出会う話
――雨が降っている。
午前から降り始めた雨は、梅雨どきらしい、じめっとした空気とともに、薄暗く静かに降り続いている。
大学からの帰り道、人々はうざったそうに水しぶきを上げながら、しかし何事もないかのように通り過ぎてゆく。
そんな人ごみの中で、ぼんやりと立ち尽くしているのが、この俺。名前は真藤懸。身長が少し低いだけの、どこにでもいるであろう大学三年生である。
――そんなどうでもいいことは置いておいて、どうしたものか。
かれこれ30分ほど、この場に立ち尽くしているのは、人々が水をはね上げる足元に、見慣れないものが居るからだ。
道端でぐったりと倒れ伏しているのは、真っ白な狐。
――しかし、だれもその狐を助けようとはしない。
誰もが見て見ぬふりをしてるのかと義憤にかられるほど多感な人間ではないが、同時に、人々が一切何の反応も示さないことを疑問に思わないほど不感な人間でもないがゆえに、この30分動くに動けずにいる。
踏みつけられるような位置には居ないから、気付かず通り過ぎることはあるだろう。だが、草むらに隠れているというわけでもなく、ふと目線をやれば、白い毛並みも合わさってむしろ気を取られない方が不思議なほどだ。
怪しい。とても妖しい。関わり合いになるべきではないと本能が言う。
だからといって、命の危険がありそうな生き物を見捨てて、ぐっすり眠るような理性は持ち合わせていない。
日も暮れかかっている。迷っている時間はそう残されていない。
人通りも少なくなってきた。決断するにはいい時間だ。
ひとつ、ため息をついて、俺はその狐に近づき、抱き上げる。
怪訝そうな顔でこちらを見てくる学生の目線を傘でさえぎりつつ、白い狐の体に耳を当てる。
問題ない、生きている。
それだけ確認できれば、後の違和感はすべて無視しよう。
濡れた狐を抱えて歩く。確かな重みと、ほんのりとした温かさ。
すれ違う人は何事もないかのように通り過ぎていく。
真っ白で、場違いな狐を抱えているというのに、何の声もかけられることなく、今住んでいるアパートまでたどり着く。
また一つため息をついて、もう一度腹をくくる。
ここまでくれば、後のことは知らん。どうとでもなるだろう。
そんな投げやりな気持ちで玄関をくぐり、濡れたままでは良くないと風呂場に入る。
狐の生態には詳しくないが、生物として温める必要があるだろう、などと洗面器にぬるま湯をためて、狐に優しくかけては撫でつけていく。
冷たさが消えたくらいになったら、タオルで拭き、そのままふわふわのタオルにくるんでクッションの上に寝かせておく。
そして、俺自身もシャワーを浴びて、ほんの少し落ち着く。
……どう考えても、まともな存在ではない。
浴室から出て、着ていた服を確認してみれば、びしょ濡れになっているものの狐から付かなければならないはずの汚れや毛のようなものは一切見当たらない。
いくら考えても、厄介ごとだ。
クッションの上ですうすうと寝息を立てている白狐を見て、軽く鼻を鳴らす。
……だから、なんだというのか。
いまさら非日常に巻き込まれたからと言って、困ることなどありはしないだろう。
この狐がどんな存在で、どんなものを俺にもたらしてくれるのか。それが俺の望むものであれば万々歳だろう。望まぬものも、それほど無い。
できる限り優しい手つきで、狐の毛並みを撫でる。
もしも、俺の望みをかなえてくれるのならば――。
くだらないことを、と自嘲して、おとなしく布団にくるまる。
明日のことは、明日考えればいい。それだけの話だ。
***
朝の陽ざしが街を照らし始めた頃。
アラームが鳴るよりも数十分前に、俺の目は覚めた。
それと同時に、ほのかな温かさに違和感を覚える。
