50 だれか理由を知らないか
ウォグホーン城の暗室に戻ったメロディは、箱の中のフィルムを取り出した。
「これが図書室、こっちが建物の外側、これは……?」
一袋だけ、何も書かれていなかった。中のフィルムを出した時、一枚の紙が出てきた。そこにはこれを撮影した時の状況が記されていた。
「……まさか、そんな…」
フィルムと紙を持つメロディの手が小さく震えた。
珍しく硬い表情で暗室から出てきたメロディに、モーリスが声をかけた。
「何かあったのか?」
メロディは周囲を見回した。その様子に、モーリスは込み入った話が出来る小書斎に案内した。
「師匠が寄越したフィルムの中に、これが入ってたんです」
メロディは説明文の紙と現像した写真を彼に渡した。それに目を通し、モーリスは真剣な表情で見比べた。
「ドッド警部はどうしてこんなことを」
紙に書かれていたのは、これが刑事部のカーター警部のデスクから採られた指紋の写真であり、マックス・トービルが掃除夫に変装し極秘に採取したものだという経緯だった。
「証拠保管庫の指紋はカーター警部が提出した書類とは別人だった。なのに師匠はデスクまで採取させた。違和感があったのかも」
「違和感?」
話が見えないモーリスは困惑するばかりだった。メロディは静かに、初めて警視庁を訪れて逆ギレした日から記憶を辿った。
「師匠に会った時、既視感を覚えました。話し方や表情が似ている人を知っているような。後になってカーター警部だと気付いたんです」
「言われてみれば、そうだな。飄々とした達観した風な印象が似ている」
「年齢からいって、師匠の方が先輩ですよね。もし部下だった時期があれば影響を受けるかもと思ったんです。でも、師匠は指紋などの科学捜査を提唱して煙たがられて早々に刑事部門から外されたって。刑事一筋のカーター警部とは接点がないんです」
「それは、個人的に交流があったとか?」
「師匠と個人的な関係があるのは重大犯罪課のディクソン捜査官ですよね。それとトービルさんと。カーター警部とは同僚以上のものは見受けられないんです」
「カーター警部はCSI部がフェスティバルに出る前に科学捜査に興味を持っていたかな?」
「私たちが警視庁を訪問した時に初めて知った感じでしたよね」
「なのに、ドッド警部のパーソナリティを模倣した……」
モーリスにも事態の奇妙さが納得できた。
「師匠は孤立状態というか、知る人ぞ知る存在で、ほとんど隠遁者のようでした。似ていてもそれを知られずにすむ存在だったとしたら」
彼には必要だったのかも知れない。ネイサン・カーターという人物を作ることが。
メロディは力なく首を振った。気さくに接してくれた警部が違法行為に加担していたなど信じたくなかった。
「でも、警部には完全なアリバイがあった」
資料保管庫が荒らされた夜は刑事課の同僚とパブで飲んでいた。大勢の人が彼が店から出なかったことを証言している。
そこまで考えて、メロディはずっと引っかかっていたことを呼び起こした。
「証拠保管庫を荒らした者は手袋もせずに指紋を残した。まるで採取されることも折り込み済みのように」
それを聞き、モーリスも思索した。
「なら、分かっていたことになる。自分の指紋は一致しないことを」
疑わせておいて証拠で無実を証明させる。自動的に彼は疑惑の対象から外れる。メロディは警視庁を追い出された日を思い出した。自分たちに目もくれずに通り過ぎていったカーター警部の後ろ姿を。
手にした指紋写真の袋を、彼女は握りしめた。
「とにかく、分析してみます。この中に保管箱と同じ指紋があれば侵入者はカーター警部ということになりますから」
指紋採取はデスク引き出し内側など、持ち主でなければ触らない箇所を重点的に行われていた。
「こんなことしたって露見したら、師匠もトービルさんもただじゃすみません。でも、一つの可能性に賭けて私たちを信用してくださったんです」
それならば今の自分に出来るのは全力で応えることだ。モーリスが彼女の手にそっと触れた。
「手伝うよ。二人で分担した方が早い」
「お願いします」
覚悟していたが、採取した指紋はいくつも重なっているものがほとんどだった。
「これは手強いですね」
ドラマのようなコンピュータがあればとメロディは嘆きたかったが、すぐに不毛な愚痴を封じた。
――この天賦を生かさなくてどうするの。
二重になった指紋の写真を睨み、新しいものの方がくっきりとしているのに気付く。
「濃淡で分離できるかも」
メロディは天賦を発動させた。
――視覚調整、濃淡強調。
写真から重なった指紋が浮かび上がり、陰影が強調された。
――いけるか?
