52 あなたの胸をあきらめないで
やがて、湖水祭の前夜祭とも呼べるウォグホーン城の夜会当日となった。
朝からぐったりした様子のメロディを見て、ジャスティンが心配そうに尋ねた。
「大丈夫か、姉ちゃん。死相見えてっぜ」
「殺さないでください。大公妃様のパワフルぶりに当てられただけですから」
「すまないな、母上はとことんやらなければ気が済まない性質で」
代わりにモーリスが謝罪した。メロディは力なく首を振った。
「いいんです。ただ、どんな話題でも最後は大公殿下との惚気話になるのに疲れただけで…」
それには大公の息子は遠い目をした。
「母上にとっては日常会話なんだ。天気の話だと思って聞き流してくれ」
「…はあ……」
ドレス選びの合間に聞かされたジョン大公――当時はプランタジネット伯爵だったが――との出会いからご成婚まで、リピートされまくったおかげで講釈師になれそうな気分だ。
「大公妃様は本気で一目惚れだったんですね。大公殿下は一度会っただけで顔を覚えられたショックでグラスを落としてしまったそうで」
「人生初の出来事だったらしいぞ」
生まれた時から聞かされ続けた愛のメモリーを、モーリスは淡々と語った。メロディは真面目に頷いた。
「確かに愛ですよ。国王陛下と比べて大物過ぎるからって、ご結婚を反対されたんですよね」
マーガレット王妃は国内の伯爵令嬢だった。海防を担ってきた名門だったとは言え、弟が大国アグロセンの王女というのはバランスがとれないと思われたのだろう。
「アグロセンにおけるありとあらゆる権利を放棄して、やっと議会の承認がとれたらしいな。それでも反対されたら密入国を本気で考えていたと言われた」
「やりかねませんね」
――いや、あの方はどう見ても障害があるほど燃えるタイプでしょ。
話し合う内に、自動車が到着したのにメロディは気付いた。
「まだ昼間なのに、お客様?」
「あの紋章は、ハミルトン侯爵家だな」
思わずメロディはライトル兄妹を振り向いた。ジャスティンが嫌そうに鼻に皺を寄せた。
「あ? あのクズが来んのかよ」
「侯爵家のお子様がたも同乗されてますね。大公殿下へのご挨拶でしょうけど」
迎撃態勢のジャスティンを宥め、メロディは不機嫌そうな侯爵家の兄弟に目をやった。楽しそうなホテルやカジノから離れてこんな所までご機嫌伺いに付き合わされたのだ。侯爵の子息たちの仏頂面も頷けた。
――込み入った話は大人同士だろうから、その間子供たちは…。
嫌な予感が当たり、ハミルトン侯爵家の次男ギルバートと三男マーカスがティールームに姿を見せた。ジャスティンとエディスを見るなり彼らに緊張が走った。メロディはエディスと並んで淑女の礼をした。
「ご機嫌よう、ハミルトン様」
大公家のメイドたちが思わず顔をほころばせる微笑ましくも優雅な一幕に、侯爵家の兄弟も渋々礼をした。
「ご機嫌よう…、何でお前がこんな所に」
苦々しげにギルバートが言うと、メロディはしれっと答えた。
「大公殿下にお招きを受けましたの。ライトル伯爵家の方々とご一緒に」
ジャスティンに目を向け、ギルバートは忌々しそうに吐き捨てた。
「上手く伯爵家に入り込んだようだな。だが、伯爵はともかく、ローディンの貴族社会はお前など認めないからな!」
「言葉が過ぎるぞ、ギルバート卿」
さすがにモーリスがたしなめたが、それより過激な反応に出た者がいた。矢のように侯爵家の次男に突進し、腹部に頭突きを喰らわせたのは幼い伯爵令嬢だった。不意を突かれてひっくり返ったギルバートの股間をがしっと踏みつけ、エディスは据わった目で宣言した。
「潰すぞ、ゴラ」
被害を受けていないはずのマーカスがしゃくり上げ、何故か内股で逃げ出した。
「お母様ー!」
慌ててメロディは天使のような幼女を背後から抱き上げ、侯爵家の次男から引き剥がした。
「エディス様、そこまでです。そんな汚い物踏んでたら靴が汚れます」
「き、汚いとは何だ!」
叫ぶギルバートの声は裏返っていた。呆気にとられていたジャスティンが吹き出し、声を上げて笑い始めた。急遽メイドに連れ去られながら、エディスが中指であかんべーをした。
「どうしたの、ギルバート」
ハミルトン侯爵夫人がティールームに入ってきた。怒りに震えながら床に尻餅をつく次男とすっかり怯えてスカートにしがみつく三男に状況が掴めないらしい。
彼女の前にすっとモーリスが進み出て、恭しく礼をした。
「お騒がせして申し訳ありません、侯爵夫人。ギルバート卿がジャスティン卿を侮辱する発言をして、レディ・エディスが怒って喧嘩になりかけまして」
経過を四捨五入した説明に、侯爵夫人は息子をたしなめた。
「そうでしたの。ギルバート、レディ・エディスに怪我などさせていないでしょうね」
