6 小指の思い出は残留指紋
異例の速さで設立が受理されたCSI部の記念すべき活動一日目は、塵一つ無い部室で行われた。
創設メンバーを前にして、メロディは顔がこわばるのを必死で堪えていた。
ご近所の平民コンビ、ノーマとジャスパーは始まる前から帰りたいと目で訴えている。距離を開けて不自然に固まっているのが王太子と婚約者の公爵令嬢、そして浮気相手の平民娘の三人組だった。
いずれもライトグレーの制服の上に白衣を着ている。やたらと潤沢な部費を与えられた恩恵の一つだ。
咳払いを一つして、メロディは彼らに挨拶をした。
「それでは、CSI部活動開始です。私は部長のメロディ・カズンズです」
「副部長のモーリス・アルバート・プランタジネットだ」
推薦ではなく消去法で決まった役職だった。そこにメアリ・アン・フィリップスが抗議した。
「どうしてジュリアス様が部長じゃないの?」
「部長なんて雑用係ですよ。王太子殿下の自由時間が削られてもいいのですか」
「よかった、ジュリアス様が部長でなくて」
あっさりと前言撤回するメアリ・アンを放置し、メロディは黒板に本日の活動内容を書いた。
「今日は科学捜査の基本中の基本、指紋です」
「指紋……」
王太子が不思議そうに復唱した。子爵令嬢は自分の両手を胸元で広げた。
「人の指の末節、つまり指先にはたくさんの細い皺があります。これは一人ひとり形や本数が違い、全く同じ指紋は世界に二人といません。一卵性双生児でも指紋だけは違うのです」
自分の指をしげしげと眺める部員たちを眺め、彼女は道具を机に置いた。
「これから指紋採取をします。必要なのは印刷用インク、ガラス板、ローラー、そして紙」
ガラス板にインクをほんの少し置き、それを少しずつローラーで広げていく。
「コツは下に敷いた新聞の文字が読める程度の濃さで板全体に塗ること」
薄い灰色になったガラス板に、メロディはまず右示指(人差し指)を置くと左右に転がした。そして指を紙の上でゆっくりと回転させる。
紙には円形の模様が残った。
「これが指紋か」
感心したようにモーリスが呟いた。メロディは部員たちを促した。
「この要領で全部の指を採ってみましょう。あ、インクは速乾性ですから早めに手を洗ってくださいね」
それからは慣れない手つきでの指紋採取が始まった。いちいちきゃあきゃあと騒ぐメアリ・アンに公爵令嬢がキレかけたりしながらも、作業は順調だった。乗り気ではなかったノーマとジャスパーも楽しそうにお互いの指紋を見せ合っている。
「同じような模様が多いな」
全員の採取用紙を見比べてモーリスが呟いた。メロディは頷いた。
「まず渦状紋(WHOLE)。重なった丸の両横に三角州が出来ているのが分かりますか」
「本当だ」
興味深そうに部員たちは頷き合った。
「次に三角州が片方だけにあって丸が左右どちらかに流れている蹄状紋(LOOP)。拇指(親指)側に流れるのをR(RADIAL LOOP)、小指側に流れるのをU(UNDER LOOP)と区別します。LRで区別することもありますね」
友人たちの指紋を凝視し、メロディは一つを指さした。
「ノーマの右示指のように三角州がなく重なる山のようになっているのが弓状紋(ARCH)。これは割合が少ないので特定要素になります。メインの三種類に当てはまらない粉雪状だったり魚の骨みたいだったりする形は変体紋(NONE)」
そして彼女は紙に写し取った指紋の下に各分類の頭文字を並べていった。
「王太子殿下とジャスパーが全部蹄状紋で、他は渦状紋や弓状紋が混ざってますね」
「これが犯罪捜査の役に立つのか?」
ジュリアスは疑わしげだった。子爵令嬢は胸を張った。
「もちろん。指が触れたところには指紋が残りますから」
全員がぎょっとした顔を彼女に向けた。
「この細い隆線には汗が出る小さな小さな穴が無数にあります。そこからの分泌物と皮脂が指紋の形に残るのです」
「インクをつけてなくても?」
公爵令嬢ジョセフィンが尋ねた。メロディは頷いた。
