89.彼女との絆
ルーシェは山道を馬で駆けていた。
街から離れるにつれて、勾配の急な山道となる。馬が足を取られる度に、見事な手綱捌きで切り抜けていく。
早く、もっと早く!
はやる気持ちに後押しされて、ルーシェは夢中で村をめざした。
この話を聞いたのは昨日の夜のことだった。
イザに呼ばれ、執務室へと向かうと見覚えのある背中が前を歩いていた。
「ライック師団長」
声をかけると、いつもの調子で片手を上げて挨拶を返してきた。ライックが来たということは、状況が動いたということか…。ルーシェは自分が呼ばれた意味を探る。内偵か、撹乱か…自分の使い道としてはそんなところだろう。マオの情報は入らない。傭兵としてここにいる以上は仕事は完遂するつもりだ。
目的地はどうやら一緒だったようで、ライックの後ろについて入室する。ライックはさっさとソファに腰かけて手招きしてくる。イザが渋い顔をしている。私を誘道連れにしないで欲しい、ルーシェが困っていると、イザに座ってくれと言われ、渋々ライックの隣へ腰掛けた。
「ルーシェ、山の中にあるエルポの村に行ってくれ。そこにマオがいる」
イザの話は前置きなく始まった。
そして、真緒のこれまでと、今の状況が伝えられた。
沈痛な面持ちで話をする二人に対して、ルーシェは怒りに燃えていた。真緒を利用させない、強く心に誓い、二つ返事で了承したのだった。
「エルポではマオを護りにくい。できたらベルタに来るように説得してほしい。王都に戻りたくないだろうから」
ライックもいつもは絶やさない笑みを消し、
「あの王太子には国へお帰りいただく」
低い声で言い放った。好き勝手をするのもここまでだ、その言葉にイザに緊張が走ったのがわかった。
ルーシェはその足で宿舎に戻ると荷物をまとめ、早朝の出発に備えた。
エルポの村は数軒の慎ましい家屋が点在する、ベルタへの山道ルートから外れた窪地のようなところにひっそりとあった。ルーシェは馬を繋ぎ、村を見回す。
目的の家はすぐにわかった。
外にいたヘルツェイと目が合ったからだ。
視線で問うと、ここだ、と返ってきた。
ルーシェはヘルツェイとの関わりは初めてだったが、テリアスの腹心であったことは知っている。あの宰相が後継につけた男。取引をしてまで 真緒の護衛につけた男。背中にゾクリと走る。
それと同時に湧き上がる高揚感、この男と交えてみたい、強いものとのやり取りを臨む闘うものの相がルーシェを捉えていた。
近づくと、ヘルツェイはルーシェに、エドだ、そう名乗っている、と告げた。了承の頷きを返すと、手合わせは後だ、と肩を叩かれた。まだまだ だな、相手に筒抜けとは、ルーシェは苦笑いを浮かべて玄関を入った。
身体を拭きたかった。
何度拭っても、あのざらついた唇の感触が肌を攫ってゆく。椅子の背もたれにタオルを通して右手でネジネジして搾り上げる。胸元にある赤紫の痣が、過去のものにすることを許さず、真緒の記憶から無理矢理引き摺り出すのだ。肌が赤く擦れてゆく。それでも真緒の手は止まらなかった。
取り憑かれたような行為に溺れていた真緒はノック音に気付かなかった。
後ろから抱き締められて、身体が強ばった。
「マオっ!ダメ!」
声が耳に入ってきて、真緒の手が止まった。ノロノロと顔を後ろに向け、見開いた目に大きな涙を浮かべた。
「…ルーシェ…?」
この世界にきてできた女友達。頼りになるお姉さんでもあり、気のおけない話ができる相手だった。
ルーシェは真緒の正面に回ると、その手からタオルを奪い取った。慌てて隠す真緒の手を押さえる。露わになった上半身はアザだらけ。そして、赤く擦れた胸元には赤紫の唇の華が咲いていた。首筋にもそれをみつけルーシェは息を呑んだ。
「肌が真っ赤よ。擦ったらダメ」
真緒を自身の胸に引き寄せて、強く抱き締めた。背中をさすり、短い髪を撫でる。
真緒の涙は 止めどなく溢れ出し、始めは堪えていた声も、堰が切れたように放たれた。ルーシェの服を掴む手は力が入り、真緒は顔を押し付けた。
ルーシェの温かさに包まれて、ようやく泣いた。
我慢して押さえつけた感情を解放すると、泣き疲れて眠りに落ちた。怖かっただろうに。寝顔にタオルを乗せて髪を撫でる。ベッドに横たえると、手を握り返してきた。いかないで!そういってるようだった。
未遂だときいている。それでも、だ。好きでもない男に肌を許すことは耐え難い恐怖だっただろう。
アルタスを許さない。
それよりも、馬で駆ける距離にいながら護れなかった自分を 許せなかった。




