59 ドント・テル・ザ・釣り
王宮は緊張感に包まれていた。主な原因は、湖水地方の避暑を終えて戻ってきた王太后エレノアが終始不機嫌なためだ。
「向こうで何かあったのだろうか?」
「陛下のご機嫌を損ねるような事は起きなかったはずだが」
侍従たちが密かに囁き合う中、喪服の王太后は亡き先王の肖像画の前に立っていた。
「生前の陛下の御心をずっと悩ませていた忌まわしい記録……、どうして誰もが私の邪魔をするのだ…」
静かな怒りに満ちていく王太后宮は、誰もが息を潜めていた。
首都キャメロットでは、これより遙かに友好的な再会があった。
「お久しぶりです、師匠!」
眩しいほど元気に挨拶され、ドッド老警部は苦笑した。
「ディクソン捜査官から大体のことは聞いとるよ。嬢ちゃんの行く先々に事件と死体が増えると頭を抱えとったぞ」
「別に、私が犯罪を呼んでるわけじゃないですよ」
心外そうにメロディは答えた。彼女の隣でプランタジネット大公家の一人息子モーリスが笑いを堪えている。
彼らが集合しているのはキャメロット警視庁裏手のヨーク川河畔、夏になると市民が釣り糸を垂らすスポットだ。揃って竿を手にする姿は、傍目には釣り仲間にしか見えないだろう。
「で、翼竜を土産に帰ってきたって? 王立動物園に展示されるんじゃないかと噂になっとるが」
「新聞社ですか? 耳が早いですね。大公殿下がご自宅で調教中ですよ」
「ロッホ・ケアーに避暑に行って、何で翼竜を捕まえたんスか」
若いマックス・トービルは予想外の成り行きに頭が追い付かない様子だ。
「勝手に出てきたの。ジャスティン様たちの誘拐未遂犯が乗ってたみたい」
メロディの説明にも、トービルは頭を振るばかりだった。気の毒そうにモーリスが補足した。
「男女二人組の犯人のうち、女は翼竜でライトル伯爵の子息を襲おうとして失敗し、何者かに殺された。男の方は突然天賦を暴走させて、女を殺害したと思われる者に天賦を消滅させられた。捕縛された時は老人のようだったな」
「あんな風に限界まで天賦を発動させるなんて、何があったのでしょうか」
メロディにはそれが分からなかった。
「男の方は草原地帯出身の見た目をしてました。もしかしたら、ローディンの人との混血だったのかも」
「それなら天賦の発現は極めてまれなはずだが」
まるで、いきなり尋常ならざる力に目覚め制御できずに自滅したように見えたと、二人は回想した。
「……不思議ですね」
メロディは小さく呟いた。モーリスが顔を向けるのも気付かず、自分の中の思考を整理するように続ける。
「あんな強力な天賦を持っているのなら、正面突破だって可能なはず。それをこそこそと夫婦連れと偽って誘拐の機会を待つなんて…」
「確かに人材の使い方がちぐはぐだな」
モーリスが同意し、傍で聞いていたトービルが適当に言った。
「自分でも気付いてなかったんじゃないスか?」
「天賦の資質を持つのはアヴァロン諸島の住人に限られているとはいえ、あれほどの強力な力をどうやって気付かずにいられたんだ?」
モーリスの疑問に、一同釣り竿を眺めながら沈黙するしかなかった。
――結局そこよね。あれだけの破壊力があって自覚無しなんて考えられない。
メロディは溜め息をつきながら、動く気配のない浮きをぼんやりと見た。
「ああいう汚れ仕事専門なら、天賦を目玉にして売り込むのが当然ですよね。それがなかったのなら、自覚がない程度の微々たるものだったとか」
「個有者の捜査官を突破するほどの能力が?」
「人為的に引き出されたとしたら? 本人が意図したかどうかは別にして」
「…それなら、逮捕時の老衰としかいいようのない姿も説明が付くか。しかし、どうやって」
「そこです」
先ほどから、メロディはじれったくもどかしい焦りを感じていた。何か、どこかで見つけていたことを思い出せない頭をかきむしりたくなるような感覚。
「これって、どこかで……」
「研究者は『ブースター』と呼んでいた」
予想外の声が回答をくれた。振り向いたメロディは、黒ずくめの捜査官が不機嫌そうに立っているのに瞬きを繰り返した。
「ディクソン捜査官。向こうは片付いたんですか?」
「細かいことは地元警察に任せて重大犯罪課は引き揚げた」
「そうかい。ま、無事に戻って来れて何よりだ」
ドッド警部がくしゃりと目元を緩めた。それに軽く会釈して、重大犯罪課のエースは彼らに告げた。
「今回の誘拐未遂犯の身元が判明した。死んだ女はライザ・ゾートワ。通称『毒爪』。男はニコライ・メンショフ。通称『薄影』。母方がローディン出身だ」
やはりという思いで、メロディたちは顔を見合わせた。
「通称からしてパワー系に思えないんですけど」
「人波や物陰に紛れての襲撃を得意としていた。天賦を使えるなどどの記録にもない」
「もしかして、発動はあの時が初めてとか」
「むしろそうとしか考えられない状況だ」
――追い詰められて本能的に天賦が開花した? ありえなくはないけど、あのメーター振り切ったようなパワーと自我が消えてしまったような猛進ぶりは……。
