32 君はとってもバラバラ
猟奇殺人描写があります。
朝のけだるい空気の中、劇場街はマチネーの準備に取りかかっていた。ステープルフォード劇場も例外ではなかった。
楽屋口には昼興業の出演者たちが集まり始めている。主役級は新人や代役をしていた者の出演が多いが、脇役はそのまま午後から夜にスライドするのが通常だった。
舞台監督が一つの楽屋に顔を出した。
「誰かポーラを見なかったか?」
着替え中のダンサーたちは一様に首を振った。
「ベス、君のルームメイトだろ? 演出の変更があるから打ち合わせがいるんだよ」
「昨日の夜は花束をくれたファンがいて、待ち合わせてたみたい。あれから見てないわ」
「困るんだよ、こういうのは」
神経質に髪を掻き毟る演出家を、ダンサーたちは宥めた。
「そのうち出てくるわよ」
「見かけたら注意しとくから」
彼女たちは着替えとメイクに取りかかった。
その劇場裏の通りを、途方に暮れたように歩く者がいた。
「おーい、ジョック! どこ行ったんだ?」
すっぽ抜けてしまった首輪を手に愛犬を捜す男は、やがて小さな足音に気付いた。路地の奥から猟犬が走ってくる。
「まったく、あんまり変なとこに行って拾い食いなんかするなよ。お前、何咥えて…」
続く言葉は喉の奥に消えた。褐色の猟犬が得意そうに運んできたのは人間の腕だったのだ。
支離滅裂な悲鳴が劇場街を揺らした。
数々の現場を見てきたはずの捜査官たちが言葉もなかった。彼らの前にある死体の凄惨さは筆舌に尽くしがたいものだった。
その身体は四肢を切断され、ダンスのポーズを取らされていた。血の気が失せた皮膚は青白く、骨や筋肉組織がのぞく生々しい切断面がなければ人形と思ってしまいそうだった。
「出血量が少ない。殺害と解体は別の場所だな」
ラルフ・ディクソンが呟いた。彼はある言葉を思い出していた。
「解剖から一気に切断。過激さが一足飛びだ」
「それは、街娼とこの死体の間にミッシングリンクがあるということか?」
「人間とは限らないが、どこかで練習をしたはずだ」
ディクソンの頭に栗色の三つ編みと大きな丸眼鏡の少女の姿が浮かんだ。彼女であれば、この異様な現場をどう見るだろうか。
そんな考えが浮かび、彼は顔をしかめた。そして、これまでどおり死体の前に跪き、そっと触れる。残留思念が伝えるのは恐怖だった。犯人の手がかりを掴もうとしてもあまりに混乱した映像が浮かぶのみで要領を得ない。
難しい顔をする同僚を見て、他の捜査官たちも賢明に手がかりを掴もうとした。彼らの背後で制服警官が野次馬を押し戻そうとしていたが、群がる人の数が増えるばかりだ。
その中から悲鳴が上がった。
「ポーラ!」
知り合いがいたのかとディクソンは声の方を振り向いた。派手な化粧の女性が目を見開いている。彼女は同じような姿の女性たちに囲まれながらその場から引き離された。錯乱状態で泣き叫ぶ声が響く。
「そんな! これで三人目よ! どうして!?」
思わずディクソンは彼女の方に駆け寄った。
「失礼、警視庁のものです。あの被害者の知り合いの方ですか?」
白髪に赤眼の彼に女性たちは驚いた様子だったが、ベスは彼の服を掴んだ。
「ポーラ・ケアーよ。ステープルフォード劇場のダンサーの」
「署で詳しい話を聞かせてもらえますか?」
涙で化粧崩れした顔で、ベスは頷いた。
女性の変死体発見の報告は、警視庁を駆け巡った。メロディとモーリスたちは、文書庫での作業を一休みしてロビーで休憩していた時に耳にした。
「スラムでしょうか」
「いや、捜査官が出てった方向が違う」
古株らしく、ドッド警部が冷静な意見を出した。やがて現場整理に当たっていた制服組が戻ってきた。いずれも蒼白な顔色だ。
「現場は相当酷そうだな」
モーリスが気の毒そうに呟いた。続いてディクソン捜査官の目立つ白髪が見えた。彼は憔悴した様子の女性を抱えるようにしていた。メロディは彼女を凝視した。
――どこかで見たような……。
ほっそりしながらメリハリのある身体のラインを眺めるうち、女性と目が合った。彼女ははっとした顔になった。
「あなた、お葬式の…」
「羚羊さん? まさか、殺されたのって…」
女性の充血した目から涙が溢れた。
「ポーラが殺されたの、あんな、酷い晒し者にされて……、どうしてなの…」
少女に縋って泣き出したダンサーを、文書庫組はロビーの隅のソファに座らせた。トービルがティーポットとカップを持ってくると、メロディは温かな飲み物で落ち着かせた。
「大丈夫ですか? 大変でしたね」
メロディとモーリスに挟まれるようにして女性――ベス・アダムズは座り、その正面の椅子にはドッド警部とディクソン捜査官が並んだ。トービルは彼らの後ろに立っている。