真っ赤になりながらギルバートは立ち上がり、弟の手を掴むなり部屋を出て行った。侯爵夫人も後を追い、ティールームは一気に静かになった。溜め息交じりにメロディは伯爵家の子息をたしなめた。
「……ジャスティン様。これ以上エディス様にバイオレンス教育などしたら、お嫁のもらい手がなくなりますよ」
「覚えがいいから、つい」
「ついじゃありません。でも」
少年を抱きしめ、メロディは囁いた。
「よく我慢なさいましたね」
「…あんなクソ野郎なんか、殴る価値もねえって」
「ジャスティンの言うとおりだ。どうもハミルトン侯爵家の兄弟は選民意識が強くて。お祖母様のご実家に連なる家系だから仕方ないか」
「王太后様の…」
あの強気はそれでかとメロディは納得した。
「下の子はともかく、ギルバート様は夜会にも出られますよね」
「挨拶だけして放置だな」
まだ幼いライトル兄妹は夜会には不参加だ。メロディは彼に言った。
「湖水祭はみんなで見に行きましょうね」
「うん」
ジャスティンは嬉しそうに頷き、マディも楽しみだと吠えた。
やがて日が沈み、ウォグホーン城はきらびやかに飾られた姿を夜に浮かび上がらせた。近くの水力発電所から引いた電気照明が庭園を煌々と照らしだし、訪れる賓客は感嘆の声を上げた。
大公と二人、女性陣の支度を待っていたモーリスは父親に尋ねた。
「ハミルトン侯爵と何を話されていたのですか」
「ああ、ちょっとね。彼の異母弟の話とか」
ネイチャー&ワイルドで見かけた大山羊かも知れない人物だ。モーリスは安楽椅子の肘掛けに置いた手をこわばらせた。大公はのんびりと続けた。
「侯爵にも居所は掴めないそうだよ。一緒に暮らしたこともない、先代とは養育費だけで繋がっていた弟だからね」
「複雑そうですね。あの杖は結局その弟が持ち出したのですか」
「彼が侯爵邸に姿を見せた日に消えてしまったようだからね。貿易商らしきことをしているようだが、実態は分からない」
「怪しいと言えば怪しいのですが、こちらにある証拠は杖を持つ後ろ姿の写真のみですから。警官が踏み込んだ時に全員の指紋が採れていればと思いますよ」
大公が可笑しそうに息子を見た。
「すっかりCSI部の発想だな」
「警察に科学捜査を取り入れるのは妥当な案だと思います。あんな言いがかりがなければ警視庁もその方針に進んだかも知れないのに」
「急ぎすぎないことだよ、モーリス。人は急には変われないんだからね」
「はい」
彼らの元に大公妃付きのメイドが報告した。
「奥様のお支度が出来ました」
親子は同時に立ち上がった。
深紅のドレスを着た大公妃は黒髪との対比が見事で、大公は細い目を更に細めて感嘆した。
「綺麗だよ、カイエターナ。竜も花嫁に望みそうだ」
「重婚罪になってしまうわ。あなたもとても素敵」
睦まじく互いを賞賛する夫妻とは対照的に、息子はエスコート相手を一目見た時から棒立ちだった。
メロディのドレスは鮮やかなライトブルーに金色のレースと刺繍で装飾されていた。大きく開いた胸元は重ねたレースで金色の輝きを帯びている。薄絹のショールを腕に絡ませ、メロディは彼に言った。
「こんなドレス、もっと豊満な胸の人でないと似合わないのですけど、補整下着恐るべきですよ。モーリス様も、上げ底に誤魔化されないでくださいね」
「……そうか。あ、いや、よく似合ってる」
青と茶の二色に分かれた彼女のダイクロイックアイを絶妙に引き立てるドレスだ。栗色の髪にもレースを編み込んで華やかさを演出している。
モーリスは彼女に腕を差し出し、大公夫妻の後に続いた。
舞踏室は夜会の来客で賑わっていた。大公夫妻はたちまち人々に取り囲まれた。カイエターナ大公妃は堂に入った様子で来客に挨拶し歓談している。
モーリスとメロディはまずメアリ・アン・フィリップスに出会った。
「ご機嫌よう、フィリップスさん」
メロディに挨拶され、可憐な白とピンクのドレスのメアリ・アンは楽しそうに笑った。
「ご機嫌よう、モーリス様、メロディ様。素敵な夜会ですね。あのシャンデリア、蝋燭じゃないですよね」
「目ざといな。近くのウコーナー川に出来た水力発電所から引いた電気だよ」
「電飾……」
メロディは庭に目をやった。ウォグホーン城の庭園は昼間のように眩しくライトアップされている。
「気付きませんでした。上手く電柱と電線を隠しているのですね。あ、もしかして電話線も引いてるとか?」
「麓の役場経由で首都に直通だと言っていた」
「まさかのホットライン」
驚いていると主賓の到着が告げられた。王家の人々だ。夜会の参加者が一斉に礼をする中、国王アルフレッド、王妃マーガレット、王太子ジュリアスと婚約者ジョセフィン、王女マティルダとエスコート役のギルバート・ハミルトンが登場した。メロディは昼間に見た侯爵夫人と寄り添う男性に注目した。
――あれがハミルトン侯爵……。
尊大な印象を受ける侯爵は、王女と並ぶ息子の姿に満足そうだった。