40 どうにも止まらないから止めてくれ
犬を探しに行ったはずのメロディがマディと王女を連れて戻ってきたのには、さすがに王太子ジュリアスも驚いた様子だった。
「マティルダ……。どんな魔法を使ったんだ、カズンズ嬢」
「誘っただけですよ。ちょっとした実験に」
「実験?」
その言葉にはモーリスが反応した。そっと子爵令嬢に確認する。
「まさかここまで鑑識セットを持ち込んでるのか?」
「今はお城に置いてますよ。それより、王女殿下はこちらにどうぞ」
丸いテーブルを囲んで置かれた椅子の一つにマティルダを座らせ、彼女自身は対面の椅子に座った。
「申し訳ありませんがモーリス様、この質問を読んでもらえますか」
メロディは大公の子息に一枚のメモを渡した。何の変哲も無い質問事項に彼は首をかしげた。それに構わず彼女は王女に説明した。
「これから私はモーリス様の質問に『はい』だけで答えます。王女殿下はそちらの紙に嘘だと感じた質問の番号を控えてください。モーリス様、お願いします」
彼は紙を読み上げた。
「一、私の誕生月は熱月である……」
そうした質問を五個読み上げ、全てにメロディは「はい」と答えた。マティルダはいつしか集中して紙に番号を書き込んだ。
やがて王女はメロディに紙を渡した。
「こう聞こえたわ」
「二番と四番ですね。正解です」
何とはなしに見物していたジュリアスたちが驚きの声を上げた。
「天賦を使ったのか、マティルダ」
「いいえ、ただ、息づかいや答えるまでの間に違和感があっただけで」
「生まれ持った資質ですね」
メロディの言葉に彼らは不思議そうな顔をした。子爵令嬢は解説を始めた。
「私の天賦は視覚調整です。小さな頃から素の視力はかなりいいんです。特に色の識別は鑑定士級だと言われました」
「つまり、天賦は個人の資質に関連していると言うことか」
モーリスの推測に彼女は頷いた。
「それに上乗せした形の特殊能力だと思ってます。視覚調整と言ってもここにない物の映像は作り出せません。今ある物に対する光の反射と吸収のパラメータを操作するようなものではないかと」
その言葉に賛同したのは、意外にもマールバラ公爵令嬢だった。
「分かります。周囲を見ても、その人の持つ特質が天賦に繋がっていますもの」
そして彼女はじろりと婚約者である王太子を睨んだ。彼は爽やかな笑顔で誤魔化した。
メロディは複雑そうな顔をする王女に語りかけた。
「嘘を感知するのは、緊張から来る発汗や脈拍数の変動などを測定する複雑な機械が必要です。王女殿下は直感で聞き分ける資質をお持ちなんですよ。これまで聞こえていた物が聞こえなくなるのは不安でしょうが、生来のものまでが消えた訳ではないことがお分かりですか?」
じっと手持ちの紙を見つめていたマティルダは微かに頷いた。その肩に兄である王太子がそっと手を置いた。
「天賦が消えてもマティルダは可愛い妹であり、父上や母上にとっては大事な娘だ。これは嘘か本当か分かるかい?」
「お兄様ったら」
王女は笑い出した。屈託のない楽しげな笑い声だった。
そこに、ライトル伯爵家の兄妹が戻ってきた。
「あー、マディ、こっちにいたんだ」
小型犬が嬉しそうに吠え、少年は厨房からもらってきた骨をやった。彼らに比べて妙におとなしいエディスに、メロディは気付いた。
「お疲れですか?」
そう尋ねればこくんと伯爵令嬢は頷いた。メロディはモーリスに告げた。
「エディス様が眠そうですので、先にウォグホーン城に帰ります」
「そうか。気をつけて」
彼の言葉を素通りさせ、メロディは運転手にせがんだ。
「少しでいいから、運転させて」
「仕方ないですね。勾配がゆるい区間だけですよ」
「ありがとう!」
ここに来てからモーリスやジャスティンと競うように自動車の運転を習ってきたのだ。
車に乗り込もうとすると、誰かが近づいてきた。マティルダ王女だった。
「……その、ありがとう。それから、叩いたりしてごめんなさい」
不器用な謝罪にメロディは笑顔で答えた。
「次はやり返しますから!」
手を振りながら車を発進させるのを見送り、マティルダが呟いた。
「完全に本気だったわね」