「お友達は残念だったね、お嬢さん。出来るだけでいいから、昨日のことを思い出してくれるかね」
警部に問われてベスは頷き、昨夜のことをぽつぽつと語り始めた。
「あたし達はいつも舞台がはねると劇場近くのパブで飲んでから帰るの。でも、昨日はポーラの楽屋にファンからの花束が届いてた。綺麗な赤いバラ。あの子の好きな花だからとても喜んで、カードに会いたいって書いてあったらしくて、終演後にすぐに出て行って、それっきり……」
声が震え、再度彼女は泣きだした。
その背中を撫でながら、こっそりとメロディはディクソンに訊いた。
「遺体の損壊は?」
「四肢を関節で切断し、ダンスのポーズを取らせていた」
モーリスが息を呑み、メロディは必死で異世界の記憶を探った。
「……ブラック・ダリア…」
小さく呟き、彼女は顔を上げた。
「やっぱり有名な未解決事件です。拉致された女性が殺された後に踊るようなポーズを取らされてて。ただ、その被害者が切断されていたのは腰の部分でした。血液が全て抜かれていたせいでマネキン……人形に見えたとか」
ディクソンの指がぴくりと動いた。
「ミス・ケアーも壊れた人形のようだった。発見現場の血痕はごく微量でゴミは片付けられていたな。彼女のための舞台のつもりか」
「切り裂きジャックの模倣は忠実だったのに、ブラック・ダリアは本物より過剰な損壊……」
どうして五十年以上の時差がある事件を選んだのか、メロディには分からなかった。ドッド警部が低い声で不吉な予測をした。
「猫殺しの時に、途中から冷静でいられなくなった痕跡があると言っていたな。もし、そのお手本通りにするつもりが破壊衝動を抑えられなくなったのなら、この街には厄介な獣が徘徊していることになるぞ」
メロディの背中に悪寒が走った。モーリスも同様の表情だ。泣き止んだベスが彼らに質問した。
「最初にキング、次にピンクの猫、今度はポーラ。どうしてネイチャー&ワイルドの会員ばかりが狙われるの?」
そして、彼女は何かを思い出したように早口になった。
「あの服、ポーラが着せられてたのはネイチャー&ワイルドのカードをもらった時の舞台衣装だわ。半神半獣をからかう妖精の」
恐怖に震え出す彼女にメロディは尋ねた。
「他の羚羊さんたちはご無事でしょうか?」
「同じ劇場の子には会ったわ。ベティだけが別の所に出てるから…」
「警官に確認してもらいましょう」
老警部を見ると、彼は頷いた。彼らにモーリスがひとつの疑問を投げかけた。
「街娼を殺す前にあれほど犯罪予告のようなものを残していたのに、今回は何もなかったのは何故だろう」
そこに、ひどく申し訳なさそうな声がした。
「あの、すみません、警部」
ブルネットの受付嬢が青ざめた顔で立っていた。
「どうした」
「それが、以前変な小包が届いてたんです」
警部と捜査官が立ち上がった。
「どうして知らせなかったんだ」
「悪戯だと思ったんです。宛先が変だったし」
「どこ宛てだ?」
「鑑識課です。そんな部署存在しませんし」
「どこにある?」
受付嬢はカウンターの奥から箱を取り出した。手袋をはめたドッド警部は用心深く箱を開いた。現場から引き上げてきた捜査官たちも何事かと取り巻いている。メロディは前でよく見ようとしたが、モーリスがそっと引き留めた。
「下がっていた方がいい」
彼に庇われるように背後に押しやられ、仕方なく彼女は人の隙間から警部の様子を眺めた。
箱から出てきたのは人形だった。妖精のような愛らしい衣装を着たそれは、腰の所で切断されていた。捜査官たちが凍り付いた。警部が人形を取り出すと、何かがこぼれ落ちた。
近くにいた捜査官がそれを拾い上げた。
「カードだ。何も書いてないな」
彼が小さな紙を裏返そうとした時、メロディは叫んだ。
「ダメ!!」
同時に眼鏡を取り去り全力で天賦を発動させる。
――光量増幅!
一瞬で周囲が強烈に発光した。その場の人々が驚き目を庇う中、メロディはドッド警部に訴えた。
「師匠、カードを伏せて!」
老警部が捜査官から紙をひったくり箱に投げ込むと、光は消失した。
「大丈夫だ。箱は閉じたよ」
肩で息をしていたメロディはその場に座り込んだ。驚くモーリスが手を差し伸べてくれた。ふらつく足で立ち上がり、彼女は捜査官たちに尋ねた。
「固有者の方、異常はありませんか? 少しでも不快感のある人はすぐにドクターに診てもらってください」
ディクソンが同僚たちの反応を鋭く見て取り、代表して答えた。
「誰もカードを見てないようだ」
「…よかった……」
いきなり最大出力で天賦を使った反動が押し寄せてきた。ぐらりとよろけるメロディを、モーリスが血相を変えて支えた。