37 サツの扉
後日、ライトル伯爵邸を訪問するモーリスとメロディの姿があった。勿論先に訪問の意向を伝えて約束を取り付けた正式なものだ。
「お越しいただき光栄です、殿下」
「堅苦しい挨拶は結構です、伯爵。今回はお詫びを含めたものですから」
訪問の名目は、伯爵家の護衛の協力を仰いだのに消息不明になってしまったカメラマンの件の謝罪だ。形式上なことでも、伯爵家に対する礼儀は必要だった。
「そのことは伺っております。殿下に責任はございませんので、お気になさらず」
伯爵は恐縮したように答え、畏まっているメロディに微笑んだ。
「マディを連れていただいて以来ですか、レディ・メロディ」
「おかげさまで、ジャスティン様とエディス様には親しくさせていただいております」
伯爵家にとって、誘拐された長男の発見は驚天動地の出来事で、天賦を使い証明したメロディはやたらと崇拝されている。まだ子供の彼をスラムに伴っても咎められないのはそのためだ。
ただ、レディと呼ばれるのは彼女とって、面はゆいというか背中がむずむずしてくることだった。貴族間の結束強化を狙ったのか、近年子爵以下の女性にも『レディ』の称号が許されるようになったのだが、どうにも慣れなかった。
優雅な伯爵夫人は、子爵令嬢に涙ぐみながら礼を述べた。
「本当に、同じ町にいながら会えずにいたかもしれないと思うと……」
「ジャスティン様はとても利発でたくましいお子様です。今はまだ生活の変化に戸惑っておられますけど、必ず伯爵家の当主に相応しい方におなりです」
メロディの力説に、伯爵夫妻は笑った。
「エディスは今では、どこにでもジャスティンの後を追いかけていますの」
「ジャスティンの方もよく相手になってくれて安心しています」
和やかな会話の中で、夫妻が取り戻した息子との絆を焦らず深めようとしていることがうかがえた。
モーリスが訪問の目的を切り出した。
「ところで、レディ・エディスが警視庁が追っている者の手がかりを教えてくれたのですが」
「どういうことでしょうか」
当然ながら怪訝そうになる伯爵に、大公の令息は事情を説明した。
「大山羊の彫刻の杖……」
彼は従僕を呼び、書斎から写真立てを持ってこさせた。
「エディスが言っていたのはこのことでしょうか」
それは若き日の伯爵が同年代の男性たちと一緒に写っているものだった。おそらく学園か大学の同期だろう。
モーリスとメロディは古い写真を凝視した。中の一人が得意げに手にしている杖に凝った彫刻が施されている。メロディはそれを拡大させた。
天賦で空中に大きく引き伸ばされた写真が浮かぶ。メモ用紙のスケッチと見比べると、双頭の大山羊の彫刻が確かに一致した。
驚く伯爵に、メロディが尋ねた。
「この方はどなたですか?」
「ハミルトン侯爵オーランドだ。ジャスティンが見つかる前に、彼の次男とエディスを婚約させる話も出ていたが」
――あの、エディスを苛めてたクソ野郎の父親?
叫びそうになるのを懸命に堪え、メロディはモーリスに尋ねた。
「確か、ご子息が学園にいますよね」
「ああ、ギルバート卿だな」
兄弟揃って態度が悪い奴だったとメロディは思い出した。モーリスが杖のことを質問する。
「では、侯爵がこの杖の持ち主なのですね」
二人して侯爵の写真をまじまじと見たが、どうにもあの日の大山羊と重ならない。
「伯爵と同年代ですよね。にしては若くなかったですか?」
「ギルバート卿ではなかったし」
頭を寄せて相談していると、伯爵が思い出したように口を開いた。
「そう言えば、オーランドには年の離れた弟がいたな。庶出で一緒に暮らしたこともないが」
「弟、ですか」
「放蕩児で有名で、勝手にハミルトンの名を使うと彼も頭を痛めていた」
「そうですか」
大きな手がかりだ。侯爵家ではメロディには手が届かないが、大公であればあぶり出せるだろう。
収穫だとモーリスと眼で語り、二人は伯爵家を辞去しようとした。彼らを見送ってくれるエディスに、メロディは尋ねた。
「避暑地に行けなくて退屈ではないですか?」
エディスはかぶりを振った。
「みんなと一緒だから」
苦笑交じりに伯爵が説明してくれた。
「ジャスティンの誘拐があったのが領地の本邸で、妻はそれ以来決して領地に近寄らないのです」
「トラウマなんですね」
