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新しい朝の話


「ふーん、ふんーふ、ふっふん、ふふーん」


ハクがまだ起きてこない程度の時間帯。

何とはなしに、凝った料理でも作ろうかと考えてキッチンに立っている俺。

思い立った理由はないが、機嫌よく鼻歌を歌う程度の理由はある。

俺が機嫌をよくする理由など、一つしかない。


「牛乳と卵。あとバター」


冷蔵庫の中身を口に出して確認しつつ、頭の中では別のことを考えている。

口に出さないとぽろぽろと零れ落ちてしまいそうなほど頭がいっぱいなのだ、許してほしい。

許しを請うべき相手であるハクは、今もすやすやと気持ちよさそうに眠っているだろう。

じっくりと夢見の良さそうな寝顔を鑑賞させてもらった感謝の気持ちと、デリカシーの無さが塊になったかのような行動への懺悔の気持ちが頭の中をグルグルしている。

思考の通りにぐるぐると頭を回せば、視界の隅に見慣れない白い粉を見つけた。


「ベーキングパウダー……。お菓子でも作ろうとしてたのかな」


そう思えば、なんともおあつらえ向きの中身だった。

顎に指をあてて、少し思考のリソースを割いてみる。

ハクも俺も甘いものは好きだが、お菓子を作るのは手間がかかりすぎるからやめておこうという話になっている。

その代わりに近くにあるスイーツ店に買い物のたびに立ち寄っているわけで、物足りなくなるようなことは無いはずだ。

ここで自分好みに作りたかっただけと考えられれば良いのだが……、ハクに限ってそれはないだろう。

もしもそうだとしたら今日はホールケーキかお赤飯か、すき焼きかお寿司でもいいな。


「……ほかに道具はなさそう。本格的に作る気はなさそうだね」


いくつか戸棚を開けて中身を確認してみるが、記憶と違うものは入っていない。

残念ながら、特上寿司の出前を注文する必要はなさそうだ。

もしかすると前提が違うのか?

