39 お久しぶりねは悲喜こもごも
その日の朝も、マックス・トービルは退屈な証拠資料保管庫の受付席に行こうとした。
彼が小さな違和感を覚えたのは、警視庁地下への扉の鍵だった。
「…何か、動きが悪いな」
古いためと思い直して保管庫に入った時、トービルは言葉を失った。
昨日は確かに整然と棚に並べられていた証拠が、床に投げ散らかっていたのだ。彼は慌てふためいて階段を駆け上がった。
文書庫から降りてきたドッド警部は、惨憺たる有様の証拠保管庫に唖然とした。
「こいつは酷いな」
「片付けるのにどれだけかかると思ってんだよ!」
怒り心頭のトービルが、ふと気付いて声を潜めた。
「これ、今年の夏の証拠品を中心に荒らされてますね」
「ランダムに見せかけちゃいるがな。無くなってるものは?」
証拠保管箱に書かれた通し番号を数え、トービルはにやりと笑った。
「ここにないのは、特別保管のアレだけですよ」
「移しといて正解だったな」
彼らの前に転がっているのはサイアーズ事件、スラム街娼殺人事件、ダンサー殺人事件の空の保管箱だった。
荒らされた現場の写真を撮り、ドアや棚から指紋を採取し、トービルは保管庫の片付けに取りかかった。冷やかしと同情が半々の同期以外に誰も来ないだろうと思っていたが、予期せぬ者が忘れられた保管庫を訪れた。
「侵入者があったと聞いたが」
白髪赤眼の青年、ラルフ・ディクソン捜査官だった。頷くトービルの側を通り、彼は空の保管箱に手を触れた。天賦を発動させ、その箱に残る残留思念を探る。頭の奥に次第に形を結んでいく人物を、彼は見極めようとした。そして、驚愕の表情で手を離した。
「どうしたんスか?」
捜査官は答えることなく保管庫を出て行った。
重大犯罪課のエースが向かったのは自分の部署ではなく、建物の外れにある文書庫だった。
「失礼します、警部」
「おう、どうした?」
ドッド警部が未整理文書の山から顔を出した。ディクソンは彼の元に歩み寄った。
「さっき、証拠保管庫に行きました」
「そうか。盗まれた物はないんだが、マックスの奴が泣いてなかったか?」
冗談めかした老警部は、捜査官が表情をこわばらせているのに気付いた。
「ろくでもないモンを見たようだな」
ディクソンは頷いた。
「空の箱の残留思念を追いました。見えたのは左手の甲にある三個のほくろでした」
ドッド警部は無言で書類を置くと部屋の隅に行き、ポットのお茶を飲んだ。
「確かなんだな」
「顔も見えました。あれはカーター警部です」
そっと廊下の方に目をやり、警部は若い捜査官に告げた。
「誰にも言ってないだろうな」
「はい」
身内が捜査妨害をしたなど噂でも大事になる。特に対立関係にある刑事課の警部であれば、一気に内部分裂に発展しかねない。
「罠なのか何なのか…」
警部は先ほど採取したばかりの指紋資料を眺めた。その中には空の証拠保管箱からの指紋もあった。
彼は突然最近の文書の棚に移動した。
「刑事課……、これだ」
それは捜査報告書だった。最後のページにネイサン・カーター警部のサインがある。手袋を嵌めてドッド警部は部屋の隅に報告書を運び、黒鉛の粉末を振った。慎重にブラシで余分な粉を払い、浮かび上がる指紋を箱に残っていた物と照合した。無言の中に紙を動かす乾いた音だけが響いた。やがて、警部は拡大鏡を放り出した。
「一致しない。別人だ」
捜査官は何も答えられなかった。カーター警部の疑惑が晴れたのは喜ばしいことのはずなのに、別の疑念がじわじわと彼の胸を浸食した。
――あれほど鮮明な残留思念で誤ることなど無かったのに……。
小柄な老警部が、自分より高い位置にある肩を軽く叩いた。
「あまり深刻に考えるな。身内を疑わずにすむことだけに感謝するんだ」
「……はい」
必死で動揺を堪えながら、ディクソンは文書庫を出ようとした。彼の耳に、軽やかな声が甦った。
『筋がいいですよ』
無鉄砲で呆れるほど前向きだった少女の声。懐かしさすら覚えながら、ディクソンは思い出した。彼女から受け取った物を。
重大犯罪課捜査官は自分の課へと急いで戻った。
グレート・アヴァロン島北部、ロッホ・ケアー湖畔。
大公家の城より更に奥、王家の別荘であるアルウエッグ城にメロディとモーリスとライトル伯爵家の兄妹は表敬訪問に来ていた。