息子が掠われたのだ。下手をすれば精神を病んでもおかしくない。納得した彼女は小さな伯爵令嬢にまた公園で会おうと約束し、モーリスと一緒に伯爵邸を出た。
大公家に戻ったモーリスは、正餐時に両親に伯爵邸訪問の顛末を報告した。
「そうか、ハミルトン侯爵の弟の可能性があるのか」
「あまり評判の良くない印象を受けましたが、どのような人物なのでしょうか」
息子に問われ、ジョン大公は地味な容貌に印象の薄い表情を作った。
「確か現侯爵とは腹違いの弟で、母親からはかなり甘やかされたようだね。体面を気にした侯爵家の援助を受けてあちこちを遊び歩いていると聞く」
典型的な貴族家の末端家族だ。それでも侯爵家の人間を証拠も無しに告発は出来ない。
「警視庁はこのことを掴んでいるのでしょうか」
「どうだろうね。彼らも高位貴族に対しては強硬手段は執れないだろうし」
「しかし、見逃したとあっては世論が攻撃するでしょう」
夫と息子の会話を黙って聞いていた大公妃カイエターナが、初めて発言した。
「それはともかく、バカンスシーズンなのにどこにも行けないのは子供たちが可哀想だわ」
「そうですね」
つい同意したモーリスは、次の提案にクリマ酒を吹き出しかけた。
「なら話が早いわ。ライトル伯爵家ご一家をウォグホーン城に招待しましょう。カズンズ子爵令嬢もご一緒に」
「……何で彼女も?」
「伯爵家の兄妹と親しいのなら遊び相手に最適でしょう」
しれっと言ってのけながら、大公妃の黒い瞳は人の悪い笑みを浮かべていた。
「いいね、湖水地方にはアルフレッドたちも滞在しているし」
国王一家の城も同じ湖水地方にある。高位貴族の夏の社交場として知られるロッホ・ケアー一帯はカジノも新設されたと聞く。
父は大山羊が現れると踏んでいるのだろうかとモーリスは大公に目をやったが、地味な笑顔に跳ね返された。
「分かりました。マティルダの様子も気になりますし」
突然の天賦の消失に怯える従妹を放っておけない。この休暇が転機になってくれればと彼は考えた
大公家からの招待状が届いたカズンズ子爵邸は、ちょっとした騒ぎになった。
「ウォグホーン城に? あなた、どうしましょう」
「いいか、メロディ。あそこは高位貴族の社交場だ。くれぐれも礼儀正しく、大公殿下にご迷惑をおかけしないよう気をつけなさい」
「何で迷惑かける前提なんですか、お父様」
全く娘を信用していない両親の口ぶりに若干傷つきつつ、メロディは承諾の返事を出した。
「お荷物はどのようにいたしましょうか」
メイドに問われ、彼女は簡単でいいと答えた。
「私はジャスティン様とエディス様の遊び相手だから。大公殿下とそんなに顔を合わせるとも思えないし」
――というか、顔を合わせても気付かなかったらどうしよう。
ロイヤルファミリーにあるまじき地味な大公のことを考えると、妙な心配をしてしまうメロディだった。
出発までの間、子爵夫人はとにかく失礼にならないようにと、メロディの姉ベサニーの娘時代のドレスを仕立て直したりと一通りの衣装を大急ぎで揃えた。
「ジャスティン様たちのお守りなのに必要あるのかな」
雪ダルマ式に増えていく荷物に不満を慣らすと、母親はきっぱりと言った。
「非常時には備えておくものよ。身につけるもので値踏みされる場所なんですからね」
「はーい」
面倒くさそうに答えると睨まれ、メロディは早々に部屋に引き上げた。
捜査資料を読み返していると、メイドが部屋のドアをノックした。
「お嬢様、警視庁から使いの方がこれを」
薄い封筒を渡され、メロディは首をかしげながら封を開けた。中はドッド警部の読みづらい書き殴りの紙が入っていた。
しかし、その内容は彼女を驚愕させるのに充分だった
「また警視庁に人形の箱?」
もう一枚の紙には件の人形のスケッチがあった。太ったネズミのそれは、首が切断されていた。
手の震えを押さえ、メロディは急いでモーリスにこのことを伝える手紙を書いた。
深夜のキャメロット警視庁。地下一階の証拠保管庫は施錠され照明も消えていた。
当直の警官が巡回用ランプを手に、庁舎警備にあたった。彼は微かな物音に気付き、その方を照らした。そこには地下に続くドアがあるだけだった。
「気のせいか」
警官が遠ざかった後、静かにドアが開き闇に紛れて人影が忍び出た。