待ち遠しき夜明けの話
季節は夏の真っ盛り……からは少し下り坂。
なぜか、というほどの理由もなく、俺は不意に目を覚ました。
外は真っ暗。日の出の時間を考えると、まだ4時くらいだろうか。
いつも通りに寝ぼけとは無縁の目覚めをした俺の目線は、どんな時に見ても見間違うことのない真っ赤な宝石とぶつかってしまった。
「……どうかしたの?」
残暑の厳しい夜はクーラーをつけながら寝ることもあったが、ハクと一緒に住むようになってからは、そういったことはしていない。
ハクの結界は寝ているときでも維持できるらしく、マンションの一室でしかないはずの我が家は信じられないほどの断熱性と防音性を常時保っている。
つまるところ、ハクが来てからはどんな気温でも快適に睡眠をとれる環境ができあがっているのだが。
「……これは、めずらしいのう」
それでも、ハクが時折目覚めてしまうことは知っていた。
中途覚醒や早朝覚醒というのは、様々な要因で起きるものだと俺も知っている。
ハクが起き上がった時には、おおよそ寝たふりをして過ごしているのが通例だったわけだが、当然今のような行動を起こしたことは無い。
驚きに目を見開いた彼女は、その後いつものように目を細めて俺の顔をじっと見つめている。
彼女の寝起きは悪い。それは夜中に目覚めた時でも同じで、寝床でもぞもぞとしている様子は何度も感じた。
つまり、こんなふうにはっきりとした意識と口調を保てるのは、目覚めてから半時間以上たっている証拠となる。
「見てたの?」
「うむ。おぬしが寝ているときは、おおよそこうしておる」
バレてしまっては仕方がない、とでもいうのか、ハクはあっさりといつものことだとうなずいた。
いまさら寝顔を見られて恥ずかしがるような年でもないが、かといって見られていたとなると複雑な気持ちにはなる。
「楽しいの?」
「少なくとも、飽きたことは一度たりとて無いのじゃ」
「いつまでも見ていたいと、そういうことだね」
うっすらと、唇の端に笑みを浮かべたハクは満足そうに尻尾を揺らす。
おぬしだってそうじゃろ。とは口には出されずとも伝わっているし、俺がそうでなかったらそれを代弁するようなことは言わない。
ただ、ほんの少し不満を抱えてしまうのは仕方がないだろう。
「どうしてじゃ?」
「……一度もそんなそぶりを見せなかったから」
嬉しい、楽しい、愛おしい、喜ばしい、恋しい。
俺がハクの寝顔を見た時は、様々な感情が浮かんでしまうものである。
当然そうなった俺の様子を彼女が見逃すわけもなく、ひとつ軽口をかわすのが定番となっている。
「おぬしは、感情を隠すのが下手じゃからのう」
「ハクが上手すぎるんだよ。まっすぐな妖狐のくせに」
「そういうおぬしは、考えるのが上手な人じゃな」
ニコニコニコニコ、ハクの上機嫌さはとどまるところを知らない。
そういえば、こんな風に相手の本質をつつきまわすような会話をしたのはいつ以来だろうか。
おおよそ相手のことを知ってしまって、つつけば蛇が出てきそうな部分しか残らなくなって、段々と減っていった。
分かっている。彼女はいつだって待っている。俺の変化を。俺の覚悟を。
……まあ、後悔などすべき時間はとうの昔に過ぎているし、そんな無駄な時間を過ごす気もない。
「ハクがいいなら、いいんだけど。もしかして、前に隠し事してたのって、これ?」
「そうなるのう。まだバレておらんかったし、もう少しは楽しもうと思ったのじゃが」
「別に、いくらでも見ていいよ?」
「わしの気が済まぬ。こういうものは、秘め事だからこそ甘美なものじゃ」
童女のような、遊女のような、仙女のような。
どれともつかないが、どれとも思えるような笑みを浮かべたままで、ハクはつぶやく。
こういう時のハクは、想像以上に頑固だ。もう少し肩ひじを張らずに過ごしてもいいと思うのだが、彼女の気質からは難しいらしい。
