ソルサの神殿跡(4)
ソルサの神殿が建てられてから放棄されるまでには、900年もの時が流れている。その間にため込まれた財宝は、ドラゴンたちにとっても魅力あるものに違いなかった。祀られている多くの大神、そして、帝国史上の比較的早い時期に建造され、帝王や他の皇族の庇護下にあったことから、想像もつかないほどの巨万の富と、国の内外から集められた珍しい美術品や、希少な品々――魔法の品も含めた膨大な数の宝が蓄えられているのは間違いない。
それは、当然、人間にとっても耐えがたい誘惑となるものだ。だからこそ、それを求めて侵入する冒険者達も後を絶たず、運悪くドラゴンの手にかかって命をなくすものもあるわけだ――あのプレータ達のように。
最下層は、それまでの階層のような空気のよどみはなかった。何者かの進入がなくとも、ここに住み着いたドラゴン達が、時折、外界を出入りしているのだから当然といえた。
通路の幅は10メートルほど。天井はところどころ穴が開いており、外界から光が差し込んでいて、普通の人間であっても歩くのに困ることはない。壁のあちこちが崩れているのは、時の経つ間にこうなったものか、それとも、ドラゴンたちが動き回ったためか。左右に、大小の宝物庫の並ぶ通路を150メートルほど行ったところに、2つの宝物庫の間の壁が崩れ、無数の貨幣や宝石があふれ出しているところがあるのが見えた。
(ここか。
あのプレータたちがたどり着いた宝の山とは)
ならば、その陰に隠れて、ドラゴンがいるのだろう。そうと思しき場所から見えないところに場所を移し、心を研ぎ澄ます。これは魔法ではなく、五感を使わず――いわば、心眼でものを見る、アンデッドとしての能力の1つだ。離れたところや、他のものに邪魔された場所を見るには精神の集中が必要となり、時間もかかる。だが、相手が生き物であれば話は違ってくる。生き物の持つ、心の深奥――識を感知すれば、それで相手の様子がかなり掴めるからだ。見たことのない相手であっても、識を持ったもの――有情と、そうでない、ただの物品の違いははっきりと区別できる。
(なるほど、たしかに、居るのう)
ドラゴンとしては、それほど大きな個体ではない。だからこそ、財宝の山に隠れた姿を、あのプレータ達は見つけられなかったのだ。
(では、一つ、腕試しと行こうか)
魔法を使って姿を消す。相手からは自分の姿が見えなくなるが、自分の視界は何ら影響を受けない魔法。五感を持たないアランファルサートでなく、通常の、視覚を使ってものを見る者であっても、その効果に違いはない。
数メートルの高さに積まれた金貨や宝飾品の数々は、元からこの神殿にあったものか、それともドラゴンがどこかから集めてきたものか。わずかな光の中であっても、まばゆく輝くそれは、小さな王国がまるごと買えるほどの価値があるとさえ思われた。とはいえ、所詮は金銭的な価値だけのものでもある。その中には、魔法のかかった品や、魔法で作られた品、魔法を使う助けになる品といった者は全く含まれていない。
(物の価値は、見る者による、ということじゃな)
積み上げられた財宝の、裾野の方に寝そべるドラゴンを、アランファルサートは値踏みしていた。魔法の品を見抜く目が備わるほどの年を経ていないのか、あるいは、そういったものを手に入れるだけの力が足りないのか。頭から尾の先までおよそ10メートルほどの、黒に近い緑色をしたその姿は、人間にとっては確かに脅威だが、他のドラゴンから見れば、くちばしの黄色いヒヨコ、といったところか。とはいえ、決してその力が侮れるわけではなかった。
アランファルサートが近づいたのを感じ取ったのか、ドラゴンが目を開き、頭を上げる。その鼻先は、過たずにアランファルサートのいる方に向けられている。ドラゴンは、目に見えぬ敵を威嚇するように、低い唸り声を上げた。
(ほう、さすがにわかるか。
…所詮、こんな子供だましの通じる相手ではないわけか)
子供だまし、と彼は言ったが、実際のところ、それほど簡単に居場所を見破られるような魔法ではない。低い技量度で使用すれば、単に相手の目をごまかすだけで、聴覚や嗅覚の優れた相手にはすぐ見破られる。だが、アランファルサートの使用した術の熟達度なら、視覚に頼らない相手であっても、その居場所を見つけるのは容易ではないはずだった。むしろ、アンデッドとしてのアランファルサートの存在感――気配が強すぎ、さしもの高技量の魔法もそれを完全に覆い隠せなかった、というのが本当のところだった。