自分の体温によって暖められた布団のぬくもりではない。それよりも少し暖かく、それでいて甘く、柔らかく、心地よい。
一体何が起きたかと横を見れば、美しい真白な毛並みをした狐耳の美少女。
……俺も、これまでか。
非日常的すぎる光景に、うっすらとした諦観が顔を出す。
もちろん、昨日連れて帰ってきた狐のことはすぐに思い出したし、髪や狐耳の色も真っ白で見覚えがある。
だが待ってほしい、起きてすぐに好みの美少女と同じ布団にくるまっていることを認識したときに、あー昨日助けた狐が美少女化したのかー、なんて考えた日には、俺はだいぶヤバい精神状態だと診断されるべきではないだろうか。
狐娘を起こさないように、ごろり、と転がり落ちるようにベッドから逃げ出す。
非日常はかまわないといったが、いくら何でもこうなるとは思っていない。
うっすらと拍数を上げた心臓と、荒くなりそうな呼吸を押しとどめながら、ベッドを見下ろす。
「う……んぅ?」
できる限り振動の無いようにしたが、隣からぬくもりが消えたら刺激になるようで。
重たそうにまぶたを持ち上げた美少女が、そのルビーのような赤い瞳でこちらを見上げている。
長い銀色のまつ毛にふちどられた透明感のある瞳は、それだけで高級な装飾品のように思える。しかし、確かにまどろみ、かすみがかった人間の瞳で、ただ無感情に朝日を眺める。
もう一度、睡魔に負けたそのまぶたが下ろされるまで、俺は身じろぎ一つせずにその様子を見つめていた。
心臓が高鳴っている。呼吸をするのも苦しい。耳鳴りがする。
洗面台に手をついて、深呼吸をして、顔を乱暴に洗い、乱雑に拭く。
いくらか落ち着いた頭の中で、彼女の処遇について考える。
昨日の狐なのは間違いない。だとして、彼女を放っておけるのか。
逆に考えよう。彼女の容姿は、間違いなく俺の好みにドストライクだ。そんな彼女がもしも家に居着いてくれるのであれば、それはこの上ない幸福だろう。
ならば、やることは決まりだ。
「ぬっ! ど、どこじゃあ?」
「はいはい。ここです、ここです!」
決心と同時に聞こえてきた可愛らしい声に、つい返事をしてしまう俺。
できる限りいつも通りを意識しながら、ほんの少しだけ過剰に。ぐにぐにと、少し濡れた頬を引っ張りまわして、表情を柔らかくする。
そうこうしているうちにとたとたと足音がして、先ほどまでベッドにいた美少女が顔を出した。
「おぉ、おった。よかった、一安心じゃ」
パッと顔を明るくして、心底良かったというように息をつく。
立った状態だと、背の小ささがはっきりと分かる。俺の肩までもないぐらいだ。
自慢じゃないが、俺の身長は160にギリギリ届かないくらいの低身長。目算で140あるかないかというくらいの女の子は十分小さいだろう。
それに対して、真っ白な髪は非常に長く、くるぶし辺りまでまっすぐ伸びている。
人間だったら手入れが大変だろうが、そこは化け狐、あまりにもサラサラで水が流れるかのようにたなびいている。
服は、清楚な白ワンピースを簡素に着こなしていて、全体を儚げな雰囲気にまとめている。
美少女が首を傾げ、髪がサラサラときらめきながら揺れる。
うん、あまりにも俺の好み過ぎる姿だ。
「……はて。どちら様でしょうか」
気を落ち着かせる意味もあり、ひとまずは本人確認でも、と思ったのだが。
その言葉に自分の状況を思い出したのか、ピンと耳を立てて目を見開く。
そして自分の体を確認するように首を巡らせ、一度俺を見る。
様子をうかがうような目線に、何となく頷いてやると、そっと壁の後ろに身を隠す。
「おぉ、狐だ」
ぽん、と小さな音がして、いそいそと顔を出したのは昨日の白狐。
おずおずと歩み寄ってくるので、つい抱え上げてしまった。