「見えにくいだけですよ。窃盗犯なら家の中をうかがう時のガラス、侵入する時のドアノブ、その他表面が滑らかなものなら残りやすいです」
「その現場で指紋を採取できるのか?」
モーリスに問われ、メロディは黒い粉末を取り出した。
「やってみますね。黒鉛の粉末を使います」
彼女は自分が触った白紙に粉をかけ、円形のブラシで慎重に余分な粉末を落としていった。紙には指紋の形が残った。王太子たちは感嘆の声を上げた。メロディは自分の波紋を押した紙と比較した。
「こうやって照合するんです。実際の現場は部分しか残ってない場合がほとんどですけどね。現場の指紋と容疑者の指紋を照合して合致すれば犯行現場にいた証拠になるんです。現場指紋だけで容疑者を割り出せるといいのですが、それには膨大なデータベースと専門の照合装置がないと…」
「そんな面倒なことしなくても、警察には捜査専門の個有者がいるんでしょ」
メアリ・アンの言葉は耳に痛い事実だった。
「天賦持ちの捜査官がこの先も必要な数が揃えばいいですけど、個有者が激減してて次世代は総人口の0.01%を切るかもなんて予測も出てます。平常者の捜査官を増やすべきだと思いますよ」
一同が考えこんだ時に鐘が鳴った。下校時間の知らせだ。
「それでは、気をつけてお帰りください」
王太子と公爵令嬢と銀行家の娘が火花を散らしながら出ていくのを見て、メロディはほっと息をついた。そして、最後までいてくれたノーマとジャスパーに礼を言った。
「今日はありがとう。興味ないのに付き合わせてごめんね」
「いいのよ、面白かったから」
「こんなのどうやって知ったんだよ」
「それは、キャメロット警視庁を見学させてもらって…」
科学捜査がないと知ってやさぐれたのは当然秘密だ。
「私は片付けてくから先に帰ってて」
「いいの? 手伝わなくて」
「紙とか捨てるだけだから」
そう言ってメロディは下校する友人たちに別れを告げた。
白衣を棚に置きカーボン粉末やインクを箱に入れていると、ゴミを入れた袋を大公の息子が持ち上げた。
「焼却炉の所に持って行けばいいんだな」
「…はい」
彼が残っているのに気づかなかったメロディは驚いた。目を瞠る彼女にモーリスは苦笑いした。
「一応、副部長なんだろ」
「すみません、名目上の役職なんで適当に付き合っていただければいいですよ」
「なかなか面白かった。次回は何をするんだ?」
「指紋照合のやり方を考えてるんですけど、みんな付いてこれるかなあ」
ここから先はマニアックになる一方だ。王太子などは真っ先に飽きる予感しかしない。どう工夫するかとメロディは頭が痛かった。
二人で焼却場にゴミを持って行き、校門に向かった。そこには若い男性が人待ち顔で塀にもたれかかっていた。彼はメロディを見つけると片手を上げた。
「やあ、待ってたんですよ、お嬢さん」
男性に覚えのないメロディは首をかしげた。モーリスが割って入り、待機していた大公家の護衛たちが彼らを取り囲んだ。
「ああ、忘れられてるか。これならどうですか」
彼は取り出した新聞紙で自分の顔の下半分を覆った。二人は同時に声を出した。
「証拠課の人!」
キャメロット警視庁の証拠課で地下の番人をしていたマックス・トービルだった。
結局、トービルの提案で学園近くのカフェで話をすることになった。同席することを主張したモーリスも一緒だ。
「実は、警部から学園に話を通してもらったんで、さっきの部活をこっそり見学してたんです」
「そうですか」
「興味深かったですよ。うちに残ってる指紋研究の資料より分かりやすかった。素人離れした研究家だと警部が言ってたとおりだ」
カーター警部は異世界の記憶のことは内密にしてくれたらしい。少なからずほっとしながら、メロディはトービルの言葉を聞いていた。
「それで、提案なんですが」
若い証拠課員は身を乗り出した。
「今度、キャメロット警視庁と市民との親交を深める市民フェスティバルがあるんですが、さっきの指紋採取をデモンストレーションしてみませんか?」
予想もしなかった展開に、メロディはモーリスと顔を見合わせた。