な魔物も存在する。
魔物たちは、自分たちを罰した神々に強い恨みを抱いているため、シェオルを襲撃しに来る可能性もないとは言えないのだとか。そのため、城壁より内側の空には、魔法がかけられており、何者かが空を飛ぼうとすると、すぐに撃墜できるようになっているそうだ。
「だからお前も飛べないのか、タナトス。」
すると、タナトスは溜め息を吐き、
「そうなんですよね。ハデス様は我々を厚遇して下さるので不満はほとんどありませんが、この階段はちょっと......。」
と言いながら視線をわざとらしく下に降ろした。
......ん?まさかこいつ、浮いてる...?
そう思って再び顔をあげると、
「......ふふっ。」
......ったくこの野郎。まさか歩いているふりをしながら、浮いているとは。道理で全く疲れていないわけだ。さすが死神、食えない奴め。
しかし、タナトスが浮いているから疲れないのはいいとして、俺も全く疲れないな。やはり、俺が死んでいるからか?
......だとしたら、この肉体は何なんだ。仮に死んでるとしたら、俺の死体はもう火葬されてるはずだ。...特殊な職業だったから、ちゃんと火葬されるか分からんが。
そんな風に思慮を巡らせていると、いつの間にかシェオルの内門が見えてきた。さすがに先ほどくぐってきた巨大な城門よりは小さいが、十分な威圧感を湛えている。
「では、参りましょうか。」
♢♢♢
「...おい、まだ歩くのかよ。」
内門をくぐるとすぐ城内なのかと思いきやそうではなかった。どうやら冥界の生き物たちが暮らす場所らしい。暗いので色が判別しづらいが、恐らくは灰色の石で作られた、小山のような大きな壁を取り巻くように、石造りの大通りが螺旋のように上まで続いており、その両側に多くの建物が立ち並んでいる。
建物は家だけではなく、商店や酒場などもあるようだが、そこまで活気がある様子ではない。静かだが、陰気ではない、落ち着いた雰囲気の町だ。
「ここはシェオル城の城下町で、名をエリュシオン。生前正しい行いをした者たちが神の眷属となり、暮らしている場所です。」
「とすると、ギリシャ神話の英雄たちが住んでいたりするわけか。」
「英雄たちはもちろん、名君と呼ばれる為政者や、多くの命を救った医師など、高名かつ行いも魂も善良だった人間もいます。」
......高名な、か。
「高名でなくとも善良だった人間たちも、この街からそう遠くない場所に小さな町を構えて住んでいますよ。」
名が売れていることが必要なのかと微妙な表情を浮かべた俺に気づいたのか、タナトスがさらに補足する。有名無名にかかわらず、善良な人間が報われるというのは嬉しいことだな。......俺は救われなさそうだが。
「いずれにせよ、あなたはこの場合のどちらにも当てはまりませんが。」
......やっぱ地獄、いや奈落か、俺は。
「先に言っておきますが、地獄でもございません。何せあなたは、“特例”ですので。」
「“特例”...。」
どうやら奈落行きは免れたようだが、代わりに面倒事に巻き込まれそうな気がしてきた。
そんな話をする内に、俺たちはいつの間にか階段を登りきっていた。
「おお......なるほど、これは綺麗だな。」
階段の先にあったのは、大きな庭園だった。手入れされた木々が道の両側に等間隔で植えられ、道でないところは芝生と小さな花に覆われている。さらに奥には木々が生い茂っているようだ。
「道の両側の木々は白いポプラの木、芝生に生えているのはミントで、奥に見える林は柘榴です。」
「なるほど、レウケー、メンテーと冥界の柘榴か。」
これらの植物には、ハデスに関わる伝承がある。
白いポプラは、ハデスに見初められて冥界に来たレウケーと呼ばれる女性の神が、ハデスらのような不死の神ではなかったために寿命を迎えてしまった際、悲しんだハデスによって変えられたレウケーの姿であると言われている。
ミントは、ハデスの不貞相手であるメンテーを、ハデスの妻であり、豊穣の女神デメテルの娘ペルセポネが変えた姿とも、ハデスに目を付けられ、拐われかけていたメンテーを、同じく拐われて妻にされたペルセポネが憐れんで変えた姿とも言われる。
柘榴は多くの人も知るように、ペルセポネが一定の期間を冥界で過ごさなければならなくなった直接の理由である。というのも、冥界の食べ物を口にすれば、一年の1/3を冥界で過ごさなければならないという決まりがあり、ペルセポネはそれを知ってか知らずか、ハデスによって差し出された柘榴を食べたがゆえに、冥界で4ヶ月生活することになったのだ。
タナトスは目を見開くと、道の側に根を広げている、大きなポプラに触れて言った。
「やはりお詳しいですね。......このポプラたちは、レウケー様の変化した株が、この冥界のハデス様の庭で何千年、何万年、何億年の時を経て命を紡ぎ続け、このように今でもこの美しい姿をこの庭に止めているのです。」
そう言いながらポプラに触れるタナトスは、急激に老け込んだようだった。つい先程までは、落ち着いているが少し意地が悪く、子供らしさを多分に残した快活な青年だ、というような印象だったが、今のタナトスは、容姿は全く変わっていないのに、まるで幾人もの知己をすでに喪い、生きる意味を見失った老人のように見えた。どこか懐かしむような表情をする彼を、俺は見ていられなくなった。
その皺一つない顔には、確かに数億年分もの経験が、悲嘆が、歓喜が刻まれているのだろう。何人もの人間を殺してきた俺だからこそ、人の命は儚いもので、死ぬことは恐ろしいことだと無意識に思ってきた。出来るだけ長く生きていたい、と。
しかし、目の前にいる不死の存在を見ていると、有限な人生しか生きられないはずの人間よりも、彼らの方がよほど儚いものだと思い知らされた。静かな城下町に住む神の眷属たちがあれほど落ち着いているのも、それが理由なのだろう。生まれ変わるわけでも、全く消えてなくなるわけでもない。永遠の生を虚しいものだと知りながら、永劫と流れる時間を、ただ存在しているのだ。
それって、幸せなのか?
答えの出ない問いだと分かっていながらも、俺はそれを考えざるを得なかった。
.........幸せ、ってなんなんだろうな。
......いや、考えていてもしょうがない、か。
そう思い、再び顔をあげると、何かを愛でるようにポプラを撫でているタナトスは、目尻に微かに涙を浮かべていた。
「レウケー様は......本当に健気な方でした。ハデス様は滅多に誰かに心を開く方ではありませんが、レウケー様はハデス様のことをよくお分かりになられていた。......本当に。」
遠い目をしたタナトスがふと視線を空に向ける。釣られて俺も上を見た。冥界の殺風景な空でさえ、今のタナトスの心よりは鮮やかにも思えた。
「.........あ、これはペルセポネ様には内緒ですよ?私が怒られてしまうので。」
そう言ったタナトスにさっきの悲しみの影はなく、すでに若々しい青年に戻っていた。
「では、城の中に参りましょう。我が主君、冥王ハデス陛下があなたのことをお待ちです。」
その言葉と同時に、城の正門が軋み、大きな音を立てて開いた。
......いよいよ、か。
気を引き締めた俺は、一歩を踏み出した─────。