人の姿と同じく、真っ赤な瞳と真っ白な毛並み。
何となく申し訳なさそう名表情に見えるのは、人の姿を知っているからか。
先入観を排除してみれば、とても可愛い。もう化け狐であろうが問題が無いようにも思えてくるから、人間と言うのは単純だ。
「えぇっと、そういうこと……なんじゃが……」
「うん、まあわかってたよ。いわゆる化け狐なんだなぁって、思ってただけ」
じっくりと観察していたせいか、狐が言いにくそうに切り出した。
その姿でも喋れるんだなぁ、とか思いつつ茶番であることを明かす。
「そうか……。その、下ろしてくれんか? さすがに怖いんじゃが……」
あばれたりはせず落ち着いた様子に見えたが、さすがに足がついていないのは良くないらしい。
そっと地面に戻すと、てててーと壁の向こうに行って、ぽんと変化して帰ってくる。
化ける瞬間を見られてはいけないとかの決まりがあるんだろうか。
と思ったら服装が変わっていた、どうやらさっきのワンピースは寝間着だったらしい。
「やっぱり、俺の頭の中とか、覗いてらっしゃる?」
「ぬ? わしはさとりのまねごとはできんが。なんじゃ、この服が好きなのか?」
無地のシンプルな白の着物に、黒の袴を合わせた大正モダンな着こなし。
化け狐といえば、といわんばかりのいで立ちだが、きっちりと前を合わせているうえに、くるぶしまで裾があるので肌の露出は非常に少なく、現代的かといわれるとそうでもない。
「すごい好き。なんかもう、全部好き」
「恥ずかしげもなく言うのう……。まあ、喜んでもらえるのであれば何よりじゃ」
余計なことは考えないようにしているせいか、つい欲望が垂れ流しになってしまった。
この状況では、全然話が進まないのがよろしくない。
眼福なのでもっとじっくり見ていたい気持ちもあるが、それは後にして、リビングに戻ることにした。
だいぶ冷静になったこともあり、リビングでちょこんと向かい合って座るころには空腹を感じる程度には余裕も出て来た。
「では、自己紹介からお願いします」
「急にかしこまって、どうしたのじゃ」
「だって、真面目ぶるのは性に合わないし」
正座をして、綺麗に背筋を立てたまま、ツッコミを入れる狐。
実際、ちょっとくらい茶番を入れていくくらいでちょうどいいだろう。
あまり真面目にやるのも、今の状況を考えると意味不明になってしまう。
見るからに非日常な絵面だ。頭は空っぽのほうがちょうどいいというもの。
「気を取り直して、自己紹介をお願いします」
「続けるんじゃな……。わしの名前はハッコ。親しいものはハクと呼んでおるゆえ、おぬしもそう呼んでほしいのじゃ。見ての通りの妖狐、おぬしの言うところの化け狐じゃな」
すこし困ったように眉を落としながらも、気を取り直して自己紹介をする狐、もといハク。
見た通り、というか多分白狐と書いてハッコなのだろう。
「なんでここに……は、俺が連れて来たからだな」
「そうじゃな」
「うーんと、ああそうだ。目的は?」
「おぬしは命の恩人じゃから、恩を返したいのじゃ。おぬしに助けられず、あのまま雨に打たれておったら、わしは命を落としておったろうからな」
「何歳くらい?」
「300からは数えておらぬが、500は生きておらぬ。まだまだ、ひよっこじゃ」
「なんで死にかけてたの?」
「あー。……それはのぅ」
俺の就活風の問いに対して、はきはきと答えていくハク。
と思ったら、急に言いよどんだので、答えにくいのかと顔を見つめる。
適当に思いついた質問を並べていただけなので、正直それほど強く聞きたいわけではない。
それどころか、その理由について、俺はなんとなく察しがついていた。
