26 贈られたくない言葉
スラムのごみごみした通りを朝日が照らす頃、仕事を終えた街娼があくびをしながら家路についた。
古びたアパートの階段を上がり、部屋の鍵が掛かってないのに彼女は首をかしげた。
「ドリー、帰ってるの? 夕べは見かけなかったからどっか行ったかと思った」
ルームメイトに声をかけ、部屋に入ると寝室のベッドに横になる仲間がいた。
「ねえ、鍵はちゃんとかけてよ」
側に寄って肩を揺すると、がくりと頭が動いた。切り裂かれた喉が露わになり、街娼は金切り声を上げた。やむことの無い悲鳴が周辺住民を呼び寄せた。
毎回プランタジネット大公家の馬車が警視庁に横付けするのも妙な憶測を呼びそうだ。という理由で、メロディとモーリスの二人は少し離れた公園で馬車を降り、徒歩で警視庁に向かった。目立たなくしているが護衛も目を光らせている。
出張CSI部第一回ということで張り切っていたメロディは、警視庁周辺が妙に騒がしいのに気付いた。
「何かあったのでしょうか」
「新聞記者まで集まっているようなら正面からは無理か」
戸惑う二人に、意外な者が声をかけた。
「ああ、殿下、お嬢さん。こっちです」
地下の証拠保管庫の番をしていたマックス・トービルだった。私服の彼は二人をそっと裏口に導いた。
「何かあったの?」
メロディに訪ねられ、トービルは難しい顔をした。
「スラムで街娼が殺されたんです」
思わずメロディは彼の腕を掴んだ。
「刺殺?」
「…そうだけど、何で知ってんですか」
メロディはモーリスを振り向き、宣言した。
「私、現場に行きます」
呆気にとられる大公の息子の隣で、トービルが焦りまくった。
「無茶ですよ、お嬢さん。スラムの殺人現場なんて」
「じゃ、ここの人たちが初動鑑識をやってくれるの? 現場保存もしてくれない警察官が指紋や足跡を採取してくれるの? きっとこれが最初でも最後でもないのに! AFISもCODISもプロファイリングのノウハウもないし、それに…」
焦燥感がメロディを暴走させた。
――王女殿下の猫と同じ殺され方なら、切り裂きジャックだ。私と同じ異世界の記憶を持ってる者がいるの? もしかして本人なら……。
これから何人の弱い立場の者が殺され続けるか分からない。指紋資料さえなく、個有者の天賦頼みの国で。
メロディはトービルの腕を掴んだ。
「現場に連れて行って!」
必死の形相に若い警察官は固まった。そこに、飄々とした声が制止した。
「そこまでだ、お嬢さん。儂らはこれから仕事なんだ」
ドッド警部だった。彼は見たこともないほど厳しい顔をしていた。
「でも…」
抗議しようとするメロディは、強い力で警視庁の裏口から引きずり出された。モーリスが無言で彼女の腕を取っていた。
馬車を待たせた場所まで戻った時、彼は静かに言った。
「カズンズ嬢、君は自分の言動が分かっているのか?」
「…え?」
「確かに、異世界の記憶を持つ君から見ればここの警察はお粗末なのかもしれない。それでも彼らは、今あるもので戦うしかないんだ。君に従わなければ事件が解決できないと言わんばかりの振る舞いは傲慢であり、彼らに対する侮辱だ」
さっとメロディは青ざめた。頭の中が混沌状態で言葉も出てこない。彼女の様子を見てモーリスは溜め息をつき、少し和らいだ声で言った。
「家まで送っていくよ」
プランタジネット大公家の馬車は、来たばかりの場所から出発した。
自宅に戻ると子爵夫人が驚いた顔で娘を迎えた。
「どうしたの? 随分早いわね」
「……ただいま」
それだけ言うと、メロディは自室に上がっていった。いつも元気すぎるのを注意しなければならない娘の様子に、母親はやきもきした顔だった。
プランタジネット大公家の両親も息子の異変を察知した。
常にも増して物静かな彼が暗雲を漂わせた顔で帰るなり部屋に引きこもるのを見て、カイエターナ大公妃が夫に囁いた。
「あなた、私たちの坊やが落ち込んでいるわ」
「うーん、何があったのかなあ」
「決まっているわ、恋よ!」
力強く断言する妻に、大公はどちらともとれる笑顔を浮かべた。