これ以上は何も言うまい、と一つため息を吐き、空の暗さに眠気を思い出す。
「俺はもう少し寝るけど、ハクはどうするの?」
そう言いながら布団を静かに持ち上げて、隣に入らないかと無言でハクを誘う。
思えば、こうするのは初めてかもしれない。他人がしている分には大胆な行動だなと茶化すかもしれないが、俺たちの仲ではそういった空気は一切存在しない。
「……ふふ。そうじゃな、お邪魔するのじゃ」
静かに布団の中に滑り込んできた温もりに、ほのかな安堵とたまらない愛おしさが湧いてくる。
なるほど、これは大胆だ。今すぐにでも彼女を抱きしめたくてこらえきれない。
小さく胸の前に手をそろえて、甘い視線を俺の顔から離さないハク。
狭いと感じたことは無い、一人で寝るには余裕のあるセミダブルのベッド。
男の中では小柄な俺と、さらに小柄なハクが一緒になったとしても、そこまで窮屈さは感じない。
それに、なんだかんだと恋人として過ごしてきた俺たちにとってこれくらいの距離感は何度かあったことではある。
それなのに、同じ布団にくるまっているということだけで、こんなにも心が揺れるものか。
「くふ、くふふ。せわしないようじゃな、おぬし?」
「冷静になると良くない気がするけど、冷静でないのもよくない気がする。二律背反って感じ」
からかうような声でささやかれると、本当に理性がしびれそうになる。
今すぐにでも抱きしめて頬ずりしたいし、頭や耳や尻尾を撫でくりまわしたい。あ、でも尻尾はだめなんだっけ。
本当に悲しいことだが、ハクの香りと体温を五体で味わっている今もなお、性欲と呼べるものは爪先の垢ほども感じられない。
尻尾を撫でてそういう雰囲気になったとしても、俺は応えられないのである。
しかし、この愛情は間違いなく本物であり、理性を保つのには苦労しているわけで。
「よいぞ」
「……え」
「わしも、同じ気持ちじゃ。おぬしと居るときは、安らぎのほうが勝つ」
温かく、柔らかな視線の中に、湿っぽいものは一切なく。ハクは淡々と、リラックスした口調でそう告げた。
ある意味では、男として尊厳を傷つけられたとみるべきかもしれないが、同時に、この場では都合が良過ぎると思わなくもない。
そこまで考えてもなお、ハクにそういう行為をされてもなにも反応しないだろうと確信する俺では、ハクの気持ちを否定できない。
「……すごく冷静になってしまった」
「一周回ったようじゃの」
あれこれ考えている間に、うっすらと窓の外が明るくなっている。
眠気などどこかに飛んで行ってしまったが、同時にハクが腕の中にいるこの時間はもっと堪能していたい。
結局悩みは尽きないが、それでもハクを抱きしめていると幸せになれる。
いつだってそうだし、これからもそうだろう。
「……のう、カカル」
「……なに、ハク?」
軽く目を閉じたハクが、急に名前を呼ぶ。
少し驚いたが、それだけだ。
かつて恐れていたような感情は微塵もない。
「わしは、朝が嫌じゃった」
静かに、ハクを抱きしめる力を強くする。
「毎日、朝が来るたびに憂鬱でな。何度も、朝なぞ来るなと思うておった」
俺は、何も言わない。
「それでも、朝は来るものじゃ。生きておる限りは、の」
優しく彼女の頭を撫でれば、くすぐったそうに笑う。
「くふ。じゃから、わしは……」
ゆっくりと開いた、透き通った真っ赤な瞳。
その中には俺しか映っていない。
「わしは、朝が好きじゃ。おぬしと一緒ならば、はよう朝が来いとさえ思う」
彼女が、俺の腰に腕を回す。
すり寄ってきた彼女の顔が、幸せそうに緩む。
「もっと、もう一度。繰り返し、何度でも……。おぬしと、この待ち遠しき夜明けを。薄明の光を見たいと、そう思うのじゃ」
約束じゃぞ。と笑う彼女の額に。
俺はそっと、誓いの口づけを落とした。




