17 つめツメ爪ネイル
カズンズ子爵家はできる限り家族揃って食事をする習慣がある。
仕事を家を空けることが多い当主が妻や子供たちと食卓を囲み家族の団らんを作るためだ。
この朝も、子爵夫妻と次女は食堂に集合していた。
「そういえば今日だったな。王女殿下が学園に復帰されるのは」
子爵が何かの話題のついでに口にした。メロディは気合いの足りない笑顔を浮かべた。
「前振りが凄くて、今から気疲れしてるの」
「そうだろうな」
父は何一つ否定せず、気の毒そうな顔をするだけだった。子爵夫人はどこか不安そうに下の娘を見ている。
「くれぐれも、失礼の無いようにね」
「そんな機会ないって。学年も違うし」
「あなたに関しては、最悪の事態を想定しておいた方がいいのよ」
結構な言い草だと思いつつ、本気で心配そうな母を見ると抗議も出来ない。
「では、行って参ります」
鞄を手に、ダイクロイックアイを隠す眼鏡を装着して、メロディは子爵邸を出た。
彼女の通学は基本的に徒歩だ。馬車は馬の飼育と維持費が高騰しているため馬車屋とレンタル契約をしている。平民の富裕層が住む近所の区画からノーマとジャスパーが合流した。
「おはよう、メロディ」
「おはよう、ノーマ、ジャスパー」
雑談をしながらの登校はいつものことだが、今日は何やら校門付近が物々しい。
ずらりと並ぶ警備兵を見て、ノーマたちは及び腰だった。
「これって、王女殿下の警護かな」
「そうだな」
「王太子殿下で慣れたつもりだったけど、こうして見ると凄いね」
他の生徒同様にきょろきょろしながら門を通ると、プランタジネット大公家の馬車から降りてきたモーリスに出会った。
「おはようございます、モーリス様」
「おはよう。すまないな、こんな大げさな警備体制で」
「やっぱり王女殿下専用警備なんですね」
「ジュリアスとの釣り合いを考えろと父上も警告したのだが」
「王太后陛下ですか」
メロディの推測をモーリスの苦々しげな表情が肯定した。
「いい天気だなあ」
いつの間にか側に来ていた王太子ジュリアスは、既に現実逃避していた。その隣で空気を読まないメアリ・アンが目をうるうるさせて彼を慰めた。
「可哀想、ジュリアス様。私が王女殿下とお友達になりますから大丈夫ですよ」
「何が大丈夫ですか、最悪だわ」
公爵令嬢ジョセフィンが彼女をたしなめたが、どことなく力強さに欠ける声だった。
「マールバラ様、体調でもお悪いのですか」
メロディに尋ねられて彼女は首を振った。
「苦手なものが来るからですわ。おかげで王女殿下の居場所は一ハロン(約二〇〇m)先からでも分かりますもの」
どういうことだろうかと考えていると、やたらと豪華な馬車がやってきた。警備兵が一斉に銃を捧げるのを見て、ご本尊登場だと子爵令嬢は気付いた。
馬車が校門前に停まり、ジュリアスとモーリスがその前に歩み寄った。扉が開かれ、ゆっくりと降りてくる者に王太子が手を貸した。周囲から溜め息が漏れる。
ローディン王国王女マティルダが黄金色の髪を輝かせながら降り立った。作り物のような美貌の兄妹に女生徒たちが興奮した囁きを交わす。充分整っているのに、二人と比べると平凡に見えるモーリスが王女に挨拶をした。
「おはよう、マティルダ。また同じ学園で学べて嬉しいよ」
「おはようございます、モーリス兄様。お会いできて嬉しいわ」
「で、それは何なのかな?」
モーリスの視線は彼女の背後に控えるメイドに――正確にはメイドが恭しく捧げ持つものに向けられた。
そこには深紅のビロードのクッションに乗る純白の猫がいた。メロディの隣でジョセフィンがくしゃみをした。
「もしかしてマールバラ様、猫アレルギーですか」
「何のこと? ああ、長毛種の動物の側に来ると鼻がおかしくなって涙が出ますの」
「厄介ですね」
馬車の側では、何で学校にこんなものを連れてきたんだとモーリスが説教していた。マティルダは金色の頭をそびやかした。