その夜、家族での晩餐を終えた大公一家は談話室に移った。いつもなら夫にべったりの大公妃が、珍しく息子を誘った。
「こちらに来て教えて頂戴。今日は何があって陰気な顔をしているの?」
母親に問われ、モーリスは誤魔化そうとしたが、妙なところで鋭い彼女はぐいぐいと自供を迫った。
「原因は女の子でしょう?」
大きく息をつき、モーリスは観念した。
「そうですが、母上が考えているような事情じゃありません」
彼はぼつぼつとCSI部結成の事情やメロディの特殊事情を話した。大公は興味深そうに傾聴した。
「天賦の上にそんな知識があるとはね」
「でも、それは女の子には厳しすぎる言い方だわ。で、それから?」
「それからと言っても…」
戸惑う息子に、母親は大仰に嘆いた。
「何てこと、お詫びの花もお菓子も贈らなかったの? 私の坊やはいつからそんな薄情になってしまったの!」
「いや、だからそんな理由ではなくて」
「お黙り。理由がどうのなんて関係ないわ。あなたは女の子を傷つけたのよ」
彼女の糾弾は顔色を失くしたメロディの姿を甦らせた。良心の呵責に耐えかねたモーリスは俯くばかりだった。さすがに気の毒になった父親が助け船を出した。
「この子はまだ正義感が恋愛を上回ってるんだよ。モーリス、君の言葉は正論だ。私でも彼女を注意するだろう。だからといって追い詰めて良いことにはならないけどね」
「……言い過ぎました」
「余程の事件なんだろうね」
大公は従僕に言って書斎から書類を持ってこさせた。
「ネイチャー&ワイルドの会員の不審死からガズデン通りの街娼刺殺事件まで、概要は知ってるよ」
彼が警察と検死局からの報告書を手に入れていることに、モーリスは目を瞠った。
「どうして、父上が」
「息子のしてることを知りたいのは当然だろう。ちょっと知り合いもいるし」
ちょっとした知り合いがやたらと多い大公は、地味な顔で印象に薄い笑顔を作った。それを大公妃がうっとりと見つめている。
モーリスは書類にざっと目を通した。変態動物園でハーレムを作っていた男は貿易商の放蕩息子で死因は毒物摂取とある。
「あの集会で食べ物に目を向けてた者はほとんどいませんでした」
せいぜい、口移しで食べさせようとする理解不能なカップルがいた程度だ。
「酒類には異常がなかったようだし、提供されていたカナッペなども同様だ。どうやって摂取したか検死局でも首をかしげているよ。ただ、口の中に動物の毛が入っていたそうだ」
「動物の…」
「食べたり詰め込まれたにしては量が少ないがね」
はっとモーリスは顔を上げた。彼の脳内に、山羊男と踊るヒョウ柄美女の背後から彼女の衣装を舐める筋肉男が再生された。
「女性の毛皮の衣装を舐めていました。その時に抜けた毛が口に残っていたのでは」
「服なんか舐められても嬉しくないわ」
理解できないと言いたげなカイエターナの手を軽く叩き、大公は息子に言った。
「なら、その彼女の衣装に仕掛けがあったのかも知れないね」
「でも、留置場には彼女はいなかったんです。まるで警察が来るを知ってたみたいに消えてしまったと」
モーリスは街娼殺害事件の報告書を読んだ。凄惨な殺害状況に眉をひそめ、殺され方に既視感を覚える。
「喉を裂いて腹部を切開、腎臓と子宮を持ち去る……マティルダの猫や人形と同じだ」
メロディがあれほど動揺していたのはこれだったのだと彼は理解した。そして父に打ち明けた。
「カズンズ嬢は連続殺人と言っていました。百年以上を経ても未解決の伝説的な事件だと」
大公は考え込んだ。
「それが何故、この国で起きているのか。可能性は他にもその記憶を持つ者が存在するということだね」
書類を見つめていたモーリスは父大公に告げた。
「明日、もう一度警視庁に行きます」
真剣な決意を見て取り、大公夫妻は頷いた。
子爵家の自室でメロディは眠っていた。ベッドの周囲には書き散らした紙が床を埋めていた。
それは異世界の伝説的未解決事件、切り裂きジャックに関して覚えていること全てを書き取ったものだった。