31 あの子が振っていた黒鉛は化学式C
モーリスが警視庁に姿を見せたのは、その翌日だった。文書庫では、スラムから回収したガラクタが床を占領していた。
「おはようございます!」
男子用の競技服姿でメロディが挨拶した。
「…ああ、おはよう、カズンズ嬢。これは?」
「プシキャット・ドリーの殺害と解剖現場をカムフラージュしていた物です。指紋が採れればと挑戦してるんですけど、手強いですね」
「ライトル伯のご子息の時のように出来ないのか?」
「この量だとテント級の装置が必要ですよ」
蒸着法は非現実的だと分かり、モーリスは頷いた。そして、上着を脱ぐと子爵令嬢の隣に立った。
「手伝おう。まだ採取してない物は?」
「こっちの山です」
並んで粉末を掛けながら、彼はメロディに謝罪した。
「先日はすまなかった。マティルダの様子が切羽詰まってたので、君を送ることもしなかった」
「いいんですよ、王女殿下はかなり取り乱してましたし。すぐに移動するのが正解でしたよ」
「母上に散々説教された。女性に対する礼儀がなってないと。最後には母上の方が疲れて部屋にこもってしまったよ」
「カスタネットの叩きすぎですか?」
「どんな説教だ」
情熱的でエキゾチックな大公妃ならフラメンコ説教が似合いそうだと勝手に考えていたメロディは、笑って誤魔化した。
珍妙な会話の最中に、意外な人物が文書庫にやってきた。重大犯罪課のエース、ディクソン捜査官だった。
「お呼びですか、警部」
彼は入室してモーリスたちに気付き、慌てて礼をした。
「これは殿下、……そして君か」
胡乱な視線にめげずにメロディは挨拶した。
「おはようございます。せっかくですから捜査官も一振りしていきませんか?」
粉末とブラシを押しつけられたラルフ・ディクソンは、当然ながら反論した。
「何故、私がこんな事を…」
「戦うなら、武器は多い方がいいですよ。ほら、こうして振りかけてブラシで落とすんです。あ、筋がいいですね」
いつの間にか手伝いに駆り出された捜査官は、ドッド警部に助けを求めた。老警部は笑いながらメロディに待ったを掛けた。
「お嬢さん、そいつには話があるんだよ」
「あ、すみません」
ようやく解放されたディクソンは常の無表情を取り戻し、警部の前に立った。
「ご用件は何でしょうか」
「殿下が気になる情報をくれたんだよ。正確には殿下の父君だが」
「大公殿下が…」
さすがに表情を引き締める彼に、モーリスが個有者にとって重大な事項を告げた。
「研究員から存在の可能性を示唆されていた『キャンセラー』が実在する可能性が出てきた」
赤い瞳を瞠り、捜査官は事の重大さを察した。
「では、天賦を消される事件が起きたと?」
「現在検証中だが、恐らくそうだろう。『キャンセラー』は個有者の逓減を引き起こす因子を暴走させることで天賦を打ち消すという説が有力だ。事件は手渡されたカードの模様を目にしたことがトリガーになっている」
「カード……」
「実物があればいいのだが、廃棄してしまったようだ」
申し訳なさそうに言うモーリスに、捜査官は首を振った。
「貴重な情報ありがとうございます」
「それに、研究者は『キャンセラー』の能力は『ブースター』と対になるものだと言っていた。むしろ、『ブースター』の副産物のように近親者に発現するとも。心当たりがあれば注意してほしい」
「了解」
大公の子息に敬礼し、ディクソンは重大犯罪課に戻ろうとした。そこに、メロディが声をかけた。
「あ、これ、CSI部の指紋採取ハンドブックと簡易キットです。役立ててください」
押しつけられた小冊子と箱を抱え、白髪赤眼の捜査官は訳が分からない様子で書庫を後にした。
彼を見送った警部が愉快そうに笑った。
「大したもんだな、お嬢さん。あの気難しいのを手なづけるとはね」
「だって、いつ天賦の逓減がやってくるか分からない中で仕事するなんて結構なストレスですよ。別の手段を持ってて損はないでしょう」
大真面目に語る子爵令嬢に、警部は何度も頷いた。そして続々と増える指紋資料を前に腕組みした。
「さて、こいつをどう活用したもんか…」
メロディは異世界の記憶を辿った。
「逮捕被疑者の記録は各年ごとの簿冊だけですか? これを個人ごとのデータベースに出来ればいいんですけど」