あんまりにも考え無しな問いだったか、と少し反省しながら、わたわたするハクをつい見つめていたら、続きを催促されていると思ったのか口をもごもごとさせながら言葉を続ける。
「……ねずみを、追いかけておったんじゃよ」
「……雨の中で?」
「……捕まえられんかった。へとへとになったところに、雨が降ってきたのじゃ」
「狐なのに?」
「うぅ……。わしは狩りが苦手なのじゃ、あんなすばしっこいヤツをどうやって捕まえろというのじゃぁ」
「どうやって生きてきたの?」
「わしは生まれからして化け狐じゃ。野ネズミなど捕まえんでも、食えるものはたくさんあるし、まともに生きておればあんなもの要らんわ」
頬をほんのりと赤くしながら泣き言をもらしたり、開き直ったりするハク。
狐耳や尻尾もへにょりとしたり、ピンと立ったり、ぶんぶん振ったりと忙しい。
なんだこの可愛い生き物。さっきまで堂々としていたのは大人ぶっていたのだろうか。
上手なものだ。
しかし、あまりの可愛さにやられて無意識のうちに口角が吊り上がっていたようで、ハクがむっとした顔で詰めよってくる。
「そんなことよりも、恩返しじゃ! わしにして欲しい事は、なんぞないのか!」
テーブルに手をつき、身を乗り出して声を張り上げる。
鋭い犬歯がをむき出しにしながら、威嚇するような顔なのだが、優し気な目つきが吊り上がりきっていなくて、正直可愛いの方が強い。
怒らせるのも本意ではないので、少し考えるそぶりをする。
「恩返し……、と言われてもなぁ。どんなことがしたいの?」
「ぬ、ぬぬ。何かしらあるじゃろ、ほら。言うてはなんじゃが、綺麗じゃろ、わし」
「ぜひとも家にいてください」
確かに、超好みの美少女が家に居るとかそれだけで人生勝ち組になれるわ。
なんだよ、化け狐っていい奴じゃん。恩返し最高!
「うむうむ。ほかには?」
「……?」
「わしは、置物ではないんじゃぞ! 家におれば何かすることはあるじゃろ!」
そう言われてもな……。
家事の類といっても、やってくれたら嬉しいとはいえ、一人で暮らしている都合上そこまで困ってもいない。
恩返しというからには、やはりハクだからこそできることの方がいいと思うのだ。
「……ぐーたらしていただけたら」
「それのどこが恩返しなんじゃ! おぬし、真剣に考えておらんじゃろ」
バレたか、にらみつけてくるハクからすっと目をそらしてごまかそうとする。
そんな俺をジトっとした目で見つめてくるハク。
段々と視線がきつくなってきたので、さすがに時間稼ぎはやめにしとこう。
「正直、家に居てくれるだけですっごく嬉しいので、できれば、できる限り長い事居てほしいなって」
他のことをして恩返し完了、とすぐに帰られてしまったら俺の癒しが無くなってしまう。
できる限り長い間、出来れば一生いてほしいとすら思っている。
でも強制はできないので、そこはこちらがご機嫌取りをしようかなと。
「どちらが恩返しをしておるのか分からんな……」
「ま、縁があって同居ぐらいの感覚で良いんだよ。ハクみたいな美少女とお知り合いになれた時点で、すごい幸運だと思うし」
「それを言えば、わしも今生きておられることが幸運なのじゃが。うーむ、このままではらちがあかんのう……。せめて、してほしいことが思いついたら、言うてくれんか」
「それくらいならいいよ。逆に、ハクも何かあったら言ってね。協力はおしまないから」
グッとこぶしを握る俺に対して、うむ、と頷いて、はあ、とため息を吐く。
恩返しをしようとしたのに、結局何もしないことに落ち着いて、釈然としない様子のハク。
それに対して、超好みの美少女との同居生活の約束を取り付けて、人生最高の瞬間といわんばかりの俺。
そんな、なあなあな感じで、俺とのじゃロリ狐娘の同居生活は始まったのだった。