69 地図をながめて そわそわはらはら
早朝、霧の街を一人の男が用心深く歩いていた。彼はある建物の裏口扉を叩いた。
管理人らしき男が細く扉を開けると、その隙間に封筒を差し込み男は退散した。管理人は封筒裏側の奇妙な紋様を見て階段を上がった。
「内部の人物が上がっていきます」
「あとは、あの内容に食いつけばだが」
ヨーク川対岸から建物を監視する重大犯罪課捜査官たちが囁き合った。透視の天賦を持つ捜査官が報告を続けた。
「屋根裏部屋か。そこにしばらくいた後で階段を降り始めた」
「間違いないな」
居場所は特定できたが、あちこちに逃走経路を持つ男たちのことだ。真っ向から突入すれば取り逃がす恐れがある。
「大公殿下は例の金庫の保管場所におびき出したいようだ」
「奴ら二人のために大がかりすぎないか?」
「更に上を狙っているような感じだったな」
彼らの元に伝令がやってきた。
「大公殿下ご夫妻は屋敷を馬車で出発しました」
「馬車か? 計画では自動車だったはずだが」
困惑した捜査官たちは、すぐに平常に戻った。大公の計画に変更がつきものだと彼らはここ数日の間に理解していた。
どれほど派手な衣装でも目立たなくなってしまう大公と、どこにいても注目を集める大公妃は揃って海軍情報部に赴いた。
「これは大公殿下、何用でございますか」
情報部将校が彼らを迎えた。
「観劇に向かう途中だが、気になる噂を聞いた」
「噂、とは?」
「あの金庫に例のバックランド文書が隠されているという話だ」
「まさか」
将校は最初は取り合わなかった。
「あれは透視を含めて検分しましたが、いかなる書類も発見できませんでした」
「何故、紙にこだわる必要がある?」
大公の言葉に将校の反応が遅れた。
「…それは、どういう意味でしょうか」
「金庫そのものが何らかの暗号であるという可能性だ」
将校は考え込んだ。
「それは盲点でしたな。外側に関しては何も異常がありませんでしたが、念のために溶接による分解を試みます」
「そうしてくれ。妨害工作には充分注意しろ」
「了解」
敬礼をし、将校は足早に奥に向かった。
「さて、これで何が動き出すか……」
大公は小さく呟き、美貌の大公妃はそっと夫に寄り添った。
「それで、今日は朝からみんなバタバタしてるんですね」
大公が何やら大がかりな罠を張っているとモーリスから聞かされ、メロディは納得顔だった。
白衣を着た彼女はドッド警部やトービルたちに混じってせっせと指紋票を分類している最中だった。
「これが例の双子に関する指紋票です」
机の平引き出し下部に残った指紋の写真を見て、モーリスは大きく頷いた。
「確かに、普通は利き手の指紋がほとんどのはずなのに両手が均等に残っている」
「キャンセラーとブースターが対になる天賦と聞いて最初に浮かんだのが一卵性双生児でした。ただ、自分の周囲で双子と言えば姉の子供くらいしかいなくて、『大山羊』とカーター警部との関係には全く気付きませんでしたよ」
「それは警視庁の者全員に言えるよ、お嬢さん」
ドッド警部がしみじみと言った。
「カーターは若い頃はよく儂の後を着いてあれこれと教えを請うてきたものだが、観察するためだったんだな」
「別人になりきる必要があったからですよ。師匠はそれだけインパクトの強い人なんです」
奇妙な慰めに、それでも老警部は笑顔を見せた。
「まあ、奴らのアジトも割れてるようだし、あとは捕まえるだけだな」
「連続殺人の理由を聞いてみたい気もしますけど」
「若いうちからあまり人間の闇ばかり見るのはお勧め出来んな」
ドッド警部の言葉にモーリスも賛同した。
「よほど強い覚悟を持たないと闇に引きずり込まれかねない」
溜め息一つ吐いて、メロディは頷いた。
「深淵を覗くものはそこから覗き返されるってことですね。プロファイリングはもっとベテランになってからにします」
ここで諦めると言わないあたりが彼女たるゆえんだと大公の息子は考えた。
「ところで、今日は王子様たちはお出ましにならないのか?」
警部に尋ねられ、モーリスが答えた。
「王立劇場で新作の劇が上演されるので、そちらに行ってます」
「殿下は行かなくていいのか?」
「今ならまだ病欠が許されるので利用することにしました」
興味もない劇などより、何をしでかすか分からない少女と一緒に作業をする方が楽しいのだと彼は自己正当化した。
ローディン王国首都キャメロット。王城を取り巻く政府の建物に混じって、各国の大使館・領事館が並ぶ区画がある。
その中に、豪華なたたずまいを見せつけるような建物があった。ザハリアス帝国総領事館だ。