ドラゴンは、アランファルサートの気配を確信すると、やおら、その口を大きく上下に開いたのだった。あたかも、耳まで裂けるが如く、という、その例えそのままに。そして、開かれた口からは、淡いグリーンの蒸気があふれ出す。通常の人間、あるいは少々の能力のモンスターであっても、触れれば、たちまち皮膚が焼け、そして肉がただれるほどの高温の蒸気。それだけではなく、その蒸気そのものが、吐かれてしばらくして温度が下がったとしても、一息吸い込むだけで命を失うほどの猛毒だった。
(竜の息吹、か。
なるほど、聞きしに勝る恐ろしさよの)
たちまちの内に、宝物庫の中はグリーンの蒸気で満たされ、視界が通らなくなる。とはいえ、アランファルサートには何の脅威をもたらすものでもなかった。もっとも、それは、単にそこにいるドラゴンの未熟ゆえのことだった。
竜の息吹というのは、単に物理的な効果だけを持つものではない。ドラゴンそれ自体が多分に魔法的な要素を持った存在であるように、竜の息吹にも、魔法としての側面がある。魔法であるが故に、通常の物理的なダメージを受け付けない相手にも傷を負わせることができるし、通常の物理的な破壊力を超えた様々な効果を生み出すこともでき、最も強大な始祖竜の息吹であれば、高位の神々にさえ、傷を負わせ、命を危険にさらすことも可能でる。
アンデッドであるアランファルサートといえど、竜の息吹が剣呑なものであることに変わりはない。ただし、その脅威は、竜の息吹の物理的な効果ではなく、魔法的な力に限られる。若く未熟なドラゴンであれば、その息吹に含まれる魔力はわずかであり、アランファルサートの身を脅かすには不足なのだ。
(この息吹、人間なら、100人もが、たちどころに息絶えるであろう。
じゃが、既に死んだ身には、意味のないものじゃ)
ゆっくりと、アランファルサートはドラゴンの方へ歩み始めた。毒の息吹が通じていないのを悟り、ドラゴンの目に驚愕が浮かぶ。そして、アランファルサートが近づくにつれ、驚愕が戦慄に変わり、そして恐怖に変わる。そして、もう一度、その口から緑の蒸気が噴き出す。先ほどのような、部屋全体を満たす、ゆっくりとした息吹ではなく、アランファルサートだけを狙った、強烈な勢いの吐息。それを、アランファルサートは正面から受け止めた。その体がわずかに揺れ、幾分、後ろにのけぞったかと見えた。しかし、それでもアランファルサートの足は止まらない。
ドラゴンが吠えた。フロア全体に響く、振動と唸りを伴って。同時に、その前足がアランファルサートに向かって振り下ろされる。はずみで、たくさんの金貨や宝石が空中に巻き上げられ、まぶしく輝いた。だが、アランファルサートは少し体を反らせただけで、ドラゴンの一撃を軽く躱していた。
次の一歩で、アランファルサートはドラゴンの真正面に立っていた。そして、その右手が伸ばされ、ドラゴンの鼻面に軽く触れる。次の瞬間、まるで稲妻にでも撃たれたように、ドラゴンの体が大きくのけぞり、その口から悲鳴が上がる。ドラゴンの全身が痙攣を始め、少しずつ、全身を覆う鱗の作る陰影が、深くなっていく。
ドラゴンは身もだえしてアランファルサートから離れようとするが、すでに体の自由がきかなくなっていた。かすかに、四肢や翼を広げ、縮めることはできているが、大きく動かすことはできない。生命の根源である識が、ゆっくりとその肉体から引き剥がされていくのを感じていながら、ドラゴンには為す術がなかった。自分の命が奪われていく様を目の当たりにし、死が迫る数分の間、ドラゴンは、自分を見舞った運命の不条理さを呪っていた。
識を肉体に――ひいては現世につなぎ止めている力が弱まっていく。おそらくは、それは、目の前にいるこの何者かに奪われているのだ、と薄れる意識の中でドラゴンは考えた。やがて、視界がぼやけ、意識がゆっくりと消えていくのを感じたとき、ドラゴンは己の生命に終わりが訪れたのだ、と悟った。意識に続いて五感が消え、そして、訪れる死。この世とのつながりをたたれたドラゴンの識は、トワイライト・レルムへと消えた。
(なんとも、手応えのないことじゃ。
いや、そうではなく…)
驚いたように、また、呆れたように、アランファルサートが呟く。アンデッドである自分が、他の生ある者に触れたとき、これほどまでの影響を与えるとは、想像していなかった。軽く触れるだけで、人間を気絶させたり、相手の心に恐怖を呼び起こすことができるのは知っていた。しかし、幼生とは言え、ドラゴンにまで効果があるとは。相手を恐怖させるだけでなく、死を覚悟させ、そして実際にその生命を奪い尽くすとは。アンデッドのこの身に、一体いかほどの力があるのか。
