10 同定だよ、おっかさん
スラムの少年ジャックは後悔のまっただ中にいた。
――仮病使ってでもフケるんだった…。
まさかジェンキンズが警視庁に乗り込むとは考えもしなかったのだ。これまで人混みを狙ってスリで稼いできた少年は、幾度も際どい場面を切り抜け逮捕を免れてきた。
――顔を覚えてる奴に出くわしたらどうしよう。
帽子を深く被り、ジャックはなるべく少年たちの奥に隠れることにした。
彼の前ではお貴族様らしき学生たちが妙なことをやっていた。ジェンキンズに集められた少年たちがこそこそと囁き合った。
「何やってんだ、あれ」
「あの箱、煙出てるぞ」
好奇心に駆られてジャックもこっそりとテントの様子をのぞいた。丸眼鏡をかけた三つ編みの少女がガラスケース内の玩具の汽車を睨んでいる。
「君たちはこちらに来て」
警官が彼らをテントに導いた。冷や汗を掻きながらジャックはおとなしく従った。
テント内には白衣を着た学生が並んでいた。やたらと派手な金髪の男子学生の周囲には鋭い目つきの男たちが配置されている。ジャックはあまり警戒厳重でない方に移動した。
「協力してくれてありがとう」
彼の担当は黒髪の男子学生だった。よく見ると結構な美男子だ。何かが塗られたガラス板を前に彼は説明した。
「これから君の指紋を採らせてもらう。まず、左の人差し指から始めるよ。手の力を抜いて」
少年を安心させながら、黒髪の男子学生は手際よくジャックの指をガラス板の上で転がし、紙に指紋を転写させた。初めて見る模様に少年は目を瞠った。
最後に右親指を採り終えると、男子学生は少年に微笑みかけた。
「これで終わりだよ、ありがとう。これで手を拭いて」
渡された古布で指のインクを落とし、ジャックはおそるおそる尋ねた。
「それって何なんですか」
「君の指紋だよ。これで君が触れた物と照合できるんだ」
――嘘だろ!
叫びたくなるのをジャックは必死で堪えた。こんな物が警察にあったら、スリもかっぱらいも犯行がバレてしまう。
動揺する少年の内心を知らない男子学生は、彼に札を渡した。
「君は六番だよ。あっちで待ってて」
警官に連れられジャックはとぼとぼと少年たちの待機場所に戻った。黒髪の男子学生――モーリス・プランタジネットは気掛かりそうに丸眼鏡の女子学生――メロディ・カズンズの方を見た。
やがてブリキの汽車に指紋が浮かび上がり、彼らCSI部は照合作業に取りかかった。
フェスティバルまでの約一ヶ月間、鬼軍曹と化したメロディの特訓で指紋照合の基礎を叩き込まれた学生たちは、王太子やメアリ・アンまでもが真剣に拡大鏡を覗き込んでいた。
緊張感漂う彼らにメロディが声をかけた。
「リラックスしてください。別に合致する指紋がなくても構わないんですから。要はこの手法があることを市民の皆さんに知ってもらえればいいんです」
そして、まず玩具に残る被害者の指紋分類から始めた。
「種別は右流れの蹄状紋」
部員たちは採取用紙にあるそれ以外の指紋を排除した。メロディは自身を落ち着かせ、天賦で拡大した指紋の情報を読んだ。
――完全ではないけど中心点は分かるし軸も取れる。いけるかも。
「中心点の半円内側に開始点と終止点」
指紋の最内にある半円の中に隆線が一本あることをメロディは伝えた。部員が更に該当しない指紋を排除していく。
「左側四本目に五本目との分岐点。五本目に開始点」
隆線の開始と終止(時計回り)、分岐と接合。これが指紋の特徴点である。特徴点が十二点合致すれば同一人物とみなされる。蹄状紋の最大の特徴となる三角州の形状をメロディは説明した。
「三叉の接合、左側に二本の開始点と終止点、下側に二本の開始点と終止点…」
視認できる特徴点を言い終わり、子爵令嬢は採取指紋をチェックする仲間を見た。既に五人が別人と確認し、最後まで指紋を見ていたノーマがうろたえた顔で彼女を見た。
「……これ、十二点合うんだけど…」
メロディは友人の元に行き、その採取用紙を凝視した。そしてブリキの汽車の指紋と見比べ、眼鏡を外した。青と茶色に分かれた虹彩が露わになり、見物していたディクソンが顔色を変えた。
「ダイクロイックアイ…」
子爵令嬢は二つの指紋に意識を集中させた。ガラスケースの反射を利用し、空中に映像を出現させる。
「投影」
