30 ふりむかないと色々不都合
予想外の訪問客に、プランタジネット大公家は急いで客間を用意し王宮に使いを出した。
「さあさあ、泣いてては分からないわよ、可愛い子」
カイエターナ大公妃がマティルダの背中を優しく撫でた。メイドが運んできたお茶を淹れ、モーリスは従妹の前に置いた。
「これを飲んで、落ち着いたら話してくれないか」
王女はカップを手にした。それが震えているのに気付き、大公は気掛かりそうな顔をした。
「……の」
呟かれた言葉は酷く聞き取りにくかった。しばらく間を置き、マティルダは叫ぶように言った。
「聞こえないの! どうして?」
断片的な言葉だったが大公親子は一瞬で理解した。モーリスが静かに問いかけた。
「それは、心聴ができなくなったということか?」
再び涙をこぼしながらマティルダは頷いた。
「…リーリオニアに留学してた時、段々他の人の考えが分からなくなってきたの。調子が悪いだけだと思ってたけど、酷くなるばかりで。それに、私の天賦のことがいつの間にか広まって、お友達が誰も近寄らなくなって……」
「それで留学を切り上げて戻ってきたのか」
「私が盗み聞きでもしてるみたいに、みんないなくなるの。酷いわ、勝手に聞こえてきただけなのに」
モーリスには痛いほど共感できた。王族特有の精神系の天賦は忌み嫌われかねないものだ。
どう慰めていいか悩む息子の代わりに、大公が姪に質問した。
「思い出してくれないかな、留学中に君に接触しようとした者はいたかい? 学校関係以外で、君の不調の直前くらいに」
泣くのを止め、マティルダは考え込んだ。
「ベルフォンテーヌ宮殿で葡萄月の園遊会に招かれた時、色んな人を紹介されたわ。ほとんど貴族や王族だったけど……、変わった人ならオペラ関係の人がいた。動物の仮面を着けて竜の泉の前で歌を披露して」
「動物?」
モーリスに訊かれて彼女は頷いた。
「オペラが竜と動物の王国の演目だったの。歌手はみんな仮面を着けて動物になってたわ」
「気になったことはあるかな?」
大公が静かに問い、王女は誘われるように続けた。
「オペラが終わって、皇王陛下の桟敷席に歌手が挨拶にやってきて、プリマドンナが新婚の指揮者と腕を組んでて、でもお互い飽き飽きしてるのが聞こえて、なのに幸せですなんて言うから、嘘ばっかりって…」
「誰かに聞かれた?」
「分からない。そうしたら帰る時に仮面の人にカードを渡されたの」
「どんな?」
「名前も何も書いてなくて、裏に変な模様があって、見てたら何だか耳鳴りがしてきて、エヴァンス夫人と大使館に戻ったの」
「聞こえなくなっていったのはそれから?」
彼女は頷いた。モーリスが気になっていたことを尋ねた。
「そのカードは持ってる?」
マティルダはかぶりを振った。
「気持ち悪いから捨ててってエヴァンス夫人に渡して、それっきり……、ねえ、モーリス兄様、私、このまま本当のことが分からなくなるの? 他の人が何を思ってるか分からないなんて、怖くて話も出来ない」
「ほとんどの人にはそれが普通なんだよ、マティルダ」
「私は王族よ! なのに天賦が消えてしまうなんて、お祖母様が何ておっしゃるか…」
再び震えだした少女に、大公が優しく言った。
「母上のことは気にしなくていいよ。君に酷いことなんて決して言わせない」
「だって、天賦がないなんて平民と同じじゃない!」
叫ぶ彼女の両肩をモーリスが掴み、自分に目を向けさせた。そして、ゆっくりと『言葉』を染みこませる。
「落ち着いて。大丈夫。心配ない。帰って。休むんだ」
次第にマティルダは静かになった。
「……はい、モーリス兄様」
大公妃が彼女を護衛の元に連れて行き、王女はおとなしく王宮に戻っていった。
大きく息を吐き出して、モーリスは父に詫びた。
「勝手な真似をしました」
「仕方ないさ」
息子の肩を軽く叩き、大公は難しい顔をした。
「それにしても、天賦の阻害なんて聞いたことがないなあ」
「そんな個有者がいるのでしょうか」
「可能性だけなら研究者が言ってたな。彼らはキャンセラーと呼んでたよ。ブースターと対をなす天賦だとね」
「消去と増幅ですか」
他者の天賦に介入する能力だとモーリスは理解した。
客間に戻ってきた大公妃が、気の毒そうな声を出した。
「可哀想に、不安でしょうね」
そして、改めて喪服姿の息子に尋ねた。
「お葬式はどうだったの?」
「あんなに弔問者が気を使う葬儀は初めて見ました」
「そうでしょうね。お友達と情報収集はできたの?」