「あんたの別世界の記憶じゃどうやってたんだ?」
「知ってるのはドラマの中だけですけど、逮捕された被疑者の個人ファイルを作るんです。それを名前順にいつでも取り出せるように専用の保管庫に入れて。他に、犯罪の種類ごとにカードを作って保管する方法もあります」
「なるほど、それなら殺しや泥棒が起きればすぐに前科がある奴を絞れるんだな」
「犯罪手口で分類すれば、より正確に割り出せます。犯歴者ファイルに写真や身長・入れ墨・傷跡などの身体特徴、住所や交友関係などの情報も欲しいですね。もちろん指紋や血液型も」
「制度にするには気の遠くなるような面倒ごとがあるぞ」
「検挙率アップというお題目があればどうにかなるんじゃないですか」
警部は喉の奥で笑った。
「このお嬢さんは人を乗せるのが上手いですな、殿下」
モーリスも頷いた。
「元気さには驚かされてばかりだ」
「それが取り柄ですから」
明るく答え、メロディは採取した指紋を現場の証拠品と付き合わせた。
「このグループが最初の襲撃現場で、こっちが解剖現場……」
不鮮明な部分指紋が大半だが、その中で特徴がある物を彼女は探した。
「うーん、蹄状紋がほとんどかあ…、あ、弓状紋があった。これは解剖現場を隠してた板……」
ドッド警部も分類を手伝い、一つを示した。
「こいつは、切り傷で指紋が歪んでる」
「そうですね、恒久的な傷跡なら大きな特徴ですね」
モーリスものぞき込み、隆線が不自然に引きつれた指紋を見て尋ねた。
「これはどう分類するんだ?」
「S(SCAR)ですね。一時的な傷や皮膚病で不鮮明な物はD(DAMAGE)です。この傷がなければ右流れの蹄状紋ですね。右手の示指・中指・環指の可能性があります」
「何でも分かるのだな」
感心したようにモーリスが言うと、メロディは首を振った。
「ところが、指紋自体は個人識別以外で分からないことの方が多いんですよ。性別にも関係性がないし」
「そうなのか?」
「女性の方が手が小さいから必然的に隆線が細く密になる傾向があるってことくらいですね。男性でも繊細な指紋の人なんてザラですし」
「儂が見てきた限りは、バラバラな種類を持ってる奴は珍しかったな。大抵一つの種類が多い」
「そうですね。弓状紋がある人は半分以上が弓状紋だったりしますし。胎児の段階で既に出来てるのも凄いと思いますよ」
思わず自分の指を見つめてしまったモーリスに、メロディはくすくすと笑った。そして、少し心配そうに尋ねた。
「王女殿下は大丈夫でしたか?」
「父上が宥めてくださったよ」
「原因はさっき捜査官に説明していた『キャンセラー』が関わってるんですか?」
「そうかもしれない。リーリオニアに留学中に、オペラの出演者に妙なカードを渡されたと言っていた。動物の仮面を着けた者だ」
メロディは奇妙な表情をした。
「あの国まで大人の動物園が流行してるんでしょうか」
「まだ関連性があると決まっていないが、薄気味悪い類似点だな」
「王宮にいるなら王女殿下に命の危険は無いと思いますが……、師匠、あれからスラムで同じような事件は起きてませんか?」
問われた警部は難しい顔をした。
「客とのトラブルはしょっちゅうだが、あれほどの殺しは聞かないし隠せないだろう。界隈の街娼が震え上がって場所を変えたりしてるらしいが」
メロディも同意見だった。
「営業妨害ですよねえ。あちらの人たちも生活掛かってるのに」
――目の前の現金収入に引かれて危ない奴に着いていくような人がいないといいけど。
首都キャメロット、トムリンズ通り。劇場が建ち並ぶエリアは夜の部が終わる時間帯に入っていた。
楽屋から出てくる俳優やダンサー、彼らを待つファンなどで劇場裏は賑やかだ。その中を、バラの花束を手にうきうきと帰って行く女性がいた。
「ポーラ、いつもの店に行かない?」
「先約があるの」
仲間の声に振り向きもせず、彼女は通りを歩いた。手提げ袋からカードを取り出し、嬉しそうに花の香りを嗅ぐ。やがて彼女の耳に足音が聞こえた。
劇場の警備員がぶらぶらと裏通りを歩いた。舞台が跳ねた後の群衆整理を終え、一服できる場所を探しに来たのだ。そこに悲鳴のような声がした。急いで通りの奥に行ったが、人影はなかった。
「猫でも騒いでたのか?」
ぶつくさ言いながら戻る彼は、路面にうち捨てられたバラに気付かなかった。