これまでに知る、どんなアンデッドにもここまでの力はなかった。ネクロマンサーの傀儡となって動くスケルトンやゾンビは言うまでもなく、プレータ、マミー、ヴァンパイアといった意思を持ったアンデッドにも、生命そのものを引き剥がす力はない。ワイトのような、他者の生命エネルギーを吸い取るアンデッドもいるにはいるが、それとても、肉体に影響を及ぼすだけのことで、識そのものに直接手を出すことは適わない。
ドラゴンに触れたのは、このような結果を期待してのことではなかった。ただ、ドラゴンの持つ強大な生命力に、自然と引き寄せられて、手が出ただけだった。まるで、自分の知らない何者かに導かれたように。そして、竜の息吹をそのまま受けたのも、深い考えがあってのことではなかった。ただ、あの息吹で何か悪い影響を受けることはない、という漠然とした確信だけがあったのだ。
(面白い。
この身の力、どれだけのものか、試す価値がある)
アランファルサートは、床に散らばる財宝には目もくれず、通路を奥へと進んでいった。100メートルもいかないうち、通路に数人の足跡があるのに気づく。床の上に積もった埃に刻まれたそれは、まだ、人が通って間もないことを示している。
(ここへ入ってきた者たちか)
上で感じた気配を、アランファルサートは思い出していた。この足跡は、彼らが残したものだ。足跡は、右側の通路の奥から続いており、そちらを見ると、天井の穴から陽光が射しているのがわかる。そして、光の中、数本のロープが垂れ下がり、かすかに揺れているのが見て取れた。
(なるほど、あの穴から入ってきたか)
それで、侵入者たちは、今アランファルサートが仕留めてきたドラゴンとは遭遇していなかったわけだ、と合点がいく。足跡は、通路をまっすぐ進み、その先の階段を下って続いている。足跡の様子から、何度も立ち止まり、床や壁の様子を確かめ、罠に注意し、周囲の様子を確かめながら進んでいる様子がわかる。それは、彼らが経験豊かな、注意深い冒険者たちであることを物語っている。少なくとも、あのプレータたちとは経験の深さが違うのは間違いない。
アランファルサートは、足跡を追って先へ進んだ。階段を降りたところの両側には扉が開かれた宝物庫があり、人が入り込んだ様子があった。中はきちんと整理されていて荒らされた様子はない。侵入者たちが中へ入ったのは間違いないが、乱暴に中のものに手を付けることはなかったようだ。
(略奪者ではないのか?
…それとも、先に中を調べてから、獲物をあさるつもりであるか)
宝物庫の棚には、いくつもの箱や袋に分けて、金貨や宝石、装飾品の類が大量に保管されている。しかし、宝石類はともかく、金貨や銀貨は重い。作られた時代にもよるが、大きめの金貨は1枚が数十グラムもあり、そんなに大量に持ち運べるものではない。
財宝目当てであれば、なるべく価値の高い宝石類を漁ろうとするし、大量の財宝を持ってこの地下を歩き回るのは、その重さと嵩から、大幅に行動を制約されることになる。まして、モンスターに遭遇し、戦闘になる危険を考えれば、持ち歩く財宝は少ないに越したことはない。
なので、見つけた財宝を、手当たり次第に持って行くのは、賢い冒険者のすることではない。何度も侵入して、少しずつ財宝を持ち出すことを繰り返すのであれば、見つけ次第に財宝を持ち出すこともできるが、この神殿のように人里から遠く離れた、基地の確保のできない場所では、持ち出した財宝を保管する場所がないので、その方法は採りづらい。
したがって、まず、宝物庫の中を確認し、それから価値のありそうな物だけを持ち出そうとするのは、決しておかしな方法ではない。
そう考えて宝物庫をでたアランファルサートは、前方から、明らかに戦闘によるものである物音が響いていくるのを感じ取っていた。
(侵入者達が、モンスターに出会ったか。
…相手は、ドラゴンじゃな)
その気配から推して、先刻アランファルサートが遭遇したのよりも、幾分年を経たドラゴンのようだ。ゆっくり近づいたアランファルサートは、宝物庫の中で、7人の冒険者達がドラゴンを相手に戦いを繰り広げているのを目の当たりにした。
財宝の山の上に寝そべった形のドラゴンを、パーティーが取り囲んで攻め立てている。そして、よく見れば、そのパーティーは人間だけで構成されているのではないとわかる。1人、すらりと背が高く、とがった耳をしている女はエルフだ。そしてもう1人、人間よりもがっしりとした体格で、2メートルを超す大男。その頭にはっきりと見えるのは、2本の角だった。