「変なカードを渡されて、ドッド警部を訪ねようとしたところにマティルダに捕まって…」
ぴくりと大公妃が柳眉を跳ね上げた。
「待ちなさい。お友達はどうしたの?」
「カズンズ嬢は警視庁に行くと…」
「何てこと! 送りもしなかったのね。ああ、女の子への礼儀を日々教えてきたのに」
嘆かわしげに天井を仰ぐ彼女を、大公が落ち着かせた。
「はは、モーリスもまだまだだなあ」
「父親は完璧な紳士なのに、どこで育て方を間違ってしまったのかしら」
愛しげに夫の顔を撫でる大公妃は息子に厳命した。
「次に会った時は自分の非礼を詫びるのよ。言い訳などしたらそれまでと思いなさい」
「肝に銘じます」
深々と頭を下げるモーリスだった。
翌日、改めてドッド警部を訪ねたメロディは葬儀で得た情報を報告した。
「そうか、ハーレムの姐さんたちが泣いてくれたのか」
「ご家族は厳戒態勢で、弔問側は悲しそうな顔をするのに必死でしたね」
「まあ、死んだ状況が状況だからな」
「他のネイチャー&ワイルドの会員は見つけられませんでした。発見手段は考えましたけど、さすがに葬式では不謹慎なので」
――猫とネズミの鳴き真似なら、簡単に一発であぶり出せるんだけどな。
そして彼女はあることを思いついた。
「その羚羊ハーレムさんが、亡くなったミスター・サイアーズを大山羊男がライバル視していたと言ってました」
「動物園で闘争本能に目覚めたのかね」
「ハーレムを羨ましがってもミスター・サイアーズほどの資金力が無いのかも知れませんね。多頭飼いは金も手間も掛かりますし」
ドッド警部の爆笑を聞きながら、メロディはカードに黒鉛の粉末を振りかけた。これに触れた時のモーリスが手袋を着用していただろうかと思い出す。
だが、記憶はどういうわけかマティルダ王女を優しく宥める彼の姿ばかりを延々と再生した。気がつけば、パウダーを落とすブラシを持つ手が止まっていた。
メロディは戸惑った。指紋採取に集中できないなど未だかつて無かったことだ。首を振り、気を引き締めて彼女はカードからの採取に取りかかった。黒い粉末を落とすと、部分指紋が見えてきた。
「ありました」
警部に見せると、彼が薄い板状のものを差し出した。
「試作品だよ。ゼラチンを改良して作らせた」
メロディは目を輝かせた。
「それでは、試してみます」
念のため写真を撮った後で、彼女は透明な膜をはがし、粘着側をカードに貼り付けた。そっとカードから外すと黒鉛の指紋は綺麗に付着していた。歓声を上げ、メロディはそれを紙に貼った。
「成功です! これでもっと透明度が高くなると見やすいんですけど」
「試作品だからな。まあ、材料は安価な物だし、全国の警察署で使用されるようになれば単価も下がるだろ」
「重いのが難点ですけどね」
指用サイズでも、ゼラチンシートは結構な重量だ。足跡用の大型判になると推して知るべしだった。
彼女は警部に尋ねた。
「ネイチャー&ワイルドの会員は留置場に入れた時に把握できなかったのですか?」
「手入れで違法薬物でも出てりゃ弁護士が来るまで引き留めてたんだが、何しろサイアーズが倒れて全員狂騒状態だったからな。こんなとこにいられるかって。で、一応住所氏名だけ聞いて帰したんだが」
「不実申告だらけですよね」
「国会議事堂の所在地に、王宮の住所書いた奴までいたぞ」
「本当だったら大変ですね」
笑った後で、メロディは思い出した。
――確か、切り裂きジャックの容疑者に王族もいた気が…。
余計な考えに首を振っていると、トービルが入ってきた。
「警部、写真の現像が出来ました」
彼が取り出したのは喪服の人々の写真だった。ビル・サイアーズの葬儀の参列者だ。
「さて、役に立つといいんだが」
三人は手分けして写真を検分した。こわばった顔の家族、曖昧な表情でお悔やみを言う知人、華やかな羚羊ガールズも写っていた。その中の一つにメロディは目を留めた。
「この人……」
ステッキを手にした紳士の写真だった。後ろ姿のため顔は見えない。彼女が注目したのはステッキの握り部分だった。天賦を発動させる。
――視覚調整、拡大。
不意に写真が宙に大きく浮かび上がり、ドッド警部とトービルは驚愕した。メロディはわずかに見える握りの彫刻を指さした。
「何に見えますか?」
それは太い二本の角が頭部から伸びている動物だった。警部が掠れた声を出した。
「……大山羊だ」
埃臭い書庫で、メロディは男性の姿を目に焼き付けた。