浮かんだ指紋がほどけるように二つに分かれた。すぐさまモーリスがメモを取った。
「僕は薄い方の特徴点を洗い出す。君は濃い方を」
「了解」
二人は手早く指紋の最内の半円の頂点に中心点をとり、そこから軸を伸ばした。始点、終点、結合、分離。指紋の特徴を手早く紙に写していく。
やがて空中の指紋は消失した。
「何とか十二点以上取れました」
「こっちもだ」
「じゃ、次を」
別の写真を取り出すメロディにモーリスは首を振った。
「顔色が悪い。続けざまに発動するのは無茶だ」
残念そうにメロディは断念した。机の引き出しの写真を見て、彼女は妙なことに気付いた。
「この指紋、右側と左側に偏ってますよね」
「そうだな」
メロディは書斎のライティングデスク前に腰掛け、天板下の平引き出しに手を掛けた。
「私は右利きですから、当然右側を持って引き出します。カーター警部はどちら利きなのでしょうか」
問われてモーリスは公園で彼と会った時を思い出した。
「確か、煙草に火をつけるのに右手でマッチを擦っていた」
「では、この左側の指紋は……」
「休憩したら、まずこれからだな」
大公の息子は子爵令嬢に手を貸して立たせると、一緒に小書斎を出た。
お茶と軽食でメロディの頬の血色は回復した。ティールームで遊んでいた伯爵家の兄妹は、二人の持っていた指紋の写真を面白そうに見物した。
「ぐるぐるが一杯」
驚くエディスにジャスティンが説明した。
「指紋って言うんだ。みんな指に持っててみんな違うんだって。これで姉ちゃんが俺がジャスティン・ライトルだって見つけてくれたんだ」
「これ誰の?」
「警部さんのですよ」
メロディがエディスに答えると、ジャスティンは思い出そうとした。
「姉ちゃんが指紋の手品見せた時にいた口ひげのオッサン? なら、公園で見たことあるだろ」
首をかしげたエディスはすぐに頷いた。
「おヒゲとタバコ!」
「よく覚えてたな」
ジャスティンに頭を撫でられて、小さな伯爵令嬢は得意げに反り返った。その兄は自慢そうに妹を褒めた。
「エディスは何でもすぐ覚えるんだ」
「記憶力がいいのですね」
「こいつならスリだってイケるだろ」
「絶対教えないでくださいね」
にこやかな拒否権発動に少年は笑って誤魔化した。モーリスは可憐な令嬢を興味深く見た。
「レディ・エディスは視覚記憶に優れているのかな」
「天賦があるとしたらその方面でしょうか」
直感像所有者なら異世界でもごくまれにいた。この小さな少女が持つものが何であれ、彼女の無邪気さを損なうことにならなければいいとメロディは願った。
次の作業に取りかかろうとした時、予定外の訪問者がウォグホーン城に現れた。
「ジュリアス、マティルダ、ジョセフィンまでどうした?」
驚くモーリスに、王太子は小声で言った。
「マティルダが奇妙なことに気付いた。話せる場所は?」
少年二人が小書斎に消えると、少女たちはテーブルを囲んだ。
「大丈夫ですか、王女殿下。顔色が…」
「いいの」
頑なな彼女を見て、物怖じしないエディスが歓声を上げた。
「王女様だ!」
家庭教師に教わったとおりに淑女の礼をしてみせる小さなレディに、ほっとした空気が漂った。
やがてエイダが温かな飲み物を持ってきた。自動車で風に吹かれたマティルダたちはそれを飲みひと息ついた。
「何だか深刻ですね。王太子殿下のあんな真剣な顔、初めて見ました」
「あなたね、あの方は別に愚かではないのよ。女性に見境ないだけで」
公爵令嬢が叱責したが、その弁護に大きな矛盾を感じたのはメロディだけではなかった。
「そうですか、こちらもちょっと込み入ったことになってて、モーリス様と対策を練ってたとこなんです」
「こんなとこまで来て指紋分析なの?」
「職業、いや、部活病というか……」
「これが、ライトル伯爵家のご令息を発見したものなの?」
マティルダが珍しそうに写真を手にし、自分の指と見比べた。
やがて戻ってきた従兄弟二人もテーブルに着き、まずモーリスが王女に尋ねた。
「マティルダ、お祖母様の側にいて『バックランド文書』という言葉を聞いたことは?」
彼女は首を振った。
「何なの、それ」
「ライトル伯爵家が狙われている原因だよ」
ジャスティンが大公の息子を見上げ、その足元で小型犬が唸り声を上げた。