そもそも、俺はお菓子作りについては全くの無知であり、ベーキングパウダーで何が作れるのか知らない。

何かしらの料理に使っていたのだろうか。

あるいは、料理ではない別の使い道があるのだろうか。


「……機嫌、良さそうだったなぁ」


そんなふうにハクのことを考えていたら、さっきの寝顔を思い出してにへらと頬が緩んでしまった。

実のところ、ハクの寝顔を見た回数はかなり少ない。

狐の時の習性なのか小さく丸まって眠っていることが多く、その顔は尻尾や手によって隠されている場合がほとんどなのだ。

寝顔を見られる機会そのものが少ないのに加えて、ハクの夢見は非常に安定している。

いつぞやは悪夢を共有してしまったわけだが、逆に言えばその時まで夢を一緒に見るようなことが無かったということでもある。

添い寝をしているときはうっすらと柔らかい雰囲気ではあるものの、ほぼ無表情で寝ている。


「うーん、どんな夢見てたんだろう」


体に染みついた習慣をもとにフライパンをコンロにかけながら思考が流れていく。

どんどんと思考が横道にそれていくが、ハクのことだから仕方ない。

しかも、ふにゃふにゃとゆるみきった表情で気持ちよさそうに寝ていたのだ。

もちろん脳内にしっかりと焼き付けたし、今だって何度も反芻している。

くるくると、機嫌の良さが反映された菜箸がフライパンの中の卵をかき混ぜていく間も、彼女の幸せそうな寝顔を脳裏に浮かべ続けていた。


「……おはようなのじゃ」


ハクの声に、シュッと表情筋を引き締める。

寝ぼけまなこのハクが俺を探してか洗面台に行くためかキッチンに顔を出す。


「うん、おはよう。もうすぐ朝ごはんできるよ」


「うむ、ありがとなのじゃ……。くぁ……」


しれっとした様子で朝の挨拶を返した俺の擬態は完ぺきだったようで。

いまだに眠そうに、見間違いでなければ名残惜しそうに眠気を引きずったハクは小さく口を開けてあくびをして洗面台に向かった。

出来上がったスクランブルエッグとベーコンを皿にのせて、トースターに食パンを入れる。

一分ほどの待ち時間。その間にハクが戻ってくる。


「で、ずいぶんと機嫌がよさそうじゃな」


珍しく眠気を残した雰囲気だが、その観察眼が鈍ることは無いようだ。

まあ、俺も似たようなものなので驚きはないが。だからと言ってハクに嘘を吐くはずもなく、ただ何でもないことのように言うしかない。


「ハクの夢見がよさそうだったから」


「……ふむ。見たのじゃな、寝顔」


ハクは俺のぼやかした言葉に対し、ニコリ、と笑顔を浮かべながら一つうなずいて、グサリ、ときっちり刺してくる。

素直に謝れば、冗談じゃ、と笑って許してくれた。


「添い寝までしておるのに、寝顔は見られたくないなぞ、わがままが過ぎるじゃろ」


「それは確かに。……俺の寝顔も見ていいんだよ?」


「見とるぞ」


「見てるんだ……」


初耳なんだけど。

何でもないように言われたが、ハクの睡眠時間と俺の睡眠時間はちょっとずれているわけで、寝顔を見られることはほぼ無いはずである。

しかし、ハクの表情は満足げであり、なんだったら俺がハクの寝顔を見た回数よりも多いのかもしれないと思わされるほどだ。


「なんじゃ、気づいておらんのか。ならまあ……、良いじゃろ」


「ええー。それなりに気になるんだけど、いつ見てるのさ」


「そういわれてものう……」


俺の質問に、再度言葉を濁して視線をさまよわせるハク。

別に言いにくそうな感じではなく、思い当たる節が多すぎるという悩みのようで、俺は一つでいいから教えて、とさらに重ねた。

ひとつ、一つか。と言いにくいものをいくつかはじいた後、ハクの瞳がこちらを向く。

あまりに優しい光に少したじろぐが、そんな俺にも優し気に薄い息を吐いて笑うと、眉を下げたままで彼女は口を開く。


「おぬし、わしが頭をなでるとすぐに寝るじゃろ」


「……そんなわけ。……、……あるねぇ」


柔らかい笑顔に圧されるまでもなく、心当たりはたくさんあった。

元気な時はともかく、少しでも眠かったり疲れてたりすると、簡単にすやすやしてしまうのである。

ハクの撫で方は優しくて、心が落ち着く。心が落ち着けば、眠気に負ける。


「そういうわけじゃな」


「そっかぁ」


特に異論をはさめる部分は無い。少なくともこの部分に関しては。

まずハクに頭を撫でられる機会がそんなに多いわけではないというのは、言わない方がいいだろう。


「そうそう、叔父さんから連絡があったよ」


『来週の日曜日なら空いているが、そちらはどうだ』


メールをハクに見せて、話題を変える。

その文面を見て、顎に手を当てて考えるハク。

いくらか考えていたが、俺たちに予定が無いのは俺もよく知っている。

となれば、考えているように見えるのは表向きだけだろう、と俺が考えている間に用事は終わったようで、ハクが二つ瞬きをしてこちらを見る。


「うむ、カンナも問題無いようじゃ。その日程でよかろう」


「わかった、返事しておくね」


やはり、挨拶にはカナも一緒に行くようだ。

もともとあの人が挨拶に向かったことが発端ではあるし、ここで連れて行かないのもおかしいわけだが、一抹の不安を抱えているのも事実。

ハクがそのあたりの心配をしていないので、俺が必要以上に不安になる必要はないのだけど。


「ふふ……。ひとまず、朝食にせんか?」


「おっと、それもそうだ。待たせちゃったね」


「起きるのが遅くて待たせておるのは、わしのほうじゃろうて」


のどやかな朝の時間と、将来への不安。

どちらのほうが優先順位が高いかなんて、言うまでもない。

考えるのは性に合わないのだ、未来のことは未来の俺に任せるだけだ。

……何か忘れている気がするけど、まあいっか。


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