西方大陸北部を支配する大帝国は、周辺諸国とは戦争を繰り返した歴史を持つ。遠方の島国ローディンと積極的に通商をするようになったのは、ローディンが海軍力を生かして東方大陸や南方大陸に進出し次々と植民地を得てきた頃からだ。
近年では数十年前のロウィニアとの戦争以来大きな対外戦争は起こしていないが、列強諸国の中で最も警戒すべき国であることに変わりない。
総領事館の裏門が小さく開かれた。廃棄物を処理する業者が大きな袋を乗せた台車を押しながら出てきた。袋は荷車に放り込まれ、回収業者は次の取引先へと向かった。
荷車を押す男が、周囲を見回し異常がないことを確認する。荷車を引く男が頷き、彼らは裏通りの建物の裏口を叩いた。
「ゴミ回収に来ました、今日は北風が強くて」
裏口がさっと開き、二人は素早く荷車ごと敷地内に入った。
「首尾はどうだ、同志」
異国の言葉で話しかけられ、二人――トヴァイアス・ハミルトンとネイサン・カーターはにやりと笑った。
「ザハリアスはまだ俺たちに利用価値があると思ってるようだ」
トヴァイアスが荷車に積んだ袋を開けた。そこには銃器類と爆薬がぎっしりと詰まっていた。周囲から歓声が上がる。
「これで、モルゼスタンを見殺しにして利益を吸い上げてきた投機家どもに思い知らせてやれる」
「ザハリアスの武器でか?」
からかうようにネイサンから言われても、男たちは動揺の気配もなかった。
「我々に与えた武器はいずれ奴らの血を吸うようになる」
天賦を持つ個有者を呪われた者だと忌避する団体ジェニュインはローディン海軍の物量の前に壊滅させられたが、まだ血の気の多い民族自決主義者たちが利用できる。
崖っぷちの兄弟は挽回のチャンスをこの作戦に賭けた。
「監視対象、要警戒組織と接触。これより警戒レベルを3に引き上げる」
その行動を遠距離で観察する者がいた。警視庁と海軍情報部の混成部隊だ。双眼鏡を覗いていた一人が、不審そうな声を出した。
「建物付近に誰かいる。女だ」
侯爵家の双子やモルゼスタン解放戦線の構成員が少人数で外に出る中、物売りを装いながら彼らを観察しているようだ。顔を隠すスカーフから、赤毛が一房こぼれ落ちた。
「あれは、ロッホ・ケアーの?」
監視役は通信装置を手にした。
プランタジネット大公邸の司令部には各所に手配した監視から続々と要警戒対象の動向が入っていた。
モーリスと一緒にその前を通りかかったメロディは気になる言葉に足を止めた。
「モルゼスタン解放戦線のアジト付近に不審者。赤毛の女で、ロッホ・ケアーでの誘拐犯殺害の容疑者と思われる」
「モーリス様、湖水祭で天賦を暴走させた男を止めた人でしょうか。なら、ジャスティン様の育ての親かも」
「火災で死んだ父親役はモルゼスタンの人間らしいと父上がおっしゃっていた」
「でも、殺された偽メイドもモルゼスタン解放戦線メンバーの可能性があるって。仲間割れでしょうか」
「敵国よりも主義が違う同国人同士の抗争の方が苛烈だったりするからな」
モーリスの言葉にメロディは頷いた。
「モルゼスタンの過酷な歴史は同情しますが、他国にとばっちりはちょっと…」
簡単には片付けられない問題に、二人の思考は行き詰まってしまった。その間にも、司令部では大きな地図を置いたテーブルにハミルトン家の兄弟や解放戦線の構成員を表す駒が置かれ、刻々と移動している。
大公の敷いた監視網の緻密さが見て取れる光景だった。
――ここまで行動を押さえられてたら後は捕まるだけなんじゃ…。
空の金庫に実はバックランド文書が隠されていたという筋書きの噂を流し、それを奪取するために動いた所を確保する。大公は確かにそれを主軸とした作戦だと言っていた。
――ただ、どうも行動にアドリブが多い方のようなのが気になるなあ。
これまでのことからも、彼がもっと複雑な罠を張っているのでは思えてしまう。
そんなことを考えながらテーブルの地図を眺めていたメロディは、人の流れが金庫を保管している倉庫に向かっていないことに気付いた。
「モーリス様、彼らはどこに行こうとしているのでしょうか」
「ああ、金庫のありかを襲撃するはずなのに、劇場街に向かっている」
「…あの、今日は王立劇場で新作の初日で王太子殿下や大公殿下ご夫妻も観劇されるのでは」
「まさか、狙いはそっちか?」
二人は顔色を変えたが、司令部の人々はごく冷静に情報収集にいそしんでいた。
――あそこまで執着してた極秘文書を諦めて王族狙って劇場襲撃? 目的をテロに切り換えた? それとも……。
彼らの狙いが何であれ、犠牲者が出ないことをメロディは真剣に祈った。