国王夫妻は首都での行事に参加していたが、王太子と王女は滞在中のはずだ。そう思って自動車で到着した彼らは、妙に既視感のある光景に出くわした。
「ジュリアス様ー、森にお散歩に行きませんかー」
「あなたね、この前あやうく捜索隊を出されるところだったのを忘れたの?」
「まあまあ、散歩くらいいいじゃないか、ジョセフィン」
「殿下は甘すぎます!」
「そんなに怒るなんてひどいっ」
急激にウォグホーン城に戻りたくなったメロディは、似たような顔をしているモーリスと並んで突っ立っていた。物珍しそうなジャスティンに袖を引っ張られ、彼女は渋々彼らを紹介した。
「ジュリアス王太子殿下と婚約者のジョセフィン・マールバラ公爵令嬢、それにメアリ・アン・フィリップスさん」
「あの銀行家の? やっぱ王族には大物が集まるんだな」
彼らに気付いた王太子ジュリアスが片手を上げた。
「来たな、モーリス。カズンズ嬢も」
「ご機嫌よう、殿下。マールバラ様とフィリップスさんもお元気そうで」
挨拶をした後で、メロディはロイヤルファミリーが約一名欠けているのに気付いた。
「あの、王女殿下は?」
「マティルダはすっかり塞ぎ込んでるんだ。避暑に来れば少しは気分転換になるかと思ったのだが」
ジュリアスが心配そうに答えた。彼を挟んだジョセフィンとメアリ・アンも頷いている。
お見舞いをと思ったが、拒絶されるの可能性もあり悩ましいところだ。学園の生徒たちが思案を巡らす側で、小さなエディスが兄に言った。
「マディがいないわ」
ジャスティンといつも一緒の小型犬が、目を離した隙にどこかに潜り込んだようだった。
「あいつが行くなら食い物のある場所だろ」
兄妹はメイドに案内されて厨房に向かった。
「私も探してみます」
メロディは城の庭園を歩いた。ここの庭からはロッホ・ケアーだけでなく湖水群が一望できる。
緑深い山々と空を映す湖と、絵のような光景にしばし見とれた後で、子爵令嬢は犬探しを再開した。
庭園の最も奥まった場所に小さな東屋が作られていた。そこに置かれたソファにローディン王国第一王女マティルダは座っていた。
庭園の向こうから、兄や彼の婚約者、女友達の声がする。声だけでなく、その内側の感情を彼女はつい『聴こう』とした。だが、何も届いてこない。
天賦の消失は決定的だと研究者は言い、両親も兄も腫れ物扱いだ。もう何も聞きたくないと思うのに、一人になることも出来ない。
膝を抱えていると、何かの息づかいがした。顔を上げたマティルダの目の前に、小さな犬がいた。瞬きを繰り返し、彼女は恐る恐る犬に手を差し伸べた。
「変な犬。何の種類かしら」
ずんぐりした体型の犬は短毛で垂れ耳、白地に茶のまだらがある。細い尾を振って、犬はテーブル上の菓子を狙った。
「これが欲しいのね」
一切れを差し出すと、犬はぺろりと平らげた。感謝するように吠えると、前足を催促するように動かす。
「まだ食べたいの? 食いしん坊ね」
果物をやってみると皮ごと一気飲みだった。幾分恐れをなした所に、別の人物が現れた。
「マディ? ここにいたの」
やってきたメロディは東屋のマティルダに気付き、慌てて挨拶をした。
「失礼しました、王女殿下」
「あなたは……」
眼鏡がないので最初は気付かなかったが、彼女は目の前の少女が何者かを思い出した。最悪な出来事も含めて。
困惑するのはメロディも同様だった。お互いに気を取られるうちに、じれたマディがテーブルに飛び乗ろうとした。
「ダメよ、マディ」
慌てて犬を抱き上げてテーブルから引き離す。珍しそうにマティルダが尋ねた。
「あなたの犬なの?」
「飼い主はライトル伯爵家のご子息です」
その名と誘拐事件の華々しい解決は、マティルダの記憶にもあった。
「そうね、天賦で見つけたのよね」
抑えきれない怒りが刺々しい言葉を紡いだ。
「警視庁でも一目置かれているとお兄様がおっしゃっていたわ。いい気味だと思っているのでしょう? 私が個有者ですらなくなって」
「早いか遅いかですよ。天賦はいずれ消えますから」
あっさりとメロディは答えた。マティルダは顔を上げ、子爵令嬢のダイクロイックアイを見つめた。