「こちらのボーディシアは、リーリオニアの皇女殿下から贈られた猫ですのよ。おろそかになど出来ませんわ」
「では、宮殿で専用の世話係に…」
「この子は私が部屋を出ると寂しがりますの。置いていくなんて残酷なこと、とんでもありませんわ」
モーリスは溜め息をついて妥協案を出した。
「なら、教室には入れるな。学園長に部屋を用意してもらうから、そこでメイドに世話をさせるんだ」
「あら、ジョセフィン様がいらっしゃるのに?」
一瞬口元をひくつかせた公爵令嬢は、王女に向けて丁寧に詫びた。
「申し訳ございません、殿下。私はその類の動物に近寄れませんので」
「そうでしたわね」
明らかに承知の上で、マティルダは気の毒そうな顔をした。
「こんなに愛らしいものに触れることも出来ないなんてお気の毒に。王妃になられても献上される動物を避けるのかしら」
「善処します」
表情と口調を固定した公爵令嬢は、メロディには無我の境地に思えた。さすがにジュリアス王太子が妹を咎めた。
「そんな意地悪を言うもんじゃないよ」
「そうですよ、動物に好かれないジョセフィン様がお気の毒です」
当然のように口を挟むメアリ・アンに周囲が凍り付いた。マティルダは海のような瞳を平民の少女に向けた。
「どなた?」
「ミス・メアリ・アン・フィリップスだよ。フィリップス銀行の」
ジュリアスの説明に、彼女は冷たく言った。
「高利貸しの娘が、どうしてこの学園にいるの?」
さすがのメアリ・アンも目を丸くして押し黙った。モーリスが彼女を本気で叱責した。
「マティルダ、フィリップス家はこの国の財界の重鎮だぞ」
「人の金で商売をすることほど卑しい職業はない、とお祖母様はおっしゃってましたわ」
「自分の失言を王太后陛下に責任転嫁するな」
「モーリス兄様は、この者が私たちと同じだとでも?」
「当然だ」
青い瞳が冷たく光り、王女はメイドを呼んだ。
「ボーディシアをここに」
銀色に輝く長毛の猫はけだるそうにクッションに寝そべっていた。それを撫でてマティルダは言った。
「この子は王侯貴族にしか懐きませんの。高利貸しの娘が私たちと同じなら、同じように懐きますわよね」
その底意地悪さに、メロディは戦慄する思いがした。
――いや、これ絶対人見知りする猫でしょ。
おそるおそるメアリ・アンが近寄ると、猫は突然鼻に皺を寄せて威嚇した。
「きゃっ!」
思わず叫ぶ彼女に苛立った猫が、爪を出した前足を繰り出した。
――危ない!
メロディは視界調整の天賦を発動し、降り注ぐ日光の光量を倍増させた。彼らの周囲が突然スパークし、純白の猫は驚きの声を上げてクッションから飛び降りた。
「ボーディシア!」
マティルダがうろたえた声を出した。
「何をしてるの! 連れ戻しなさい!」
メイドや護衛が必死で猫を追いかけた。メロディはそっとメアリ・アンを王女から遠ざけた。
「大丈夫ですか、フィリップスさん」
さすがにいつもの減らず口を叩く余裕はなさそうなのに、子爵令嬢は背中を軽く叩いた。
「酷い目に遭いましたね」
本気で泣きそうな目で、メアリ・アンはメロディの隣のジョセフィンに抱きついた。公爵令嬢は慌てた。
「ちょっと、あなた、猫に近寄った手で触らないでちょうだい。それに、私は動物に嫌われてはおりませんのよ!」
くしゃみを連発しながら抗議するのにメロディとモーリスは笑った。ジュリアスは、苛々しながら猫を探そうとする妹に言った。
「ほら、授業が始まるよ。捜索は彼らに任せておきなよ」
「でも、お兄様」
何のかんのと言いくるめながら、王太子と王女は校舎に入っていった。
「さすが、殿下は女性の扱いがお上手ですね」
ほっとしながらメロディが言うと、ようやくくしゃみが収まったジョセフィンがぼやいた。
「あの方、動物相手でもオスには目もくれませんのよ」
ある意味立派だと感心するメロディだった。