はっとメロディは顔を上げた。
「ディクソン捜査官、ブースターって、もしかしてキャンセラーと一対の能力と言われてるものですか?」
「そうだ。天賦を消滅させる能力と限界まで引き出す能力。相反する力が一対で顕在するという説が有力だ」
「それは一人に両方の力が?」
モーリスの質問に、捜査官は白髪を掻き上げた。
「あるいは非常に血の近い者同士に」
「……もしかして、双子とか?」
メロディの言葉に彼は頷いた。そして、懐から厚みのある封筒を取り出した。
「これは、湖水祭の写真だ」
写真は日が暮れる前の様子だった。
――高感度フィルムはまだ無いから仕方ないか。
湖畔でのものがないのは残念だったが、群衆の顔はよく撮れていた。捜査官から写真を受け取ったメロディたちは手分けして群衆の中に不審者を探した。
「それにしても、よく撮れてますねえ。夕暮れ時なんて難しかったでしょうに」
容易に顔識別が出来そうな写真の束に、メロディが感心した。ディクソンは素っ気なく答えた。
「フィリップス家が専門のカメラマンを雇って撮らせたものだからな。機材も最新式で」
「ああ、ここで実績作って内外の警察や報道関係、探偵社や好事家に売り込むんですね」
銀行家らしい商魂たくましい先行投資と彼女は納得した。
「大公家のお城の焼死体やホテルで見つかった死体の写真より詳細ですもんね」
身も蓋もない感想に、警視庁の者たちは同様に苦笑いした。
「これ、あの男じゃないか?」
モーリスが目ざとく発見し、その前後の写真を全員が凝視した。
「ここにも写ってる」
「群衆の背後で山車を追ってるようだな」
「その人に接触した人はいませんか? 後を付けてる感じの人とか」
一同は無言で写真をめくり、しばらく印画紙のかさかさした音のみが聞こえた。やがて、トービルが興奮した声を出した。
「こいつ、連続して男の後ろにいる」
彼が指さすのは帽子を深く被った男性だった。眼鏡をかけており顔立ちは判明しないが、鼻の下から顎に掛けてのヒゲが特徴的だった。
「これって、山羊ヒゲ…」
連想するのは当然大山羊だ。メロディは男の持ち物が写っていないだろうかと必死で探した。
「うーん、ハミルトン侯爵家から消えた杖は分からないですね」
メロディは残念そうな声を出した。ディクソン捜査官が事務的に答えた。
「一応、祭りの日のトヴァイアス・ハミルトンのアリバイを確認しておく」
警視庁に戻る彼を目で追い、子爵令嬢は溜め息をついた。
「嫌な予感がするんですよね。祭りの日に限ってクラブかパブで大勢の目撃証言があるとか」
ドッド警部が皮肉げに笑った。
「もしそうなら完全にシロか、余程都合のいい替え玉を用意してるかどっちかじゃろうな」
「眼鏡とヒゲで誤魔化せるかもしれないですけど、親しい人たちと長時間呑んだり遊んだりしててバレないものでしょうか」
疑わしげなメロディに、モーリスも同意した。
「そうだな。酒や食事の好みに量、カードなら得意な手など相当細かい所まで把握し模倣しなければならない」
「役者ぐらいですかね、そんなことができるの」
被害者の中に劇場付きのダンサーもいたことを思い出し、メロディは劇場を調べるべきかと考えた。トービルは首をかしげた。
「下手なのじゃすぐにボロが出るでしょ。主役が張れそうな演技力がある奴が、犯罪絡みに手を貸すかな?」
「手がかりもないなんて…。ネズミさんは消息不明で馬、いやロバさんは何も知らなそうだし、草食獣のご婦人たちは怯えて地方に行っちゃったし……」
ネイチャー&ワイルドの活動はどうなっているのかすら不明だ。悩む彼女をモーリスが気の毒そうに慰めた。
「あのクラブについては父上に相談してみるよ」
「大公殿下って顔が広いですもんね」
「僕も知らなかった」
大真面目に賛同するモーリスに、彼女は小さく笑った。そして、より危険な組織に思いを馳せた。
「個有者を目の敵にする『ジェニュイン』も気になるし」
「それに関しては国をまたぐ活動と見なされて海軍情報部が動いている」
ローディンで最も精鋭部隊と言える諜報員を抱えている組織だ。これに関してはプロに任せるしかないだろう。思考を切り替え、メロディは残暑の空を見上げた。
「こっちはこっちの出来ることをするしかないですね。というわけで、ジャスティン様とスラムに行ってきます」
「……何でそうなる」
「あの子曰く、一番疑われずに堂々と盗みに入れる人材を確保できるらしいですよ」
「だが、危険な地域だぞ」
「ジャスティン様とマディがいるんですよ」
きっぱりと言われ、今日の彼女が少年のような半ズボン姿なのはそのためかとモーリスは推察した。
「スラムの境界まで同行するし、遅くなったらすぐに護衛を突入させるからな」
「じゃ、時間厳守で交渉しますね」
二人のやりとりを眺めた老警部と新人警官は、やれやれという顔で手応えのない釣り竿に視線を向けることにした。