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未来の話


喉と目元の違和感。

目覚めが不快かと言われれば、そんなことは無い。


腕に巻き付く至福の感触。

ハクが隣で眠っている温もりと、胸を締め付ける幸福に目を覚ます。


時計を見ずとも、いつもよりも起きるのが遅いことに気づく。

夏といえども、カーテン越しにはっきりと日差しを感じるほどの時間になるのは、そう早くない。


空っぽになった胃が食べ物を欲して鳴る。

とりとめのない思考の中で、隣のハクが寝息を乱したことを鮮明に感じ取る。

見れば、頬に涙の跡を残したハクが、重そうに瞼を震わせている。

高鳴る心臓が導く衝動のままに、彼女の頬に手を当てる。


パチリ、とそれまでぐずっていたのが嘘のように目を開く。

一瞬、遠いものを見つめるように焦点が外れる。

直ぐにふわりと柔らかな笑みを浮かべると、頬を手にすり寄せてくる。


うーんこの可愛い生き物。一生でも見ていられるな。

そうしているうちに、ハクはまどろみの中に沈んでいき、それとは逆に目の冴えた俺。

時計を見てみると、昼前ほど。昼ご飯には早い気がするが、朝ごはんには遅い時間である。

絶妙な時間だが、昨日の騒動を思うと十分に早起きではなかろうか。

いまだにハクの尻尾を腕に巻き付かせている俺は、少しだけ思考にふける。


特に何があったというわけでもないが、こうして添い寝をしているのも昨日の夜からだ。

胃の中を空っぽにしてリビングに戻った俺は、いつの間にか泣き疲れて寝ていたハクをベッドに移した。

俺は普段ハクが寝ている布団の方で寝ようと思ったのだが、気づいた時には腕に尻尾が巻き付いていた。

妖狐にとって尻尾はデリケートな部位である。無理に引きはがすわけにもいかない。

何より、思っていたよりも温かい胸の奥に渦巻く感情に逆らう気は起きなかった。

実際に口に出すのはこれからもしんどいだろうが、幸いにもハクに対してそういった感情を持つことは平気なようだった。

むずがゆい思考が疲れた脳を引っ掻き回した結果、自分でも無意識のうちにハクの横に身を横たえていた。


そして、今朝に至るというわけで。

思考にふけっていた俺の頬を、ふわふわとした尻尾がさする。

パチリ、と一つまばたきをして、ハクと目が合う。

そういえば、ハクは一度まどろんだ後すぐに目を覚ますのだった。

ハクの温かな瞳に、少し顔を熱くしながらも上体を起こす。

まだ胃は重たいがご飯が食べられないほどでは無い、昼ご飯を作ってしまおう。


「おはようなのじゃ」


「うん、おはよう」


たった一言、ちょっと遅い朝の挨拶を済ませる。

視線を交わして、微笑み合うと、ハクと一緒にキッチンに向かった。


***


「夢では、無いんじゃなぁ……」


朝ごはんを食べた後、いつものように熱いお茶を飲んでいると、ハクがぽつりと漏らした。

朝の挨拶以降、ハクはうっすらと上の空であり、ここまで一言も発していない。


「結構苦しい思いしたし、夢だと悲しいなぁ……」


「……それもそうじゃな」


ハクだって、すんなりと現状を受け入れたわけではない。

自棄になって、泣き叫ぶほど感情的になったことを忘れたいというのならば別であるが。

冷静に観察できる精神状況で無かったが、よく考えてみればレアな姿だったな。

なんとか思い出そうとすると、ハクが耳を倒してにらみつけて来た。


「忘れよ」


「了解。俺のことも忘れておいて」


「そういうことじゃ」


二人して無様をさらした昨夜のことは忘れてしまおう。

大切なことだけ理解していればそれ以外はすべて蛇足なのだ。

ゆったりとした動作でお茶を飲んで、いったん話題をリセットする。


「そういえば」


ふと、疑問がよぎり、ハクの方に視線をやる。

ピコンと狐耳がこちらを向き、真っ赤な瞳がなんじゃと問う。

ハクも普段通りの調子を取り戻してきたな、と肩から力を抜いて疑問を口にする。


「妖狐って、人間よりも長く生きるんだよね?」


「ぬ……ああ、そうか。そういえば、言うておらなんだな」


ハクの瞳に、昨日見たような暗い色がよぎる。

失言だったかと思うよりも前に、その色は過ぎ去り、懐かしむような色に移り変わる。

あまりにも早い展開に、ついていけないが、ハクの中では整理がついたらしい。


「確かに、わしら妖狐は非常に長く生きる。場合によっては千年以上だろうと、生きようと思えば生きれるじゃろう」


「妖力が強ければ、とか?」


「それもある。妖力が少ないままじゃと、長生きはせん。とはいえ、妖狐は年を重ねれば妖力が強まるものじゃ」


先読みしていたように、スラスラと解説を行うハク。

妖力は年とともに増えるとなれば、実質的に妖狐に寿命は存在しないという事になる。

ならば、別の要因で死ぬことになるが、そのうちの一つは説明が要らないだろう。

ハクと出会った時のことを蒸し返すような時間ではないのだから。

では他の要因があるのだろう、と思考をまとめたところにハクがうなずいて続ける。


「妖狐は、愛する者を亡くした時に死ぬ。まるで、喪失に耐えられぬかのように、衰弱してゆくのじゃ」


「愛する者」


「うむ。妖狐は情念が深い、とはよく言われるじゃろ?」


少しいたずら気に笑みを浮かべながら、試すような目を隠さないハク。

流石に聞いたことはないが、そんなことで俺を試そうとするあたり可愛いものだ。


「ハクは、俺が死んだら死ぬの?」


「衰弱を待つまでも無く、即日に」


妖狐が、ではなく、ハクが、情念深いのではないかと思う。

するりとハイライトが抜け落ちた瞳で、断言したハクに笑いながらそんなことを思う。

どうせ俺も同じなのだから、聞くまでも無い。もはや符丁のような、当たり前の返答。

からかわれたことに気づいたのか、ハクは咳払いをして、うっすらと赤く染めた頬に尻尾を寄せる。


「今更そんなことは良いのじゃ。少なくとも、わしが一人で残ることは無いゆえ、心配するでない」


「……まあ、将来のことなんて分からないからねぇ」


死んでほしくないなぁ、という少しの躊躇と、ほのかに暗い喜びが混ざり合った、中途半端な答え。

もっと自分を大切にしてほしいと思うのに、俺を一番に考えてくれているのが嬉しい。


「それこそ、未来の話じゃろう。これでも、随分と改善したと思っておるぞ?」


困ったように眉を下げて、ハクが笑う。

確かに、最初のころと比べてハクが自分のために笑うことが増えた。

それが俺のせいであれば、善し悪しに関わらず嬉しいことではあるが。


「いつかは、ハクが自分のために頑張れる日が来る?」


「いつかは、おぬしがわしをめとる日が来るじゃろう?」


「……カヒュ」


急にそんなことを言われると呼吸の調子が悪くなってしまう。

過呼吸になりかけた俺の背中をハクが撫でる。

役得ではあるものの、ハクのからかいは心臓に悪すぎる。


「いつになるかのう」


「できるかぎり、ゴホッ……善処は、します」


「ゆっくりでよいぞ。期待はしておるがな」


その言葉に嘘は無いだろう。

それこそ、俺がおじいちゃんになるまで待っても、ハクからすれば長い時間ではない。

だからこそ、早い目に良い返事ができるように頑張ろうと思えるのだ。

無意識にでも、自分の幸せを願い始めたハクのことを幸せにしたいと、心から思うのだ。


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