苦笑していたモーリスは、出て行ったばかりの車が停められていた場所を見て眉をひそめた。地面に何かが垂れた痕がある。
「これは……燃料漏れか? いや…」
顔色を変える彼の側に来たジョセフィンが悲鳴を上げた。
「大変だわ! すぐに追いかけて!」
いつも強気な公爵令嬢が震えている。モーリスは城の運転手を捕まえ、質問した。
「一番速い車は?」
「……あれです」
彼は指さされた一台に飛び乗った。
「借りるぞ!」
レバーを倒し、ペダルを踏み込む。タイヤをきしませて急発進する車にメアリ・アンが仰天した。
「どうしたんですか、ジュリアス様、ジョセフィン様?」
自身を抱きしめるようにして動揺を堪える公爵令嬢を支え、王太子が言った。
「彼女の天賦、危機感知だ」
「危険って、メロディ様たちが?」
さすがにメアリ・アンは顔色を無くし、王太子は従兄弟の車が消えた峠道を見つめて呟いた。
「……間に合ってくれ」
最初、下り坂のドライブは快適そのものだった。クラシックカーのハンドルは重く、サスペンションも完全ではなかったが、メロディは充分楽しんでいた。
――これはBGMにユーロビートが欲しいなー。いやいや、今は子供たちを乗せてるんだから、安全第一。
やがて坂が急になる区間になった。停止して運転手と交替しようとしたメロディは異変を察知した。
「ブレーキが…」
ペダルを踏み込んでいるのに、一向に減速しないのだ。しかも、アクセルレバーは一番下に入れているのにどんどん加速していく。
「停止できない!」
助手席の運転手が手を伸ばして一緒にハンドル操作をした。
「思いきり右に回して!」
必死でカーブを抜けようとするが、テールが内側の斜面に接触し大きく振られた。メロディは後部座席の兄妹に向けて叫んだ。
「しっかり掴まってて!」
ガードレールもない山道だ。少しでも運転を誤れば崖から飛び出してしまう。
「左!」
減速できないまま車は急カーブに突っ込んだ。曲がりきれずにふらふらと崖に行こうとする。
もう駄目かと思わず目を閉じた時、右サイドから衝撃があった。目を開けたメロディは、コーナーの大外からノーズを割り込ませてきた大型車に瞠目した。運転席にいるのは大公家の子息だった。
「モーリス様!」
彼に会わせて必死で山肌に左サイドをこすりつけ、金属が擦れる音をけたてて二台はどうにか停止した。
尚もタイヤを空転させるメロディたちの車だったが、それもエンジンが潰れると動かなくなった。
「大丈夫か?」
モーリスに問われ、メロディはかくかくと首を振った。そして彼女は後部席を振り向いた。
「ごめんなさい、怖がらせて。…エディス様?」
小さな伯爵令嬢は呆然としていたが、突然立ち上がると目を輝かせて言った。
「もう一回いい?」
彼女の趣味に峠を攻めることが加わりませんようにと、メロディは真剣に祈った。呆れた顔でジャスティンがぼやいた。
「大物だな、お前」
モーリスは運転手と話し合い、ダメージが少ない大型車の方でメロディたちを送り届けることにした。
兄妹が乗り換えた後で車を降りようとしたメロディだったが、膝が震えてしまっている。
「どうした?」
「あ、今頃震えがきたというか、腰が抜けたというか…」
「そうか」
簡単に答えるとモーリスは彼女を両手に抱えて車から降ろし、ライトル兄妹の隣にぽんと置いた。そして運転手に言った。
「ウォグホーン城に彼らを届けて父上に状況説明をしてくれ。僕はここで別働隊を待つ」
「分かりました。お気をつけて」
「頼んだぞ」
大型車は慎重に走り出し、後部席から彼を振り向いたメロディは何も言えないまま離れていった。
事故現場にはほどなく応援の車が到着した。同乗していたジュリアスが崖に鼻面を潰された車を見て呆れた。
「ひどくやったな」
「止めるにはこれしかなかった。伯爵家の兄妹やカズンズ嬢は無事だ」
「それは何よりだ」
ほっとした様子の王太子は、従兄弟に小声で伝えた。
「他の車は異常なかったが、整備士が一人、姿が見えない」
「そいつの仕業なのか?」
ジュリアスは曖昧に首を振った。峠道から見える湖水群は穏やかに湖面をきらめかせていた。