見物客がどよめいた。ブリキの汽車からの白い指紋と少年の指から採取された黒い指紋が光の中に浮かび上がり、拡大され、同じ大きさになった。二つの指紋は角度を変えながらゆっくりと重なり、部分的な白い指紋が黒い指紋の上から隆線を隠した。はみ出た箇所はなく、それが同一の物だと見た者全てが理解した。
メロディは目を閉じた。指紋の映像が消滅する。大きく息をつき眼鏡をかけ直す少女を、白髪の捜査官は食い入るように見つめた。彼女は採取用紙の番号を確認すると、少年たちがいる場所に向かった。
用紙と同じ六番の番号札を持つジャック少年の前に立つと、メロディはスカートをつまんで礼をした。
「初めまして、ジャスティン・クリストフ・ライトル様」
周囲は騒然となった。
「あの子がライトル伯爵の?」
「本当に?」
「スクープだ!」
取材に来ていた記者が立て続けにフラッシュを焚く。騒動の中心で、ジャックは言葉もなく立ちすくんだ。
カーター警部が部下に小声で指示した。
「あの子の家に警官を行かせろ。親がいれば話を聞く」
制服警官がガズデン通りへと走った。それを確認し、警部は少年とメロディたち学園の生徒を群衆から保護した。
「さあ、とにかく庁舎の中に」
なだれ込むようにキャメロット警視庁のロビーに入った彼らは、入り口で野次馬を規制する警官に守られながら応接室に移動した。
「やってくれたな」
苦々しげに言うディクソン捜査官に、不本意そうにメロディが言い返した。
「最初は全員偽物だからお引き取りくださいって言うつもりだったんですよ。でも同定できちゃったんだから仕方ないじゃないですか」
「仕方ないですめばいいが。既に伯爵家にも記者が行っているだろう。これで間違っていたらどうするつもりだ」
「特徴点が十二点合致する確率は一兆分の一です。全大陸の総人口より多くの人がいなければ不可能な数字ですよ」
「計算上の話だ」
どこまでも懐疑的な捜査官とCSI部部長は真正面から睨み合った。どうしたものかとカーター警部が溜め息をつくうち、警官が入ってきた。
「失礼します、先ほど、ライトル伯爵夫妻が来庁されました」
訳が分からず混乱状態だったジャックは、観念したように警部に言った。
「…あの、俺、ずっとスラムに住んでて親父もお袋もいるんで、きっと人違いなんで……」
「あのジェンキンズという男は?」
「スラムの顔役で、断れなくて」
「奴の目的は?」
警部に詰問され、少年はぴくりと震えた。メロディが非難がましい目を彼に向けた。
「尋問は後にしませんか? 先に会いたい人たちがいるんだし」
その言葉と同時に応接室の扉が開いた。入室したのは品のいい夫妻だった。
「この子ですか?」
ジャックに目を向けながら夫の伯爵が警部に尋ねた。
「指紋照合という新しい技術で判明しました」
「そうだ、私も作業に加わった」
不安げな夫妻に請け合ったのはジュリアスだった。
「王太子殿下…」
慌てて礼をする彼らに、王太子は気にするなと鷹揚な態度を見せた。
「それより、その子に訊きたいことがあるのでは?」
伯爵夫人がジャックの前に膝をつき、そっと手を伸ばした。
「…顔を見せて」
硬直していた少年は、優しい手が髪を梳き、頬に触れるのを不思議な感触と共に受け入れた。伯爵夫人はそっと彼の右耳の後ろの髪を掻き上げた。そして、そこに星のような三つのほくろが並ぶのを見て嗚咽を漏らした。
「……ジャスティン…!」
「間違いないのか?」
肩を抱く夫に彼女は頷いた。
「あの子と同じほくろがここに」
うろたえるジャックは彼らにどう言えばいいのか分からない。そこに、ブリキの汽車を持って来たのはディクソン捜査官だった。
「見覚えはないか?」
ジャックに汽車を持たせ、彼は赤い瞳を揺らめかせた。少年は汽車から目を離せなくなり、やがて遠くを見る目で呟いた。
「……右前の車輪、壊れてた…」
その手に伯爵夫人の白い手が重なった。
「そうよ、そのままにしていたの。あなたが戻ってきたらすぐに直すつもりで……」
彼女は少年を抱きしめ泣き始めた。
感動的な場面を眺めながら、メロディはそっとディクソンに質問した。
「あなたの天賦ですか?」
「少し記憶を明瞭にしただけだ」
素っ気なく答えると、彼はさっさと応接室を出て行った。入れ替わりのようにモーリスが彼女の隣に立った。
「予想しなかった結果だな」
頷きながらも、少年のこれからは楽ではなさそうだとメロディは感じていた。